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さて、今までの彼女と僕のやり取りを見て、僕達の仲が良いと一瞬でも脳をよぎった人が仮にいるのならば、すぐに脳外科、或いは精神科を受診することを強くお勧めしよう。
確かに、僕達は顔見知りではあるけれども、顔を突き合わせたのは今日で二回目である。
しかも最初に出会ったのは一年以上前。ほとんど初対面と言っていいほどの関係性である。それにいくら出会ったとはいえ、鍵盤上もといピアノを介して少しばかり勝負をしただけで、会話は一言もしていない。音楽に国境はないという言葉はあるけども、僕らは言葉のいらない殴り合いを一度しただけに過ぎない。喧嘩するほど仲がいいとは言われるけれども、しかしその喧嘩には仲の良し悪しは抜きにしておいて確かな付き合いが根底にある。
そして、僕達にそれは存在しない。出会いがしらのストリートファイトの方がまだ声を出せるだけましと言った感じである。
そして、彼女と僕の殴り合いはルール上では僕の勝利で幕を閉じた訳だが、再戦することはなかった。別に彼女が別の世界に行ったわけでもないし、僕がさらなる高みへと旅立ったという訳でもない。話は至極単純で、僕がその勝負の世界から身を引いただけである。
こう言うと、僕がついに鍵盤の世界を制し、そして満足して、引退したとでも捉える人もいるのだろうが、しかし話はそんなに美談という訳ではない。もう分かりきってはいるだろうが、僕は諦めた故にその世界を引退したのである。いや、引退と言うとまだぬるい。僕は尻尾をまいて逃げ出したのである。別に自虐という訳でもない、それは彼女のくちぶりからも分かるだろうし、僕も先程会話で明言したが、断然たる事実である。
忘れもしない中学校三年生の冬だった。年内に予定していたコンクールへの出場が全て終わり、当時、同年代では敵なしとまで言われていた僕は、暇なのもあって何の気なしに、地元のとある小さなコンクールに出場した。
運営側は僕が出ると知り、上を下への大騒ぎだったらしいが、しかし奢りに奢っていた当時の僕はそんなことなど気にも留めず、いつも通りに会場に足を運んだ。古臭い小さな会場だと心の中で文句を言ったことを覚えている。今思い出すと、憤死してしまいそうだが、当時の僕は寡黙を気取っていたのである。
僕の演奏順は最初、そして彼女は最後だった。
勿論、会場の良し悪し程度で調子を崩すような僕ではなく、いつも通り楽譜通り、完璧に演奏をし、そして演奏が終わってからはコンサートホールの外でいつの間にか集まっていた地元の取材陣へのインタビューをこなし、そして気まぐれに他人の演奏でも聞こうと、僕が再びホールの中へ戻ってきた時に丁度彼女の演奏が始まった。
事の詳細は省くけれども、要は彼女の演奏を聞いて僕は才能というものに絶望し、ピアノというものに嫌気がさしたのである。
そして進学が殆ど決まっていた音楽学校を辞退し、たまたま唯姉が務めていたここ私立千色高校へとほとんど拾われる形で入学したのだった。因みに千色高校のモットーは『個性的であれ』の一つのみであり、入試はあったけれども、面接の比重が大きかったので助かった。当時の僕は勉強する間もなくピアノに没頭していたからだ。
まあ、正直言って語るまでもない、一人の少年が自分の才能に絶望し、人生を賭して歩んでいた道を勝手に諦めたというだけの、ごく普通のありふれた話である。
一つだけそんな話に色を付けるとしたら、彼女の演奏には人を絶望へと叩き落すだけの迫力と強さがあったことぐらいだろう。コンクールという制度の都合上、総合的に完成度の高かった僕が一応最優秀賞を受賞したものの、恐らく賞状と盾をもらう僕は死んだ魚に申し訳が立たないほどに、暗く、生気というものが全く感じられなかったに違いない。それほどまでに彼女の演奏は圧巻だった。
その後の記憶はほとんど僕にはない。高校一年生の記憶も思い出も全くと言っていいほど僕には存在しない。ただ唯姉に1000回殴られたという確かな記録しか僕には残っていない。次点で、厚さすら持ち合わせる赤点の答案用紙の数々。つまり、僕はこれ以上ないほどに腐りきってしまったのである。ただ惰性でのみでしか生きることのできない、人間未満の存在に成り果てたのである。或いは唯姉の拳に恐怖するというプログラムのみをかき込まれたロボットと言うべきだろうか。
正直言って、唯姉以外の人間とまともに会話したのも恐らくそれ以来である。まあ、思ったよりも喋れたとは思ったけれども。意外と会話というのは一年そこらの期間で出来なくなるというものではないらしい。