025
「どうして母さんがここに?」
一応言っておくがカーテンはもう開けられ、教室の中は既に明るく、母親の姿ははっきりと視認できた。どうやらあくまで雰囲気づくりの為だったらしい。実に不愉快な演出だ。演出家の性格の悪さが見て取れる。
「手紙にも書いただろう?向こう一年は忙しくて日本にはいけないと。だからここにいる」
てっきり手紙は最近に書かれたものだとばかり思っていたが、どうやらそれはただの思い込みに過ぎなかったようだ。
まあ、ポストに投函された手紙が、一年以上前に書かれたものだと思いつく方がどうかとは思うが。
「なるほどね。それで?多忙な身の上でわざわざ日本に、それもこの学校にやってきた理由は何?手紙には干渉しないと書かれていたはずなんだけどね」
「息子の顔を見たくなったじゃあ理由にならないか?」
「残念ながら。あまりにも説得力に欠けるというものだね」
「それは残念だ。そんじゃまあ、本当の理由を言うが、単純に唯に呼ばれたからにすぎん。まあ丁度暇だったというのも存分にあるがな。それに助けが欲しいなら手を貸すといっただろう?その対象は何もお前だけという話じゃない。まあ金銭的に助けると書いた気もするが、まあ丁度暇だったしな。こうしてやってきたという訳だ」
「唯姉が?」
「ああそうだ。何でもお前の遊びにつき合ってほしいと言われたんでな。偶にはそういうのも悪くはない」
「当の本人の意思を無視している時点でどうかと思うけどね」
「ほう?私がわざわざ聴きに来てやったというのに不満か?」
「もし僕が喜ぶとでも思っていたんなら素直に尊敬するよ」
「そうおだてても無駄だぞ?私はもてはやされるのには慣れている」
――どうやら、皮肉を言われるのには慣れていないらしい。
「まあ、母さんが散々もてはやされているのかどうかはどうでもいいけども、今日僕が何をするのかは知っているんだよね?」
「ああ、勿論とも。何せお前たちが弾く曲は私直々に作曲してやったんだからな。今を時めく新進気鋭の若き作曲家の書下ろしだ、有難く思え」
――果たして我が母親が若く新進気鋭なのかは置いておいて、問題はそこではない。
「?母さんが、あれを?」
「何だ?作曲家が作曲して何が悪い」
「いや、それはそうだけども……」
「何だ、煮え切らんな。それとも曲の出来に不満があるのか?何なら今からでも書き直してやらんこともないぞ?」
「いや、それは遠慮したいね。ただでさえ完成に二週間もかかったんだ。今書き直されてはたまったもんじゃない」
「ほーう、あれを弾けるまでに回復したか。それに、どうやらあの嬢ちゃんはただもんじゃないらしいな。どうせお前には弾けないだろうと思って書いたんだが。書下ろしとさっきは言ったが書きなぐりの方がまだ正しいな」
「そりゃそうだ。あんなにハーモニーって奴を無視した楽曲は初めて見たよ」
「まあ、一晩であれを作ったからな。そんな細かいところなんぞに神経は使ってられん。それにあの時はコンクール終わりで疲れていたんだ。人の演奏は採点するもんじゃない」
「道理で。和音が一つもないとは恐れ入ったよ。あれだけの曲を弾いて腱鞘炎にならなかった僕の関節を褒めたいぐらいだ」
「和音は一応入れていたはずだが?」
「和音のアルペジオなんて凶悪な物、純粋に和音とは呼べないね。オクターヴで、それも十六分音符で、なんて聞いたことがない。テンポを落とさず耐え抜いた僕の腕を褒めて欲しいぐらいだ」
「ほほう?そりゃ凄い。あれは演奏者の腕を破壊するだけのポテンシャルを秘めているからな。サブタイトルは、名付けて破壊への序曲だな。それとも破滅への序曲か?演奏家の人生を潰すという点でなら、そっちの方が合う」
「それは聞きたくなかったね。もはや序曲というよりかは終曲と呼んだ方がよさそうだけど。母さんのその言葉を聞いたらね」
「言うようになったじゃないか。あの頃のお前は私に反抗すらしなかったというのにな。いや、反抗はしたのか。あのお嬢さんの演奏を聞いて泣く泣く帰ってきたのは、話を聞く限り私への謀反の表れでもあったらしいからな」
『言うようになったじゃないか』
――そう言われてふと我に返る。
確かに、今僕は母親と普通に会話できていた。果たしてこれが一般的な家族の会話なのかと言われれば確信は持てないけれども、少なくともまともに――最低限相対して、会話できているのには違いない。言うようになったと言われれば、確かにそれは本当である。
何度も言うように、僕は母親のほとんど言いなりだった。奴隷と表現しても問題はないほどに、僕は母親に従うことしかできなかった。こう高圧的に物事を言われれば精神が未熟だった当時の僕が反論できる余地はないだろう。無論、今の僕の精神が成熟しているのかと問われれば答えは否だが、少なくとも成長はしているだろう。言い返せているのが何よりの証拠である。一年の時を経て母親がまとう覇気はさらに強まっているというのに、である。
「本当に、僕の演奏を聞きに来ただけだと?謀反と母さんは言ったけれども、そのお礼参りという線も僕には考えられる」
「まさか、そいつは既に手紙で言ったはずなんだがなあ。お前に興味はもう抱かないと書いてはなかったか?お前の知っている通り私は嘘は吐かん」
「じゃあ、本当に僕の演奏を聴くためだけに?」
「だから、そうだと言っている。何だ?まさか感極まって言葉もでないってか?」
「いや、そうじゃないよ。まあ、言葉も出ないっていうのは強ち嘘でもないけどね」
――言うなれば呆れてものも言えないである。絶句だ。
「で、母さんが僕の演奏を聴きに来たというのは分かったけど、それならなんでわざわざ僕をこの部屋に来させたのさ。聞くだけなら僕と話す必要もないと思うんだけどね」
「息子と話すのに理由がいるのか?」
「こと僕と母さんの関係においては」
「ふむ。まあそれもそうだな。では端的に言うが、それも唯に頼まれたからだ。何でもお前と話してくれと頼まれたんでな、そういう訳だ」
「それでもまだ弱い気がするんだけどね」
「あのお嬢さんに手紙を書かされている時点でもはやっていう気もするが?」
「だとしてもだよ」
「ほう。よく分かってるじゃないか。まあ、手紙を書いておいて裏舞台でおしまいじゃぁ面白みに欠けすぎるからな、そんな訳で表舞台へ上がってきたという訳だ。お前も表舞台に返り咲くという話だったしな。それにあの手紙が、ではなくこの私自身が最終手段なのだからな。それも手紙に書いていたはずだ」
「そりゃまた大した話だ」
「それにこの学校が私の母校というのもあるな。意外とこの学校の文化祭は面白いだろう?つまらん出店なんぞがないだけで評価に値する」
「それは初耳だけども、確かにその意見には賛成するよ。出店ほどつまらないものはない」
あんなのは、ただの慣れ合いに過ぎない。いや、見たこともしたこともないけれども。知ったような口を、と言われればそれまでではあるけれども。
「意外なところで意見が一致したな。まあ、何だ、話はそんなところで終わりだな。唯にはお前に会って話してくれと頼まれただけだし、何も私たちの間に積もる話もないからな、ほら、お前はさっさとお嬢さんと文化祭でも楽しんで来い。どうせ、あのお嬢さんに乗せられてここにやってきたんだろ?」
「いや、まあそう言われればそうするけど、母さんらしくもないじゃん。文化祭を楽しんで来いなんて言われるとは夢にも思ってもみなかったよ」
「私も成長しているってことだな。なに、普通の母親というのは何かと息子に楽しんでほしいと思うらしいからな、これぐらいは言ってもばちは当たらん」
「それを聞いて安心したよ。母さんは母さんだ」
「ああ、そうだ。私は私だ。成長こそすれ私の本質は変わらんからな。まあそれはお前にも言えることだが」
「そうかもね。僕はどうやらピアノが楽しくて仕方がないらしい」
「それでこそ、演奏家というものだ。それでは一、また会おう」
――また会おう。そう不穏な一言を言い残して、世界に羽ばたく我が母親はその姿を消した。勿論比喩でも何でもない。一度瞬きした僕の目には母親の姿は既に映っていなかったという事実の提示に他ならない。まるで瞬間移動でもしたかのように、母親はいなくなっていた。
「どうかしら、瞑ご自慢の手品ショー。結構準備に時間使ったんだから感謝してよね」
気づけば物理準備室すら存在しなくなっていた。気づいた時には、僕はただ壁に向かって直立していた。窓もなければカーテンも存在しない。あるのはただの白い壁だけであった。
「……全く、相変わらずの所業だね。これもメイドの嗜み?」
「勿論です」
――言い切りやがったぞ、このメイド。
「断言しよう。君は今すぐメイドをやめるべきだとね」
「誉め言葉として受け取っておきます」
僕の本心は果たして聞き届けられなかったけれども、まあ好意的に受け取ってもらっただけ良しとするべきだろう。やっぱり、ぶっ飛ばされないだけマシである。
「どうやらお母さまとの話し合いは上手くいったようね。ほっとしたわ」
「やっぱり君の手引きか」
「あら、それ以外に理由があるとでも?」
「いいや、君以外に理由は考えられない」
「ならよし。それじゃ、そろそろ講堂に行きましょうか。私たちの晴れ舞台、もとい音無一という人間の新たな物語をはじめに」
一通り、彼女が描いていたらしい本日午前の展望が無事に完遂され、彼女はニヤリと笑う。断じてニコリとではない。
「まさか、そんな大掛かりなストーリーだったとはね」
「最初からそう言っているつもりなんだけど。まあ、いいわ」
僕の小言はやはり彼女に聞き届けられることはない。
「さあ、行くわよ。心の準備はいいかしら?」
「ああ、それはもう。今すぐに弾けと言われても大丈夫なぐらいだ」
「それは当たり前じゃない。私が心配しているのは私の晴れ姿に見惚れて看取られないかってことよ。悩殺されない自信はおあり?」
「風呂場特攻された時点でそれは何よりも明らかだ」
「……そういやそうだったわね。忘れて頂戴」
「しかし、君の自己評価にはほとほと――」
そんな僕の追撃はあえなく彼女に撃ち落された。具体的には僕の手を引くことに因って物理的に、反論を不可能としたのである。
まあ、本番三十分前ともなれば会場入りしていないほうがおかしな話である。僕は言葉の続きを飲み込み、大人しく彼女に引かれていった。勿論、瞑も一緒である。身の毛のよだつあの眼光の対象となったとあれば反抗する気など起きるはずもないという断然たる事実もまた、僕が彼女の手を振りほどこうという意思を消し去ったことに一役かっていたということは一応言っておくとしよう。沈黙は金なのだ。時は金なりというのなら、沈黙は即ち時間短縮につながる。
まあ、こんなもの取るに足らない虚言めいた戯言ではあるのだが、まあそんな冗談を考える余裕がある程度には僕はリラックスしていたと思ってもらって問題ないだろう。数多のカメラがひしめく講堂に足を踏み入れても尚、それは変わらなかった。
因みに、これは後で聞いた話なのだが、その講堂の後方に設置されたカメラの九割は瞑の持ち物であるらしかった。残りの一割はどうやら外部と内部の人間なのだと。僕の手を引く暴君はまるで武勇伝のようにそう語ってくれた。




