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018

「さて諸君。いよいよ来週末は文化祭だが、準備はいいか?」

 ゴールデンウィーク明け初日。徹夜の疲れが取れたらしく、やけに元気に満ち溢れていた優秀なメイドに極めて健康的な時間に文字通りたたき起こされ、例の如くバイクの後ろに乗っけられ、衆目に晒されながら登校を果たした僕は、教壇の上でそれっぽい演説をする唯姉にこれといった反応をすることもせず、ただ寝たふりをしていた。

 まあ、クラスメイトもいるし、僕がこういったことをするのは別段珍しくもないし、何ならいつも通りなぐらいだが、しかしその行動原理はいつもの無気力が故のものとは違っていた。

 唯姉の言葉は右から左へと受け流され、僕ははっきり言って無意識と呼んでいい状態だった。茫然自失も良いところなほどに。

 ――文化祭。

 普通の高校生ならば心躍らないほうが難しいだろうそのイベントの到来は僕には好ましいものではなかった。清々しいまでの手のひら返しである。

「だから言ったじゃないか、ゆめゆめ油断するなって。君の今の姿ははっきり言って滑稽だ」

 そんな声が何処からともなく聞こえた気がした。

 どうやら、最初に彼女が僕に言った僕を知っているという発言は嘘でもはったりでも冗談でもなかったらしい。彼女は僕の家庭内事情すら把握していた。

 昨晩、彼女が切り出したその話題はそう感じさせるほどに明らかな根拠があった。まあ、そうでもなければ僕の両親なんて話題を切り出すわけもないのだろうが。

 ――しかし、油断、ね。

 彼女がそこまで込み入った事情を知っているとは正直思っていなかったし、それにその記憶は奥底にしまい込んでいたと思い込んでいたのは事実だ。油断、と言うよりかは欺瞞だろうか。自己欺瞞。

 或いは、忘れていたと思い込んでいたのかもしれない。僕がピアノから遠ざかった理由があの日の彼女の演奏によるものだと自分を騙していたのかもしれない。勿論、彼女が何の関係もないとは言い切れないが、しかしそのほとんどは実際のところ、実の母親によるものだった。母親の存在が無ければ、僕がピアノを諦めることも、そもそもピアノに触れることすらなかったのだから。

「何を今さら。君だって言っていたじゃないか、戻ることはできないって。覚悟はできていたんじゃないのかい?例え、それが無意識だったとしてもさ」

 確かに、ここまで来ればもう僕はステージに立たざるを得ないだろう。既に、僕はピアノに再び触れ、それどころか全盛期とまではいかないまでも、殆ど遜色ないほどまで実力は取り戻している。形状記憶合金もビックリの戻りようだ。

 覚悟は多分、できている。あの日からもう一年以上も経つし、わだかまりは多分解消されているはずだ。そうでなければとてもピアノを弾くことはできないだろう。ピアノが視界に入ることすら疎ましく思うはずである。それがなかったということは即ち、そう言うことである。

「ならば、何故君は怖気ついているんだい?踏ん切りがつかない理由は一体何故だい?」

 確かに僕は怖じ気づいているのだろう。トラウマを完全には払拭できてはいないのだろう。はっきり言おう、僕はステージに立つことが怖い。それがトラウマによるものだと頭で理解はしていても中々克服することは難しい。意外と僕はそこまで理性的な人間ではないようだ。

「そんな屁理屈をこねて君はまた逃げ出すのかい?賽は既に振られているというのに。導きの手すら差し伸べられているというのに」

 ここで善意の押し売りは必要ないとでも言えればいいのだろうが、しかし僕にそれを言うことはできない。既に僕は受け入れているのだ。押し売りを僕は既に認めてしまっている。

 故に、僕に逃げるという選択肢は存在しない。ここで逃げては男が廃るなんていう下らない理由ではなく、単純にみっともないし、申し訳ないという道義的なもっと下らない理由ゆえに僕は逃げることはできないのだ。

「そうは言うけどさ、君自身はどうなんだい?そんな消去法的な消極的理由じゃなくてさ。もっと建設的で積極的な理由は君にはないのかい?君は、彼女たちの演奏を聞いて何も感じなかったのかい?」

 ――昔の血が騒ぐ。端的に言えばそんな感覚を僕は確かに覚えた。初め、音楽室で聞いた彼女の演奏、半ば強制的に連行された彼女の自宅での当時を彷彿とさせる練習量、そして最後の彼女とのバトル。正直言って楽しかった。心躍った。そして何より、恐らく僕は嬉しかったのだろう。全く面倒な男もいたものである。

 僕はピアノが嫌いという訳ではない。むしろ好きだ。そうでなければとても忌まわしき二つ名などつけられるはずがない。僕はコンクールという舞台が好きだった。それが唯一と言っていい心の拠り所でもあった。自分を肯定してくれる気がした。自分の頑張りが無駄ではないと認めてくれる気がしたのだ。だからこそ、彼女の演奏は僕の心に響いたし、その反面僕は丁度いい理由が出来たと内心ながらほくそ笑んだ。ピアノを引退するいい口実が出来たと。コンクールとそれに至るピアノ漬けの日々を天秤にかけ、僕はその栄光を捨てた。

 そして僕はピアノをやめ、自堕落な生活に身をやつし、母親からはほとんど勘当と言っていい扱いを受けた。普通の家庭であれば勘当なんて絶望以外の何物でもないのだろうが、僕にはそうではなかったのだ。

 それに、唯姉の存在も大きかったのかもしれない。それに、外聞を気にしたのか一軒家を両親が僕達にあてがってくれたのも、勘当されてもむしろ喜びを感じた要因だろう。素直に両親の財力に感謝するところであるけれども。

 彼女たちと文化祭というお祭りの一環にしろ、再び衆目の前で演奏することは、きっと楽しいに違いない。だがしかし、再び母親に目をつけられることを思うと怖いのである。

 僕はもう、あんな思いをしたくない。母親に関わりたくない。

「きっと楽しい。それだけで理由はいいんじゃないのかい?音楽は音を楽しむからこそ音楽なんだ」


 と、そんなありきたりなことを言われたところで、僕は現実世界に呼び戻された。空想の世界から現実世界に戻る手段と言えば無論、物理的ショックである。

 首筋に鈍い痛みを感じた。

「まさか君まで僕に暴力を振るうとはね。今時手刀をする人間がいるとは思わなかったよ」

「あなたが呆けているからよ。全く、今何時だと思っているのかしら」

「多分十時くらいでは?」

「じゃあ、あの文字盤は狂っているとでもいうのかしら?西の空が明るいのは火事でも起きているから?」

 そう言われてようやく僕は我に返った。確かに黒板の上に掲げられた時計は六時を指しているし西の空は夕焼けで明るんでいる。どうやら僕はほんの九時間ほど自己陶酔にいそしんでいたらしい。

「全く、たかがご両親のことで突っついただけでそんな態度をとられちゃ困るわよ。てっきり解決したものだと思ってた私の身にもなってよね」

「それを僕のせいにするにはいささか無理がありすぎるのでは?君の早とちりとしか言いようがないと思うんだけど」

「あら、そう?それならもっとごねてもよかったと思うんだけど、ってこれは昨日言ったはずよね?」

「ただの確認さ。聞き間違いがあってはいけないからね。それに君の手刀で記憶が混濁していないとも限らない」

「ならいいのよ。まさか私の妄想の話かと思ったわ」

「君がそんな夢見る少女ほど妄想癖があるとは思えないけど」

「そう言うあなたは陶酔癖があるようね。半日もの間、一体何を考えていたのかしら。音無先生に凄まれても無反応だったところを見ると、私たちの裸体を思い出して自慰行為にでも浸っていたってところかしら」

「人がいないからって言いたい放題だな。君のその発言で幻滅する人間は軽く二けたはいそうだ。勿論このクラスの中だけでね」

「お生憎様。そんな有象無象共の評価私には関係ないわ」

「さいですか……」

 その言葉で心に傷を負いそうな人間がまた二けた。

「まあ、この場には一応私たちの他に瞑もいるんだけど。まあそれはどうでもいいことね。それよりもあなたの半日に及ぶ自己陶酔の結果を聞こうかしら。結局、文化祭は出るの、出ないの?」

「その結論を出すにはいささか早計では?まだ文化祭までは二週間あるはずだ」

「言っておくけどこっちは二週間しか、ないのよ。色々と準備があるんだから。ぶっつけ本番という訳には行かないでしょう?」

「大変だな」

「ええ、だからこそあなたには早く決断してほしいんだけど。別に今ここでとは言わないけどいつまでに出すかだけでも教えてくれないかしら?」

「今週までに、でも遅いんだろ?」

「分かってるじゃない。むしろ今日までにじゃないことを感謝してほしいぐらいよ。あのままあなたを軟禁することだってできたんだし」

 酷い言い草もあったもんだ。まるで唯姉に顔を殴らないだけ感謝しろとでも言われている感じだ。

 まあその実、被弾数は顔が一番多いんだけども。

「それじゃあ明日の朝までには結論を出すよ」

「そう、前向きな報告を期待しているわ。それじゃあまた明日、一君。瞑、行くわよ。どうやらこの意気地なしは明日まで結論を先延ばしにするようだし」

「それは残念です。まさかここまで意気地なしだったとは思いませんでした」

「全く徒労も良いところよ」

 とまあそんなもっともな悪態をつきながら彼女たちは教室を後にした。


「ふーん、明日ねぇ。君にしてはやけに思い切ったことを言うじゃないか。どういう風の吹きまわしだい?」

「お前が思っている通りだ」

 ――結論を出す。先にも言ったが僕は今の生活に満足しているわけではないが、かといって不足感を感じているわけでもない。ただ単に母親に縛られていた以前の生活から脱却できただけで良かったのだ。唯姉に殴られることを加味してもそれは変わらない。

 だがしかし、この彼女がここにやってきてからそれは着実に変わりつつある。僕は変化を望みつつあるのだ。少なくとも、心の底で僕はそう思っているはずだ。そうでなければこんな幻聴が聞こえるはずもない。

「幻聴とは酷い言い草だなあ。僕は君そのものだというのに。君だってそんなことを言っていただろう?」

 されども幻聴には変わりはない。鬱という訳でもない僕に幻聴が聞こえる理由は多分そんなところだろう。こうやって自室以外のところでも聞こえることを考えると僕の内なる欲求は日増しに強まっているに違いない。

「まあ、正直幻聴云々はどうでもいいけど、いいのかい?もうそろそろ下校時間のはずだ。君が殴られることに快感を覚えるマゾヒストなら話は別だけどね」

 その言葉通り(断じて僕がマゾヒズムということではない)、もう下校時間はとっくに過ぎている。ここで唯姉が僕を殴りに来ない方が不思議なぐらいである。

 僕は全開の窓を閉め、電気を消し、戸締りをする。もう薄暗くなってきた校庭には人の姿はもうどこにもなかった。

 鍵を返却し僕は帰路につく。どうやら唯姉は既に帰ったらしく、職員室は実に和やかな空気が流れていた。恐るべし影響力である。我が姉ながら、我が姉であるが故に恐ろしい限りである。

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