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019

家に帰ると、なんと我が家は傷一つなかった。話を聞く限りでは、原形をとどめていないほどに、倒壊していないのがおかしいほどに破壊の限りを尽くされていたという話だったが、どうもそんな雰囲気を我が家は纏っていなかった。

「ただいま」

実に四日ぶりとなる我が家の玄関にはちゃんと靴が一足置かれていた。どうやら唯姉はちゃんと家にいるらしい。因みに内装はあるそうです。僕が連れ出された四日前と全く変わりないその玄関の風景は、件の電話の虚実を疑いたくなるほどに何の変化も感じられなかった。

「ああ、一か」

リビングに入ると唯姉はソファに寝そべっていた。デジャブを感じるのは気のせいだろうか?

「やけにお疲れムードじゃないか。唯姉ともあろう人間が」

「まあ色々あってな。実の姉を人間呼ばわりしたことに突っ込む気力がないほどに疲れている」

「その色々は自業自得なのでは?人づてだけどこの家をほぼ全壊まで追い込んだみたいじゃないか」

「ああ、そう言えばそんな話もあったな。うむ、まあそう言うことだ」

「適当だね。つい昨日の話のはずだけど――」

と、そこで不意にテーブル上に置かれた白い封筒に目がついた。

「唯姉、これは?」

「ん?ああ、それか。さっき郵便受けを見たら入っていたんだ。どうやらあて先はお前みたいだぞ。私に手紙を書く奴なんて知らんし、そもそも宛名はお前だ」

「なるほどね。しかしなんだって僕に?差出人は?」

「さあな。まあ中身を見れば分かるんじゃないか?」

――僕に手紙を出すなんて随分と洒落た趣味をしているじゃないか。

しかし、そんな趣味を持ち合わせている人間を僕は知らない。そこは唯姉と同じである。差出人の名前はおろか、我が家の住所も、果ては切手すら貼られていないところを見る限りは直接郵便受けに投函されたことになるのだろうが、果たしてそんな人間がいるのだろうか?

可能性としてはあの屋敷の住人二人が思い当たるけれども、しかしあの二人とは既に連絡先を交換してある。僕の連絡先には唯姉含む三名がちゃんと登録されている。だから、二人は候補から外れる。

ならば唯姉しか考えられないが、唯姉がそんな周りくどい手段を取る訳がない。

「いいからさっさと開けばどうだ?」

そう言われては仕方がない。

寸分の狂いなく綴じられた封を切り、純白の和紙にしたためられた文を恭しくも取り出す。封に書かれていた僕の名前を見る限り筆跡では差出人の特定は難しいようだ。これが達筆と呼べるものなのかは分からないけれども、そう感じさせるだけの凄みを持っていたことは一応言っておこう。もはや僕の名前一つをとっても解読したと言えるほどの文字だった。そんな僕の解読の結果、その手紙にはこう書かれていた。


『久しぶりだね、一。どうも最近の時の流れは早いようで、お前と別れたのがつい昨日のことのように思えてしまう。

まあ、そんなどうでもいいことはさておいて本題に入ろうか。私は回りくどいことが嫌いだからね。

多分、この手紙は直接誰かからもらうことはないだろうし、お前は多分この手紙がどうやって手元にやってきたのか知らないのだろう。まあ事の詳細は唯にでも聞いてくれ。それでも知らないと言われれば、恐らくはあのお嬢さんがお前の家のポストにでも放り込んだんだろう。

確か、あのお嬢さんは高麗零(こうまれい)と言った気がする。まあ、人の名前なんて私にとってはどうでもいいから実際のところ、少し違うかもな。名刺をもらったんだが、どこかに行ってしまってな。だがしかし、音はそんな感じだった。正しさは保証しないが、まあ少し珍しい名前だと思ったのも確かだ。それは保証しよう。

それはそうと、本題に入ろうか。

お嬢さんとはポーランドで初めて出会ったんだが、彼女は私に何と言ったと思う?

『音無一君のお母さまですか?』だとさ。

たまげたね。まさかポーランドまでわざわざやってきて、そんなことを言われるとは露一つ思っていなかったし、お前のことをあのお嬢さんが知っていることにも驚いた。てっきり音楽談義でもするものだと思っていたからね。正直、私はそっちの方をしたかった。お嬢さんの演奏は中々どうして、私は好ましく思ったものさ。

いやはや、先入観と言うものは全くもって不必要ということらしい。音楽に先入観は必要ないが、まさか実生活でもそれを実感するとはね。

さて、肝心のこの手紙の内容だが、恐らくこの手紙をお前が手にしているということはお前は私へのトラウマって奴を恐らく克服できていないということなのだろう。どうも、お嬢さん曰く、この私が最終手段ということらしい。トラウマなんて下らんと私は思うがな。

何ともまあ、重大な任務を負わされたものだ。もっとも、決して嫌ではないが。

最終手段。いい響きだ。

まあ、正直に言って、お前には悪いことをしたとは思っている。謝りはしないが。

後悔はしていないし、間違ったことをしたとも思っていない。それに、お前がピアノをやめたことだって何とも思っていない。あの日以来お前に何も求めなくなったのが何よりの証拠だ。あの日を境に関りさえしなかっただろう?

大方、こんなことを言えばやれ無責任だのと外野がうるさくなるんだろうが、まあできないものはできないし、したくないものはしない。それはお前も十分理解していることだろう。私はそう言う人間だ。

薄情だとお前は思うのかもしれないが、あの日以来お前に対する興味も期待も私は失った。期待をなくすことを絶望と呼ぶのなら私は確かに絶望したんだろう、お前と一緒だな。それに絶望の対象だって同じだ。お前の才能に私は絶望したよ。期待した私が馬鹿だった。

だから何だと言われれば、それ以外に何もないという他はないが、一つだけ言えることはお前が再び私のいる世界に戻ろうが、別の道に進もうが好きにしろということだ。まあ、この手紙を書けと頼まれたということはお前がこの世界に戻ろうとしていることの何よりの証拠なのだろうがな。

金輪際お前に干渉するつもりはないし、私にはお前にかまけている時間はない。最近は演奏家だけでなく、作曲家としても忙しいんでな。今ではここポーランドで審査員すらしているほどだ。出たこともないコンクールのな。

わざわざいうことでもない気もするが、お嬢さんと知り合ったのもそのコンクールだった。お前の大好きなショパンの名を冠するコンクールだ。

話が逸れたが、つまるところお前が私に対するあれやこれやで踏ん切りがつかないというのならば、それはとんだお門違いだということだ。

まあ、言いたいことはこれだけだな。要するに、好きにしろ。

しかしまあ私は一演奏家であると同時にお前の母親でもある。助けが欲しいのなら私は協力を惜しまない。勿論、金銭的な面でのみだが。お前たちに家をあげたのもその一環だ。

恐らく日本に帰るのは向こう一年はないからな。

他のことはまあ、唯と何とかやってくれ。

一般的に、母親が息子に当てる手紙ってもんは、あれやこれやと積もる話をつらつらと書き綴るってものなんだろうが、私とお前の間に積もる話はないからな、ここらへんで筆をおかせてもらおう。

後一時間もしないうちに飛行機に乗らなければならないんでな。

それじゃ、まあ頑張ってくれ。応援はしないが』


――実に母さんらしい手紙である。実に、自己中心的な手紙だ。

それでも一つだけ母親らしいことを言うとすれば、まあ協力するってところだろうか。まあ頼む機会もないんだろうが。

「誰からだ?」

未だに唯姉はソファーの上。かなりお疲れのようだ。

「母さんだよ。筆跡どうこうは分からないけども、この口調は母さんで間違いはないと思う」

「珍しいこともあるもんだな。んで、なんて書いてあったんだ?」

「好きにしろってさ。放任主義にどうやら目覚めたらしい。ま、今更って感じだけど」

「なるほどな」

唯姉はそう一言呟いてリビングを後にした。まあ、僕同様にという訳じゃないが、唯姉も多分母さんに苦手意識を持っているのだろう。まあ、母さんに苦手意識を持たない人間がそう沢山もいて堪るかっていう話だが。

しかしどうやら手紙の中のお嬢さんはそうではなかったらしい。まさかあの母さんに頼みごとをできる人間が存在するとは思ってもみなかった。

――高麗零(こうまれい)、ね。

僕は初めて彼女のフルネームを知った。手紙の通りこれが本当に正しいかは分からないし、だからどうしたっていう話だが、まあ一応言ってみただけだ。他意はない。

ともあれ、僕に残された退路は完全に断たれた。唯一と言っていい逃げ道は完全に封鎖された。母さんに再び相まみえることがないというのなら僕に断る理由もなければ、断ろうと思うこともない。

ドラマ性もクソもないが、実に彼女らしいと言えるのだろうか。的確に僕の選択肢を潰してくるその手腕は流石としか言いようがない。

まさかこの学校に来る前にここまでの展望を描いていたとは夢にも思わなかったが、しかしこの手紙が示していることは紛れもない彼女の計算高さである。

手紙では向こう一年は日本にやってこないとのことだったが、ここで僕が彼女の提案を拒否すればいよいよ本人のご登場となりかねないだろう。あり得ない事ではあるが、あり得るかもしれないと思わせるほどの用意周到さをこの手紙からは読み取れた。

故に僕は彼女の提案を飲む。

僕にドラマチックな盛り上がりを期待したところで意味はない。僕にそんな熱いパッションのようなものは眠ってはいないのだ。せめて言えるのならば眠れる獅子ぐらいのものである。まあ、その獅子は結局最後まで寝たままだったんだけども。

そんな期待をするならば、是非とも彼女にしてほしいものだ。僕にあるのは、わずかばかりの楽しさのみである。

僕は一つ深呼吸をした。

手紙を封に戻し、リビングを後にする。向かうは僕の部屋ではなく、廊下の奥に存在する、久しく、具体的には一年半もの時間入ることのなかった部屋である。少々錆びつきさえしていたそのドアノブを回し、その扉を僕は開けた。


そこには薄く埃をかぶったピアノが一台。それに地面に投げ捨てるようにばらまかれた楽譜が数十冊。壁に置かれた本棚はその役目を果たしてはいなかった。その部屋は一年半前の姿のままだ。

僕は一つだけある小さな出窓を開け、掃除を始める。このピアノにとっては、実に一年半ぶりの新鮮な空気である。

まずはリビングから引っ張ってきた掃除機をかけ、雑巾で本棚とピアノの埃を拭き上げる。

その後は勿論ピアノの調律である。これまた本棚になおされていた道具箱を取り出し、かつての感を頼りに僕は一鍵一鍵丁寧に音を合わせていく。諸々合わせてかかった時間は三時間ほど。既に外の世界は寝静まっていた。

幸いこの部屋は防音で、窓と扉さえ閉めてしまえば、今の時間に弾いたところで誰に迷惑をかけることもない。

珍しくも唯姉が準備してくれた夕食を食べ(意外と美味しかった)、久方ぶりに侵入者のいない落ち着ける我が家の風呂で心と体の洗濯をし、いよいよ僕はピアノに向かう。

世の中に楽曲は無数にあれど、一人の人間が譜面なしで弾ける曲は限られている。それはかつて天才と呼ばれた僕も例外ではない。

無数に書き込みをされた楽譜を譜面台に起き、そして僕はかつての記憶をたどるように弾き始める。それは無論、トラウマを払拭するという目的もないことはなかったけれども、しかしほとんど僕の気まぐれである。或いは過去の自分と決別しようと思ったのかもしれない。

気づけば空は明るみ始めていた。どうも、いつの間にか徹夜してしまったらしい。まあ数十冊も弾き綴れば例えそれが一回ずつだとしてもそれなりの時間はかかるし当たり前か。

時刻は朝の六時過ぎ。そろそろ唯姉が起きてくる時間である。僕はいよいよかつて僕をどん底に突き落とした最後の一曲、『幻想即興曲』を弾き終え、ピアノに蓋をし、布をかけ、楽譜を本棚に直し、その部屋を後にした。

「どうやら結論は出たみたいね」

「ああ、僕は君の提案を受け入れるよ。文化祭、出てやろうじゃないか」

「そう来なくっちゃ」

もうツッコミは不要だろう。二度目ともなればもう慣れたものである。

「朝ごはんは?」

「フレンチトーストとコーヒーをお願いするわ」

「了解」

唯姉にはいつも通りでいいだろう。僕は薬缶に水を入れ火にかける。

薬缶から甲高い音が鳴るころには唯姉も起きてきたが、僕同様ほとんどその光景に反応することはなかった。

徹夜明けではあるが、ひどく穏やかな時間を僕は過ごす。恐らく僕はこれからコーヒーに相も変わらず顔をしかめる彼女に屋敷での四日間が天国と思えるほどのスパルタ教育をされるのだろう。僕をステージに立たせるということは即ちそう言うことだろうし、最初にそんなことを彼女は言った気がする。僕を倒す価値のある演奏家まで引き上げなければ、当然彼女の望みは果たされない。

「そうそう、一君。一応ステージの案を考えてきたんだけど聞いてくれる?」

「どうせ、僕に拒否権はないんだろうけど、まあ聞くだけ聞いてみようか」

用意したフレンチトーストをテーブルに並べ、彼女の向かいに座る。

「ステージ、つまりは講堂で私たちは演奏するんだけど、丁度いいことに講堂にはピアノが二台あるのよね」

「ホントに丁度いいな」

「それで、どう?二台のピアノで同時演奏するのは」

「同時演奏?連弾ではなく?同じ曲を?」

「そうよ。と言っても全く同じ曲という訳ではないけどね」

「どういうことだ?昨日のあれとは違うのか?」

「勿論よ。要は連弾を二台のピアノでやりましょうっていう話ね。ステージに立つ以上は観客を楽しませなくちゃ」

「なるほどね。確かに面白くはあるけれども、成功するとは思えないね」

「あら、どうして?」

「僕は誰かに合わせるっていう経験がないし、それは君だってそうじゃないのか?君の独創的な演奏に合わせるのは並大抵のことじゃあない」

「だから面白いんじゃない。普通に二台のピアノで演奏することに何の面白みもないでしょう?」

「まあ、そりゃそうだけど」

「題目はもう考えているわ。名付けて『独奏者(ソリスト)達の二重奏』どう?」

「いいんじゃないか?」

僕達の現状をうまい感じに言い表せている。

「それじゃあ決まりね。そうと決まればさっそく打ち合わせをするわよ。音無先生、一君を借りても?」

「好きにしろ」

唯姉は寝間着姿のままにコーヒーを啜る。

「ありがとうございます。じゃあ、一君行きましょうか?」

「また君の後ろかい?」

「……そうね。偶には歩きで学校に行くのもアリよね。時間もまだ早いし、じゃあ今日は徒歩にしましょうか」

「そりゃ有難い」

僕はフレンチトースト最後の一口をコーヒーで流し込み、準備をする。と言っても、カバンに既に必要なものは入っているわけだが。

「それじゃあ唯姉、行ってきます」

「ああ、行ってらっしゃい」

本棚に並べた適当な楽譜たちをカバンに詰め、僕は家を出る。いくら春とはいえ、早朝は少しばかり肌寒い。まあだからと言って、何だという話だが。

まあ、それだけ他のことに気を向けられるようになったと思ってもらえばそれでいいだろう。僕は多分、過去のしがらみから抜け出せたのだ。

久方ぶりの朝の空気は二週間前とは真逆のどこか心地よさを僕に与えていた。

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