001
我が千色高校は生徒が主に授業を受けるコの字型の教室棟、その外側に、教室棟とは少し離れる形で建てられた職員棟。後は人工芝で丁寧に整備されただだっぴろいグラウンドで主に成り立っている。何でもラグビーとサッカーの試合を同時に執り行えるんだとか。
珍しくも教室棟と職員棟が離れているのは、何でも生徒の自主性を重んじた結果の配置らしいが、しかしそんなことはどうでも良い。
重要なのは校舎内であっても上靴が不要だということだ。
まあ、これも人によってはどうでもいいと一蹴されることなのだろうが、僕のような人間にとってわざわざ靴を履き替えるなどという作業は徒労に過ぎない。ここは一つ我が高校のメリットとして挙げられよう。因みに昇降口はコの字の四隅、あとは教職員棟の計五つである。以上、僕の通う千色高校の簡単な紹介でした。
ともあれ、やれ古臭いだの、やれ雰囲気が暗いなどと文句を宣う彼女を引き連れ、僕は階段を三階へと昇り、指定された教室のドアをノックする。返ってきたのは「遅い。さっさと入れ」と小言交じりの音無先生――つまりは僕を早起きさせた張本人の声だった。
「待ちくたびれたぞ音無少年。それに転校生の高麗女史。いやはや、あと三秒でも遅れたら私の指が君の人生を消し飛ばしていたかもしれないと思うとホッとするよ」
「僕もホッとしましたよ」
当たり前だ。たった三秒の差で僕の人生が終わってしまうなんて馬鹿な話があるかってんだ。
しかしまあ、先ほどの彼女の発言はそういうことのようだ。彼女は僕と同様、音無先生に呼び出しをされているらしかった。転校初日からご愁傷さまです。
さて、僕のはらわたが満足したところで『女史』なんて古風な言葉を使う先生について一応触れておかねばならない。器用にタブレットを指一つでクルクルと回すこの音無先生がその口ぶり程度でベテラン教師などと思われてもらっては困るのだ。主に僕が。
先生の名誉のために言っておくと彼女はまだ三十路ではない、もっと言うとアラサーでもない。僕と年が一回り離れているという訳でもない。まあ、正式な年齢は言わないけれども。
女性にとって髪と若さは命らしいので。
有難い音無先生のお言葉である。
「それで先生。そこで何やら小さくガッツポーズをしている彼はまだ呼び出された理由は分かるんですが、何故私がここに呼ばれたのでしょうか?」
「話は変わるが高麗女史よ。この学校の文化祭が他の高校より早いのは知ってはいるかね?」
――いきなり変わりすぎでは?
だがしかし、そんな疑問を彼女は抱かなかったようで平然と先生に言葉を返す。どうも、話のテンポについていけない。
「勿論です。この学校のあれこれは既に頭に叩き込んでありますから」
「それは結構。では文化祭で我々がすることといえば何がある?」
「まずは、クラスごとの出し物ですよね。文化祭と言えば普通は出店なんかをするものだと聞きましたけど、どうもこの学校はそうじゃないようで。後は歌とかダンスとかするんじゃないんですか?まあ月並みな意見ですけど」
「へえ。うちってそんなのやってたんだな。初耳だよ」
「君の意見は聞いていない。黙っていなさい」
「⁉」
あり得ねえ。退学をちらつかせ、わざわざ朝っぱらから呼び出しておいて口を出せば黙れとこの音無先生は仰るらしい。よろしい、ならばこちらにも考えがある。まずは、年齢不詳の彼女の実年齢を掲示板に貼りだし……。
「それ以上は辞めておくことを勧めるよ。音無少年。君だって人生を棒に振りたいわけじゃあないんだろう?」
「ははは。まっさかあ。僕はいつだって敬虔な生徒ですからね。そんな角が立つような真似する訳ないじゃないですかぁ。まったく唯姉はいつだって冗談が上手いんだから……。あ」
「唯姉、ね」
じわじわと口角の上がる先生の姿を見て僕は自分のしでかした失敗を悟った。別にキリスト教徒という訳でもないけれどもこれだけは言っておくべきだろう『アーメン』と。願わくば五体満足でありますように。
「どうやらお前にはキツ―イお仕置きをせねばならんようだ。どれ久しぶりに姉弟仲良く喧嘩と行こうじゃあないか。戦績は確か999戦中、私の999勝だったか。丁度いいな、そろそろ四桁の大台を突破したいと思っていたところだったんだ」
そう言いながらその屈強な右腕をグルグルと回す唯姉、もとい音無先生。しかし、こんな訂正も今となってはもはや用を為さない。こうなった唯姉を止めることは僕には不可能なのだ。大人しくその拳が振るわれるのを待つしか他はない。
ああ、どうやら僕の人生は今日この日この時間で終わりを告げるらしい。ああ、こんなことならちゃんと朝食を食べてくればよかった。
「……お楽しみのところ申し訳ないんですが、本題に入ってもらっても構わないでしょうか?これでも一演奏家として忙しい身ではあるんですが……」
なんと。
彼女を少しでも疎ましいと思ってしまったことを謹んでお詫びしよう。彼女はまさしく女神だった。主人公のピンチに颯爽と駆けつけ助けてくれるそんなヒーロー的空気すら多分彼女は帯びていた。ああ、神様は一番近いとこにいたのだと、僕は柄にもなくそう思った。
が――。
「相分かったぞ高麗女史。それでは三秒で終わらせるから大人しく待っておいてくれ」
「へ?」
そんな腑抜けた返事なんぞ気にも留めず、拳は僕の顔面目掛けて振るわれた。教師はおろか親の体罰でさえも問題視されるような現代社会で文字通り大手を振って仮にも生徒を殴り飛ばす先生が一体どこにいるだろうか。
「そんな存在はもうどこにもいない。これはただの家族同士の喧嘩。それ以上もそれ以下もない。ただのじゃれ合いにすぎん」
――そりゃああなたはじゃれ合いのつもりでしょうけどね!方や僕は既に頬が腫れていた。それを見て我が姉は謝るどころか(なら、せめて満足ぐらいしろ)さらにこう続けた。
「ほう、いいじゃないか。転校初日の美少女にセクハラをはたらいた結果見事にビンタを喰らって投げ飛ばされたってな。新学年、新クラスの良い掴みにはなるんじゃないのか?」
全く血も涙もない姉である。家族でなかったら即警察に駆け込んでやるところだ。それに、見ず知らずの濡れ衣を着せられているのも癪だ。
「いや、それだと私がただの初対面の男子生徒を殴り飛ばすような危険人物だとみなされるのでは?」
「別にいいじゃないか。全くの嘘という訳でもないんだろう?なあ、鍵盤上の暴君、さん?」
「……なっ、なんで先生がそれを知っているんですか?」
どうやら、標的が移り変わったらしい。僕の受けるはずだったダメージを肩代わりしてくれるなんて、まさに女神そのものである。
「そうだな、そこで何やら跪いて手を合わせている我が愛しき弟の姉だからという理由では納得いかないか?君の被害者第一号の姉として君を知らないわけがないとは思わないか?」
「……」
「まあ、そう委縮することもない。さっきも言ったが、私は無駄な暴力は振るわない主義でねぇ」
「嘘だ!少なくとも千回も殴る必要性は何処にも……フグッ」
通算1001回目の敗北の瞬間であった。もれなく僕は意識を手放した。
「まあ、あの小うるさい弟は置いておいて本題に行くとしよう。ああは言ったが、前提条件として私は君になんら恨みを抱いていない。もっと言うと君に対して私は興味を持ってなどいない」
「……はあ」
「しかし私は弟思いの優しい姉でな。君に完膚なきまでに叩き潰されて感情のないロボットのように学校生活を送る弟を見てはいられないんだ」
「と、言うと?」
「つまり、弟とまあ仲直りまでとはいかないまでも過去の清算ぐらいはしてほしいんだ。それに具体的な方法は既に提示してある」
「なるほど。つまりは文化祭で」
「そう言うことだ。察しが早くて助かるよ」
「まあ、私も文化祭は一つの手段として考えていましたからね。それに、私がこの学校にやってきたのも先生と同じような理由ですから」
「そう言ってもらえると助かる」
「ですが一つ条件があります。流石に何でもかんでも仰せのままにとはいきませんからね。私にもプライドというものがありますから」
「いいだろう。それで条件というのは?」
「それは――」