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002

「知ってる天井だ……」

 僕が次に目が覚めたのは今まで幾度となくお世話になった保健室のベッドの上だった。しかし、いつもと違うことが一つ。

「知ってる顔だ……」

 僕の隣には本日の元凶の一端を担う、人呼んで鍵盤上の暴れ馬が大人しく座っていた。僕の顔をまじまじと見ながら。横目でまじまじとは中々のものだ。手元には開かれた本があるというのに、それも絶賛ページをめくっているというのに、僕は確かな視線を彼女から感じた。

「僕の顔に何か問題でも?確かに今日の唯姉の拳はいつもより強かったからね、もしかしたら骨格が歪んでいるのかもしれない」

「いいえ、歪んでいるのはあなたの心よ」

「もしかして僕、ナチュラルに悪口言われてる?」

「いいえ、ただの正論よ」

 開いていた本を閉じ、彼女は僕にそう返した。どうやらしおりは使わない派閥の人間のようだ。

「そりゃあありがたい」

「どういたしまして」

 どうやら僕の脳みそもエンジンがかかってきたらしい。完全に意識が覚醒した僕は上体を起こす。

「それで授業は?まさか転校初日からサボタージュなんてやめてくれよ?こう見えても出席日数ギリギリで赤点ギリギリなんだ。君のサボリまで面倒はみきれない」

「さて、あなたのどこをどう切り取ったら私があなたを優等生と思うのかは疑問が残るところではあるけれど、お生憎様。そこにある時計でも見たらどう?」

「時計?」

 そう言われて素直に彼女の指差す方向を見やる。枕元に何故か置かれていた掛時計は8:45分を示していた。それが指し示す事実はつまり――

「なるほど。君は半日もの間僕を介抱してくれたという訳か。いやあ、失敬失敬。今まで幾たびも唯姉に殴られてはきたけれども、これほどまでに気絶しているというのは初めての経験だ」

「何処をどう読み取ったらそうなるのよ。どうやら本格的にあなたは堕落したようね。顔でも洗ってきたらどうかしら。流石のあなたも陽の光を浴びさえすれば自分の愚かさに気づくでしょうから」

「生憎ともうすでに一日の日光摂取量は許容量を超えていてね。君は知らないのかもしれないけれど、僕はこの春休みという期間中ずっとニート生活を送ってきたんだ。既に必要な分のビタミンの生産は終えている」

「それを胸を張って言えることに私は少しばかり苦言を呈したくなるわね。それにニートというならちゃんと根無し草と言いなさい。neatの方だと勘違いする人が出てくるかもしれないじゃない。そもそもあなたって碌に海外に行ってないんだから、知識人ぶるのもどうかと思うけど」

「その口ぶりから察するに、どうやら海外暮らしが多いようなので言っておくけども、ニートという言葉は今や現代日本において確かな市民権を得ているんだ。君の言う方に取り違える方がまれだと僕は思うけどね。あと、それに君は英語圏の生活が長いわけじゃないだろ?音楽の本場はヨーロッパだ」

「あら、これは一本取られたわ。まさかニート生活を送るあなたが現代日本の情勢はおろか音楽の世界にも精通しているとは夢にも思わなかった私の負けね」

「今やニート生活をしている方が何かと精通しがちなのさ。IT業界の恩恵を一番受けている存在だからね。知りたいことはクリック一つで何でも調べられる」

「……はあ、全くあなたっていう人間は」

 根本的に呆れられた。正直自分で言っていて情けなくなる部分もないではないが、しかし彼女から一本を取れたのなら安い安い。まあ、そもそも彼女から一本取ったところでどうという話でもないけれども。気分的には既に彼女に百本は取られている。具体的には一年ほど前。

「まあ良いわ。それより早く教室に戻りましょう。今から戻ればまだギリギリ間に合うわ。それに、私の学校生活を本当に心配してくれているのなら、私についてきてくれると有難いんだけど。まだイマイチ学校の構造を把握していないのよ」

「そう言うことならお安い御用さ。僕は誰かを蹴落として快感を得るような変態じゃあないんでね」

「あら、それだとまるで私が変態みたいな言い草じゃない。そもそもの私が誰かを蹴落としているという言い分も間違ってはいるんだけど。周りが勝手に私に恐れをなして消えていくだけのことよ」

「はた目から見ればその二つにほぼ差はないと思うんだけどね」

「私からすれば大違いよ。そこに私の意思があったかどうかは結構大事なことだと思うんだけど?」

 ――まあ、そう言われればそうだろう。

 ただ、外野から見れば彼女の意思の有無にかかわらず、彼女が対戦相手を完膚なきまでに叩き潰し、その相手は漏れなく業界を去るという事実は変わらない。

「まあ、私に恐れをなして逃げた有象無象はどうでもいいのよ。問題はあなたがどう思っているのかということね。傍観者気取りでいるようだけど、あなた自身はあの日のことをどう思っているのかしら?」

 どうやら、わざわざ彼女が僕に付き添った理由は僕にそれらしい。そもそも、今更一年以上前のことを掘り返したところで意味もない気もするけども。

「……言うとしたら、試合に勝って勝負に負けた、かな。兎にも角にも君に対して尻尾をまいて逃げたのは疑いようのない事実だ。それを蹴落とされたと言われれば僕は認めざるを得ない。無論、反論もない」

「なるほど。それであなたは未だに負け犬のままという訳ね。私はおろか実の姉にも負け続きなんてみっともないったりゃありゃしないわ」

「否定はしないよ」

 まあ、あの姉に純粋な力勝負で勝てる人間が果たしてこの世にいるのかどうかと聞かれれば、素直に首を振れないところではあるが、しかしその前提条件を抜きにするのならば、その指摘はごもっともである。

「それじゃあ、今のままでいいと?現状で満足だと?」

「特別何かしようとは思わないね。まあ、強いて言うなら唯姉から殴られることがなくなれば万々歳といったところかな」

 これも本当である。千回殴られてもがたがまるで来ない自分の体の強靭さに驚かないところではないが、それにしても殴られずに済むのなら僕は遠慮なくその選択肢を選びたい。

「……因みに、私がそれを変えてあげると言ったら?」

「君が僕を?」

 彼女の口から発せられた予想外の言葉に思わず彼女の方を見た。しかし、どうも嘘を言っているわけではないようだ。彼女の目にはそう思わせるだけの強い意志が見て取れた。

「具体的には?」

 正直言って、朝の一件からここまでの話の流れから推測するに、文化祭云々の話だとは思うが、まあ彼女の口から直接聞いた方が良いに決まっている。

「音無先生も言っていたでしょう?文化祭で私たちの二重奏を披露するのよ。そうすればあなたもまた表舞台で輝けるんじゃないかしら。まあ、そうでなくとも生きる気力ぐらいは取り戻せるんじゃないかと私は睨んでいるんだけど。トラウマ払拭という訳ね」

 ――なるほど。そう来たか。

 その作戦の良し悪しは抜きにして、目の前で自信に満ち溢れている彼女は発案者且つ仕掛け人であるのは事実に違いない。確かに、唯姉が彼女がこの学校にやって来ることを事前に知っていたことは事実としてあるのだろうが、しかし手引きしたとは到底思えない。唯姉が仮に発起人だとするならば、既に去年の文化祭で実行に移されているに違いないのだから。唯姉に待ては通用しない。

 その結果得られる結論は彼女がこの高校にやってきた理由は間違いなく僕である、ということである。別に思春期にありがちな妄想という訳ではない。ただ純粋な客観的思考の結果である。あの日以来の彼女の計歴は知らないが、彼女の演奏家としての人生で土をつけられていない唯一の人間が僕であるのは彼女の言葉から容易に推測がいく。それに、ほとんど一度しか彼女と接点はないものの彼女が負けず嫌いなのは、日の目を見るより明らかだ。得てして勝負の世界に身を投じる人間はそういうものだし。何よりも彼女がいる世界、僕のいた世界は一人の世界なのだ。頼れるものが自分以外に存在するチームスポーツとは訳が違う。頼れるのは自分以外に存在しない。

 となれば話は単純で勝ち逃げを許さないという子供じみた感情で僕を追いかけてきたに違いない。全く見上げた執念である。とても僕には真似できない。しようとも思わないが。

 まあ、他にも理由はあるんだろうが、しかし取るに足らない些細なことであるのは事実だろう。

 で、あるならば。僕の返事は簡単至極なものだった。

「謹んで遠慮させて頂きます」

 ベッドの上で申し訳ないが、ここはご遠慮させてもらおう。確かに唯姉の拳から逃れられるのは魅力的ではある。が、しかし僕にもう一度ステージに立てというのならば話は別である。何より、僕はあの世界から身を引いて一年以上経っている。そんな状態で僕の演奏を披露したところで、トラウマの上塗りになるだけである。

「まあ、そうね。あなたがどうしてもというならこの私も手伝ってあげないことは……ってえ?今なんて?」

 だがしかし、僕の誠意のこもった謝罪は聞き届けられなかったらしい。

「君の申し出は受けないといったんだ。ステージで演奏するのがお好きなら一人で勝手にどうぞ。僕は後ろでサイリウムでも振りながら一観客として楽しませてもらうからさ」

「そんな言葉で私が諦めるとでも?」

「流石にそこまで僕も馬鹿じゃないからね。文化祭までの約一月、僕は逃げに徹させてもらうとするよ」

「この私から逃げ切れるとでも?使える手を全て使ってあなたを見つけ出したこの私から?」

「勿論、簡単にいくとは思っていないさ。無論勝算はあるけどね」

「ふーん。例えば?」

「それを教えちゃフェアじゃない。仮に君がどうしてもというなら言わないでもないけど。頭を下げられちゃあ、流石に、ね?」

「いいでしょう。そしたら勝負といこうじゃない。ルールは単純、文化祭当日のステージにあなたを立たせられれば私の勝ち、そうでなければあなたの勝ち。これでどう?」

「具体的なルールは何もなし?」

「勿論。何でもありのデスマッチよ。先に言っておくけどあなたの家族を人質にとるぐらいのことはするわよ?」

「出来るものならしてみなよ。生憎、僕の肉親は唯姉だけと言っていい。彼女を人質にとれるだけの力量が君にあるというのなら大人しく僕は降参するよ。大人しく両手に縄をかけると誓ってもいいぐらいさ」

「言ったわね。言っておくけど一度言った言葉を訂正するような男は私、嫌いよ?」

「おっと、初めて意見があったね。僕も一度言った言葉を捻じ曲げるような女は好きじゃないんだ」

「それは結構。だけどどうやらこの勝負私優勢で始まりそうね」

「はて。それはどういうことかな?」

「その時計を見たらすぐに分かるわよ?」

「……ふーん。なるほどね。どうやら僕も本気を出さなくっちゃいけないみたいだ」

 初犯と再犯ではその罪の重さは異なる。

 さっきまで8:45を示していたはずの時計の長針は既に二週し、あろうことか10:00を示していた。彼女は思った以上に策略家らしい。

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