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「ただいまー」

 僕がその日、家に帰り着いたのは太陽はおろか月すら西の空に沈みかけている頃だった。勿論、体力はほぼゼロである。あの後文化祭で多少エネルギーを補給したものの、彼女を家まで送った時点で相殺されている。我が家からバイクで一時間はかかる距離なのだ、帰りはバスを使ったとは言え、僕の疲労感はもう、筆舌に尽くしがたいものとなっていた。

 と、いう訳で、僕は鉛よりも重たくなったカバンを自室のベットへと放り投げ、それから誰も居ないリビングに隣接するキッチンで疲れ切った体にムチ打ち、夕食の準備を始める。

 正直今すぐにでも寝たいが、唯姉がそれを許さない。夕飯が出来ていないと知られては鉄拳制裁が待ち受けているのだから。

 だがしかし、唯姉はリビングはおろか家自体にいなかった。文化祭の打ち上げにでも行っているのだろうか。

 いつもの如く、キッチンに立った僕は手慣れた動作で鍋に水を張り、慣れた手つきで野菜たちを切り刻み鍋にぶち込んで火にかける。今夜はカレーでいいだろう。それぐらいの手抜きは許されようというものだ。鍋に具材を入れ込んで、火が通ったらルーを入れ、再沸騰したら完成である。中にはカレーは手抜き料理じゃないという人もいるのだろうが、僕にしてみれば手抜き以外の何物でもないのであしからず。まあ、今日僕がステージの上でお披露目したものに比べれば大概のものは手抜きになるんだろうが。

 炊飯器のスイッチを押し、流し台を軽く掃除し、一息ついたところで僕はソファーへと腰を下ろした。ここで一つ仮眠でも取りたくあったけれども、しかしテーブル上に置かれたそれを見て僕からそんな気は消え去った。

 そのテーブル上に置かれていたものとは、なんともまたもや封筒だった。

 しかし母親からの手紙と違った点は差出人がちゃんと書かれていたことである。『高麗零』という名前は彼女以外にそうはいないだろう。つまり、この手紙の差出人は今日今しがた僕を鍵盤上で殴り倒した彼女ということになる。

 何故そんなものがここにあるのかは今更問うたところで意味はないだろう。

 僕は丁寧に封をされたそれを取り出し、手紙を広げた。


『一君、今日の演奏はいかがだったかしら?楽しんでもらえたなら幸いだわ。無論この私はちゃんと楽しめたからそこの心配は必要ないわよ。

 それに、あなたは私に感謝しているといったけれども、それが本心からの言葉なのならば、瞑、それに音無先生にも感謝することね。

 瞑があなたにしてくれた数々の功績はあなたもその身自身で感じていることでしょうけれど、私の目的の達成は音無先生の助力あってのものなんだから。

 多分、あなたのお母さまはネタ晴らしをしたんでしょうけれど、連れてきたのは紛れもなく先生の功績よ。私だけでは多分手紙を書いてもらうだけで精一杯だったでしょうね。

 あの日、あなたが気絶した後で私と先生が交わした条件は私の思い通りにさせてもらうというものだったんだけど、先生は私に全面的に協力してくれたわ。ここ最近先生があまり家にいなかったのもあれこれ手伝ってもらっていたからなのよ。

 流石の私も、まさか、ピアノ一台を機械を使わずに、一人で持っていくと言われた時は驚いたけど。300キロは優に超えるはずなんだけどね。

 先生の寛大な慈愛の精神にも感謝することね。聞いたところあなたを殴っていたのだってあなたの更生を促そうと思ってのことらしいじゃない。結果的にそれが直接今のあなたの姿につながったかと言われれば首を縦に振ることはできないけれども、しかし間接的には役だったんだし、その心ぐらいは感謝してもいいんじゃないかしら?

 それと最後に、あなたは私に今後どうするのかと聞いたわね。

 正直、私もこれからどうするかは全く考えていなかったのよ。私がこの学校に来るまでに描いていたビジョンは今日を持って終わりよ。

 復讐は何も生まないというのはこんな感じなのかしらね。正直、今日の一幕が満足するに足るものだったのは間違いないんだけど。あなたはそれほどまでに実力を取り戻していたわ。それは観客の投票にも表れていたんじゃないかしら?私相手に票が割れるって中々のものよ?

 まあ、でも一つだけ言えることは、私があなたのもとから消えることは現状ないだろうということかしら。

 勿論、私も立場というものがあるし、あなたにつきっきりという訳には行かないけども、だからと言ってあなたみたいな極上のライバルを手放す理由にはならないわ。

 よかったわね。できるならばあなたを鍛え上げたお母さまにも感謝しなさい?

 という訳で、言いたいことはこれぐらいね。

 手紙というのも久しぶりに書いたんだけど、なんだか変な気分ね。見知った顔にわざわざ手紙を書くという遠回りな手段を取っているからかしら。

 まあ、そしたらなんで手紙を書いたんだってあなたは聞くんでしょうけれど、一言で言えばあなたのお母さんの真似事よ。

 何だか面白そうって感じたのもあるかもね。事実、手紙を書いている私は楽しいもの。

 おっと、話が飛んでしまったわ。まあ、この手紙はあなたの御想像通りあなたを模擬店へ連れてった合間の時間を縫うようにして書いているんだし、それぐらいの脱線はご愛嬌ということで。因みにこの手紙は先生に託すつもりよ。あなたの家に行って帰ってくる余裕はどうもなさそうだわ。それに、バイクを使ったところでエンジン音であなたに気づかれそうだし。やっぱりこういうのは人知れずにやるのが一番効果的なのよ。あなたが今日、それを証明してくれたわ。

 それじゃあ、最後にまた一つ。

 お疲れ様でした。そしてありがとう。

 私のわがままにつき合ってくれて感謝しているわ。

 ふう。まあ、多分こんな気恥ずかしいこと、きっと面と向かっては言えないんでしょうね。

 これもまた手紙の良さの一つなのかしら。

 まあ、取りあえずは疲れているでしょうから、今日はゆっくり寝なさいな。音無先生はどうやら帰りが遅くなると言っていたし、多分夕飯はいらないんじゃないかしら?

 既にあなたは作っていそうだけど。どうせ諸々一段落してこの手紙の存在に気付いたってところなんじゃないかと私は睨んでいるんだけど、どうかしら?

 ああ、そうそう。これも言い忘れていたことね。

 あなたが作ってくれたフレンチトーストも美味しかったわよ。勿論、瞑には負けるけど。

 まあ、私が言いたかったことはこれぐらいね。

 ではまた。学校で会いましょう。

 因みに我が家に遊びに来たって構わないわよ。歓迎するわ。出迎えがいるというのなら遠慮なくバイクで迎えに行くつもりだから。

 高麗 零

 P.S

 あなたは瞑を名前で呼んでいるようだけど、そろそろ私のことを名前で呼んでも構わないのよ?今度会うときは是非、零と呼んでくれたら嬉しいわ。

 これを書いている時にふと思い出したんだけど、そういえば私たちは勝負をしていたんだったわね。あなたをステージ上に立たせれば私の勝ちだって。そんな勝負事を保健室――だったかしら?あなたの無様な気絶姿が余りにも滑稽であれがどこだったか忘れちゃったけど、兎にも角にも勝負事を決めたのを今思い出したわ。

 つまりは、この勝負私の勝ちってことよね?

 別に、約束事はしていなかったけれども、敗者らしく私の命令を一つぐらい聞いてもばちは当たらないんじゃないかしら。

 もし、そんな気が一君に少しでもあるのなら、次に私にあった時は、君なんて他人行儀な呼び方でなくて、零と呼びなさい。

 それと、さっきは、別にこれと言った目標もないといったけれども、今思いついたわ。

 今度は独奏者たちの三重奏なんてのもしてみたいわね。いや、するわ。今決めた。

 勿論私とあなたと瞑との三人で。どう?ワクワクしてこない?』


 そう書かれた手紙を丁寧にテーブル上に戻し、ようやく、力の抜けた僕はソファーに身を投げた。どこかで僕を笑う声が聞こえた気もするけれど、もうそんなことはどうでもいい。

 ただ、一つだけ言うことがあるとすれば、今度彼女と会ったときには名前呼びをしようと思ったことぐらいである。それぐらいはお安い御用だ。

 後はまあ、僕が休める日は今日、明日ぐらいのものだということだろうか。

 多くを語る必要も、今は必要ないだろう。

 僕は、まどろむ眼に身を任せた。

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