005
「それで、話というのは?放課後に僕をこんな人気のないところに連れ出しておいて、愛の告白でないならなんなのさ」
無論冗談である。
屋上――と言っても目ぼしいものは何も存在しない。ふきっさらしの屋上はせめてもの防護柵があるくらいで、僕でもロマンスの欠片もないと一目で分かるほどである。
昼間、子供たちがきゃあきゃあと騒ぎ立てる公園の方がまだ雰囲気は出るのだろうが、だからこそこの屋上は、人に聞かれたくない話をするにはもってこいな場であるのには違いない。
「あら、告白するのは何も愛だけだとは限らないんじゃない?あなたの恥ずかしい過去を話すことも告白になるんじゃないかしら。隠していたことを話すという点に置いては、ね」
隠れる場所すら存在しないが、それでも彼女は不十分らしく、給水塔の裏まで回ったところで満足したのか、わざわざ初期位置にまで戻って振り向きながらそう答えた。せめてもの雰囲気作りと言ったところか。たくましいエンタメ精神である。だてに演奏家を名乗っていないということなのだろうか。
「まあ、どっちでもいいさ。僕を放課後に呼んでまでしたい話というのを聞かせてもらえるんならね。簡潔にまとめてくれるならなおよしだ」
「それは私と同意見ね。それじゃあ本題に入らせてもらうけど、初めにこれだけは聞いておかなくちゃね。一、だけに」
そう言って彼女はまっすぐに僕を見た。ギャグとも分からん最後の一言は無視。
「一君、改めて問うわ。あなたにはもうあの舞台へと上がる気持ちは微塵もないのかしら?或いは未練でもいいわ。私に勝ち逃げしてあなたは満足したのかしら?」
どうやら、今朝の第二ラウンドということらしかった。僕を指さしながらの言葉ということを考えると一種の挑戦状とでも言っておこうか。今朝の僕はベッドの上だったし。受けて立つにはやや威厳が足りなさすぎる。
「今の僕を見れば一目瞭然だとは思うけどね。ましてや君ならなおさらなんじゃないか?」
「勝ち逃げするようなちっぽけな人間だと?」
「そう思ってくれても構わない。そもそも君だって、君に負けて自分の才能に絶望し、諦めた人間をいやというほど見てきたんじゃないのか?それこそ鍵盤上の暴君と呼ばれるほどにさ」
「勝負に負けて挙句の果てには試合にも負けたあんな人達、どうでもいいわ。仮に自殺しようが私の知ったことではないわね。私に盤外戦術を仕掛けてくるというのなら話は別だけど」
――おお、怖い怖い。
「だけどあなたはそうじゃないでしょう?一君。少なくとも私はあなたとの試合に勝ってはいない」
「でも、勝負には勝ってはいるだろう?現に今の僕はその他大勢の君が打ち砕いてきた人間となんら変わりない」
「そんなことは問題にすらならないわ。私があなたに負けたままというのが一番の問題で唯一の問題なんだから」
「なるほど。それで君の目的は僕を再びあの世界へと戻らせるということという訳だ」
「それが全てではないけれども、そう言うことね。私がわざわざこの学校に来たのもそれが理由よ」
「つまり、僕を再び鍵盤上へと上らせておいてそんでもって僕を再び叩き落すことが君の目的だと、そう言うことでいいんだね?」
当然の結論。
やはり、彼女がこの学校にやってきた理由は僕に再戦を挑むためらしい。その上で僕を完膚なきまでに叩き潰したいのだろう。ただ単に、かつて僕を潰した自責の念に堪えかねず、僕をあの世界に引き戻そうと彼女が気をもむわけがない。それは何より彼女が今まで積み上げてきた屍の数が物語っている。
しかしやはり、彼女は誰よりも負けず嫌いであるという僕の推測は間違っていないらしかった。たった一度の敗北でここまでされると、むしろ恐怖すら感じるけども。例え、彼女の容姿が整っていようが怖いものは怖いのだ。むしろ、だからこそとも言えなくない。
「何よ。文句でも言いたいわけ?」
「いや、まあ文句はいくつもあるけれども、まあ君に言ったって無駄なことだというのはここまでを見れば誰だって分かることだろうし、今更宣うつもりはないさ」
「じゃあ何?」
「単純に、ピアノ人生を既に諦めているこの僕を今更叩きつぶしたところで、果たして君がわざわざこの学校にくるまでのメリットがあるのかと思ってね。あくまで僕の予想だけど、今の君は日本にいる余裕はないんじゃないか?君も少しばかり匂わせてはいたけれども」
「つまり?」
「つまり、意味が分からないということだ。君の輝かしいキャリアを投げ捨ててまで僕に執着する理由が生憎と僕には考えつかない」
「当たり前じゃない。凡人なあなたがこの私の崇高な考えに思い至るなんてある訳がないとは思わない?」
「それじゃあ凡人な僕が聞くけれど、君のその崇高な考えを僕は聞かせてもらえるんだろうか?もしかしたら、あまりの素晴らしさに僕が感動して自分からあの舞台に舞い戻る可能性も無きにしも非ずだとは思わない?」
「確かに、その意見には一考の価値があるけれど、だけど確証はないんでしょう?それに私にはそれをするよりももっと確実で簡単な方法があるんだし」
「言っておくけど、僕を物理的にどうこうするのは犯罪を犯さない限りほとんど不可能だと予め述べておくよ。1000回既に殴られた僕はちょっとやそっとの脅しには屈しないんだ」
「たった一度の敗北で諦めるような軟弱者に言われる筋合いはないとは思うけれど……まあ、いいわ。あなたの為に一応言っておきましょう。あなたが私の手から逃れられることは絶対にないってことをね」
またもや彼女は指をさす。
「それにはちゃんとした根拠があるんだろうね?流石に虚言でうろたえる僕じゃあないんだ」
「じゃあ、あなたにその忍耐力をつけた張本人と協力関係を結んでいると言えばどう?まあ流石に期限付きではあるんだけど。それでもあなたは私に抵抗できるのかしら?あなたが気絶している間に私と音無先生は協定を結んだのよ」
「それはまさしく虚言だね。あの唯姉が人と協力するわけないじゃないか。いつも僕の懇願すら聞き入れずにノータイムで殴ってくるような人だぞ?」
「それじゃあ試しに一週間音無先生にあなたを殴らないようにお願いをするわ。一週間何もなかったら流石に私の発言を認めざるを得ないんじゃないかしら?」
「いいや、甘いね。唯姉は気分屋だからそれぐらいの休息期間は偶にある。天文学的確率とは言わないけれども、しかし君の発言を認めるにはやや高すぎる確率だね」
「それじゃああなたから何か条件をつけなさいよ。流石にあなたの言う言葉通りに音無先生が行動したら信用するでしょう?」
「そいつは良い提案だ。そしたらこの一週間のうちにもし唯姉が僕に謝ってきたのなら君の発言を認めるとしよう。今まで1000回も殴って悪かったと自分の非を詫びたならば、僕は君を認めよう」
ノータイムでそう僕は条件を出した。まあこれ以上ない条件だろう。あの唯姉が非礼を詫びるなんてこと天地がひっくり返ったところでありはしない。
「言ったわね」
「ああ、言ったよ。男に二言はない」
「いい返事ね。性根はあいも変わらず腐っているようだけど」
「うるさい。それで僕の提案を飲むのか飲まないのか、君の答えはどっちなんだ?」
「勿論Yesに決まっているじゃない。だけど、勝利の報酬が私の発言を認めるってだけじゃ少し味気ないわよね。どう?」
――いや、『どう?』と首を傾げられても困るだけなんだが。確かに味気ないのは僕も認めるところではあるが、しかし彼女との会話に味を求められても正直困る。出来るのならば少なくとも学校では関わってきてほしくないというのが本音だ。これならまだ唯姉に殴られていた方がいくらかまだましである。精神的に。
「それじゃあ何か条件でも追加する?例えば、唯姉が謝らなかった暁には君が僕の望みを聞いてくれる、とか」
「それは良いわね。それじゃああなたが今提示した条件を私もあなたに課そうかしら」
――一応、はったりのつもりだったんだが。
流石にそこまで自信ありげに言われると少しばかり不安になるというものだ。だが、もう口に出した以上、既に引くに引けないところまで来ている。
「本当にいいのかい?なんでも、だよ?」
「ええ。何でも。別にあなたに処女を散らされようが、私には構わない」
「……」
「どうしたのかしら。まさか今更発言を取り消すなんて言わないでしょうね?」
――いや、まさかとは思うが、今まさにとんでもない爆弾発言をしたことに彼女は気づいていないとでも言うのだろうか?そりゃあ向こうの方ではそんな軽口も言うのかもしれないけれども、ここは日本で、しかも僕は高校二年生、つまり思春期の真っただ中である。僕が腐りきっていることを考慮に入れたとしても、そんな環境で言えることではまずないだろう。彼女の貞操観念をまず疑いたくなるぐらいだ。
「むしろその逆だ。その日になってやっぱり勝負はなしなんて言い草は認めないからな?」
「当たり前じゃない。それにあなたは狼狽えているようだけれど、だからこそもう一度言うけれど、別にあなたに処女を捧げても私はなんら問題はないのよ。それこそあなたがあの世界に戻って来ると言うなら交換条件にしてもいいぐらいにね」
「……」
――絶句である。もうこれ以上話を引き延ばす必要はないだろう。彼女から逃げおおせることは多分僕には出来ない。そう確信してしまうほどに彼女のそれには気迫があった。
「返事は?」
「イエスだ」
「いい返事ね。それじゃあ一週間後またこの場所で。私はこれからレッスンがあるからここらでお暇させてもらうわ。戸締りはよろしくね」
「了解。それじゃあ……」
――「また来週」と言い切る前には既に彼女の姿は屋上にはなかった。そして、僕はたまらず倒れ伏す。散々日光にさらされた屋上は、日中に溜め込んだ熱をまだ放射しきれていないようではあるが、そんなことはお構いなしに僕は倒れ込んだ。彼女との会話にはそれだけのエネルギーを必要としたのだ。
羞恥心が殆ど希薄な僕であっても、年頃の美少女の『処女を散らす』なんて言う言葉には面食らったようで、熱々の屋上が冷め切り、冷たさすら感じる時間になっても僕の体制は変わることなかった。星がきれいだなぁ、なんてことを柄にもなく考えてしまうほどには、僕はグロッキー状態だったのだ。