020
「そうそう、楽譜はこれね」
家を出て後、数分後。彼女はカバンからファイリングされたそれを取り出し、僕に手渡した。
「それを聞いて安心したよ、てっきり即興で演奏させられるものだと思っていたからね」
「いいわねそれ」
「冗談?」
「冗談よ。そんな失敗するのが見え見えなものに飛びつくほど馬鹿じゃないわ。あなたはおろか私だって即興演奏なんてしたことがないもの」
「だからこそ飛びつきそうなものだけどね」
「それは私という人間を誤解しているわね。これでも計算高い側の人間のつもりよ?」
「確かに。まさか母さんに手紙を書かせるほどとは思わなかったけど」
「あら、ちゃんと読んだのね」
「そりゃまあ。そうじゃなきゃとこうして君と歩くなんてことはしないさ」
「それもそうね。それで、その楽譜の感想を聞かせてもらおうかしら」
そう言われてようやく手元の楽譜に目を落とす。冊子ではなく一枚一枚別なところを見ると、どうやら既存曲という訳ではないらしい。それに何より手書きである。
「どう?中々の自信作なんだけど。題名も『独奏者の為の二重奏』、これ以上ない適任だと思わない?」
「それにしては合いそうにない気がするけど。これじゃあ殴り合いもいいとこだ」
一目見て分かる。この楽譜にはおよそハーモニーという概念は存在しない。音楽理論は全く知らないが、それぐらいのことは僕にだって分かる。
「だからいいんじゃない。私はあくまであなたと勝負がしたいんだから。別になれ合いを求めているわけじゃないんだし。二人同時に演奏する以上、一応は二重奏と呼んでいるだけよ」
「なるほどね。しかしまあ君が作曲もできるとは思わなかったよ」
「別に、私だけが作ったわけじゃないんだけど。そもそも私に作曲経験はゼロよ。作曲処女という訳ね」
「……どうしてわざわざそう言い換えたのかは黙っておくとして、一体誰が?」
「さあ?別に誰の作品でも構わないでしょう?あなたってそこ気にするタイプ?」
「別に。ただ気になっただけさ」
まあ、彼女がこの曲でいいというのならば口出しはいらない。
「で、感想は?これで当日に臨んでも問題はない?」
「これを拒否すれば、即興演奏対決なんだろ?それなら僕に拒否権はない」
「好きね、拒否権って言葉。まあこちらとしては有難いんだけど」
「まあそれ以外に言いようがないからね」
「ならいいんだけど。こちらとしては余りいい気分じゃないのよね。選択肢を狭めている気がして」
「自覚があって何よりだ」
気づけば校門は目の前となっていた。まあ、自宅から徒歩十分もかからないし、わざわざ言う必要もない気がするが、これぐらいの状況描写は入れさせてもらおう。何より、唯姉が校門で僕らを待ち構えていたのだから。
「遅かったな」
「唯姉が早いだけだ」
記憶が正しければ僕達が家を出たときはまだパジャマ姿だったはずだ。今の唯姉は学校教員らしくスーツ姿である。
「学校で私をそう呼ぶなと釘を刺したはずなんだがな」
「別に他に生徒もいないんだし、いいじゃん。それで、わざわざ校門で僕らを待っていたのには何か理由が?」
「ああ、ちょうど今しがた講堂に新しいピアノが新調されてな。その報告だ」
「あれ?既に二台ピアノがあるっていう話だった気がするんだけど」
「別にいいじゃない。大事なのはこれからよ。過ぎたことでうだうだ言う男は嫌いよ?」
「君が言うセリフじゃない気がするけどね」
「別にあなたが言うセリフでもないでしょう?」
――まあ、いいか。今更そんなことで目くじらを立てる必要もあるまい。
「でも、音無先生?別にそれを言うためだけに私たちを待っていたわけでもないんでしょう?」
「ああ、そうだ。うちの学校はやや特殊でな。今日から二週間、つまりは文化祭当日までは自由登校ということになっている。要は文化祭だけに集中しろということだな。別に他のことに時間を費やす奴もいるにはいるが、まあそれを咎めるということはない。校訓もあるしな」
「それは初耳だけど、それで、結局唯姉は何を言いたいんだ?」
「講堂のピアノはお前たちが好きに使っていいということだ。私が把握している限り講堂で馬鹿正直にピアノだけで文化祭に一枚かもうという奴はいない」
――なるほど。道理で他の生徒の影すら認められない訳だ。
まだ朝早いのはあるのだろうがそれにしても生徒一人いないというのは異常だ。
「あら、丁度いいわね一君。それじゃ早速練習と行きましょうか」
「りょーかい」
これが仕組まれたものなのは明らかだが、まあ良いだろう。どうせ練習はさせられるし、しなければならない。僕だって無様な演奏を人の前で晒せるほど恥じ知らずでもないのだから。やるならやるで全力である。
そんなこんなで手を引かれ僕はその存在すら知らなかった講堂へと連行されるのだった。
やはり僕に拒否権はない。




