016
やはり、と言っては何だか異常すぎる気もするが、しかしやはり、僕の入浴は侵入者なしには語れないらしい。久方ぶりの心休まる夕食に舌鼓を打ち、ようやくゆっくり心と体の洗濯ができると思った矢先の出来事である。
「なんで君が?」
「あら、私を君などと呼ぶのは辞めてくださいと言ったはずですが?口で言っただけでは分かりませんか?」
「いや、え、そこ?」
まあ屋敷の主でないのなら、侵入者は瞑さんしかありえない。正直、例の暴君はともかくとして、瞑さんがまさか浴場に侵入してくるとは思ってもみなかった。
「何です?私の裸体に欲情したんですか?浴場で浴女に欲情したとでもいうつもりですか?まあ、確かに胸の大きさで言うならお嬢様よりかはありますけどね」
「何だか、デジャブを感じるよ。同じことを君の主にも言われた気がする」
「まあ、雇い雇われの関係ですからね。なまじ、姉妹以上に濃い生活を送っているんですから色々と似るのは致し方ないでしょう」
――少しダジャレにアレンジを加えたのは、瓜二つという訳ではないということなのだろうが、しかしなるほど。感性は似ているらしい。倫理感すらも似るとは驚きだが。
「それは理解したよ。それで、君はなんでわざわざ僕が入浴中だというのにここにやってきたんだい?まさか、彼女同様裸体を見せびらかしに来たとでも?」
「流石にお嬢様ほど羞恥心に欠けてはいませんから、それはないものと考えていいですよ?」
――確かに、その体にはタオルが巻き付けてあるようだ。いや、それにしたっておかしな話だけれども。
何よりもこの状況の絵面が倫理的に危うすぎる。何だよ、全裸の男子高校生とタオル一枚の女子高生って。濡れ場でもあるまいし――って文字通りこの場は濡れているか。
「それじゃあなんで?」
「まあ、単純に背中でも流してあげようかと思いましてね。メイドの役目って奴ですよ。ゲストをもてなすのがメイドの仕事の一つでもありますからね。今までの頑張りを労ってあげようという魂胆です」
「そこで僕の気持ちは考慮しなかったのかい?」
「それはこの四日間で問題ないと分かっていますから。お嬢様の裸を見て何も思わなかったらしいじゃないですか。こうなると、もはやあなたの感性を疑いたくなりますけどね」
――そう言えば、そうだった。
この屋敷に来てからは当たり前のことだった。なれば、今更兎角言うことでもないだろう。
「では了承も得られたことですし、どうぞ私の前に」
さあさあと促す瞑さんの手の先にはいつの間にか用意された桶と椅子が鎮座していた。流石の用意周到さである。こうなっては僕に断る選択肢は存在しない。倫理的にも絵面的にもやや危ない気もするけれど、まあお言葉に甘えないのはどうかと僕は思う。ゲストはもてなされるのが仕事なのだから。
「それじゃあお言葉に甘えようかな。一応念押ししておくけども、僕の生皮を剥ぐことはないようにね。多分、瞑さんが全力で僕の背中を流せば多分僕は流血沙汰では済まないだろうから。そして、その手に持っているヘチマを使うのも遠慮したいね。もれなく流血沙汰になる」
「あら、残念ですね。裏庭でせっかく取れた立派なヘチマでしたのに」
――それを使われては僕が残念な結果になるからな。
以前唯姉にヘチマで背中をしごかれた時、僕の背中は血だらけになったことがある。彼女の力が唯姉と同程度とは思わないが、少なくとも僕を乾布摩擦だけで血だらけにするだけの力を持っているのは確かである。僕の体に嫌と言うほど刻まれた感覚は意外と馬鹿にならないのだ。
「それでは大人しく素手で行きましょうか。これなら文句はないでしょう?」
「いや、まあ。ヘチマを使われるよりかはましだけども」
「では」
そう言い切る前には、既に彼女の臨戦態勢は整っていた。具体的には彼女の両手には既にやけにきめ細やかな泡が盛られていた。メレンゲもそれを見ては堪らず空気を放出し、ただの卵白に戻るに違いない。
その泡を存分に使って僕の体は彼女の手によって隅々まで洗われた訳だが、ハッキリ言って悪くはなかった。むしろ良かったと言い切っていいぐらいである。何よりも頭を洗われるのが良かった。これはヘッドスパとやらに足繁く通う人がいるのも納得だ。
彼女のその手際は何処かこなれていて、唯姉には申し訳ないが、唯姉の洗髪の満足度にマイナスをかけ(絶対値をつけるでも可)、さらに十倍してもまだ足りないほどの代物だった。
「痒いところはありませんか」
「前頭骨と頭頂骨の間ぐらいを念入りにお願いします」
「分かりました」
なんて言う美容室っぽい会話も出たぐらいなのだ。
「……あの、なんか急に力が強くなったのは気のせい?」
満足度が急降下している。これじゃあ唯姉とほぼ同じだ。
「今前頭骨と頭頂骨の間って言ったじゃないですか。だからこうやって無理やりにでもこじ開けようとしているんですよ」
「いや、額縁通りに受け取られてもね。僕は赤ん坊じゃないんだから一応頭蓋骨は全て繋がっているんだけど」
「それじゃあもう少し分かりやすくお願いします。そんな気取った言い方をしないでただ自分の指で指させばいいじゃないですか。それとも、そんなことすらもできないほどに指が疲弊しているとでも?」
「それは僕が悪かった。それじゃあここら辺を重点的にお願いするよ」
僕は頭のてっぺんより少し前あたりをグルグルと指で指し示す。
「お願いされました」
「まあ指、と言うか腕が疲れているのは本当だけどね」
いくら、かつての僕は今の僕からは想像できないような練習をしていたからと言って、一年もブランクがあれば疲労困憊なのは当たり前である。胴体部分の強度は申し分ないが、両手となるとそれは怪しい。そもそも唯姉によって両手にダメージを負ったということは未だかつて存在しない。
「分かりました。ではマッサージまでしましょうか」
その手はワキワキしていた。やけにノリノリである。
「やけに親切じゃないか。まさか後で高額の請求書でも送り付けるんじゃないだろうね?」
「そんなせせこましい真似はしませんよ。もしやるとしてもあなたの目の前で叩きつけてあげます。それに言ったでしょう?私はもうあなたの試験官的や教官な役職から解かれましたからね。今は普通の一メイドです」
「普通のメイドはあんなことできないと思うけどね。正直言って君の所業の数々は思い出せないほどだ」
「普通と言っても私基準ですから。そもそも私以外のメイドは知りませんし」
「さいで」
ますます彼女の生い立ちが気にならないでもないが、ここでそんなことを口走っては僕は即座に肉塊と化すだろう。瞑さんがその気になれば、コンマ数秒で僕の頭はリンゴのように握りつぶされるに違いない。まあ、リンゴを握りつぶすには並大抵の握力ではできないらしいけれども、まあイメージとしてはこれ以上ないだろう。果汁の代わりに僕の血液が滴り落ちるだけのことだ。
「では、今度は私の方をお願いします」
一通り僕の全身を洗い終えた彼女はいきなりそんなことを言い出した。
「僕の聞き間違いかな、今私の方をお願いしますと聞こえたんだけど?」
「大丈夫です、聞き間違えてませんよ。私の背中を流してくださいとそうお願いしたんです」
「それは、流石に問題では?」
こう言うと、一部の人間から怒られそうだが、まあここは僕の倫理観に基づく一個人的な意見として聞き流してほしい。正直、見るだけでは何も思わないし、触れられても何の感情も抱かないが、自分から触れるとなると話は違ってくる。そんな経験は僕にはないからだ。家の主の申し出はのらりくらりと何とか躱している。
「当の本人が問題ないと言っているんだからいいじゃないですか。それとも私の体に触るのは嫌ですか?もしや、貧乳好きと?」
「いや、別に嫌じゃないんだけども、心構えという奴が……」
「煮え切らないですね。私がこれまでにしてあげたことをお忘れですか?一宿一飯以上の恩はあるはずですよ?別に恩を着せようなどと言う意図はありませんけど、それぐらいは私の願いを聞いてくれてもいいんじゃないですか?」
「いや、お願いと言うのなら確かに断ることはしないし、断れる立場にはいないんだけども、しかしそんなのでいいのかい?背中を流すだけで?」
「それじゃあ頭もお願いします」
「いや、本質的に何も変わっていない気がするんだけど。何ならもっと――」
「なら、そこのヘチマを使っても構いませんから。乙女の柔肌に傷をつけてもいいと思っているのなら、ですけど」
やや食い気味にそう答えられては僕も聞かないわけにはいかないというものだ。彼女の肌と言うかそもそも、人の肌に触れることに少なからず抵抗はあるけれども、一宿一飯ならぬ三宿九飯の恩が彼女にはある。それにまあ、不本意ながら僕のピアノの面倒を見てくれた手前というのも無きにしも非ずである。
「言っておくけど、文句は言わないように。加減の仕方が分からないんだ」
「そのぐらいは大丈夫です。私の肌は鋼鉄よりも固いんですから。勿論しなやかさはありますけどね。それはもう柳のようにしなりますよ」
「さっきの柔肌発言は何処に行った」
「柔らかいのもまた事実ですからね。鋼鉄のように固いからと言って鋼鉄そのものではありませんから。あくまで比喩ですよ比喩。あなたの力程度では私の肌は傷一つつかないというだけのことです」
「さいで」
別に僕に限らずとも多くの人間にとって他人の背中を流すという体験はしたことがないだろう。親や祖父母ならいざ知らず、ほぼ初対面と言っていい、それも異性の背中を流す体験などするはずもないし、そもそもしたいとも思わないだろう。そんな特殊性癖を持ち合わせている人間はそうはいまい。特殊なのだから。マイノリティでなくてはならない。多数派が特殊なんていう奇天烈なことがある訳はないのだ。
とまあ、ここでそんな戯言を叩くよりかは、先程までの僕同様、椅子に座ってされるがままの彼女の肌の質感とか髪の肌触りなんかをそれはもう饒舌に言い表すのもありっちゃありかもしれないが、そんな変態性を僕は持ち合わせていない。期待したのならごめんなさいである。そもそも、裸を見て何も思わないような僕に期待をすること自体間違っている気もするけれども。
まあ、一つだけ言うとするならば、そこまで悪いものでもなかったということだろう。最初に抱いた抵抗感などまるで感じずに僕は無事に任務完了した。
「いい手際ですね。あかすりにでもなったらどうですか?」
「それとこれとは話が別だろ。そもそもピアノを弾いているような人間にあかすりの道を説くんじゃない」
「あら、職業差別ですか?あれはあれで中々に技術がいるんですけどね。何なら、この後体験しますか?」
「ただ単純に別の道を進めるなと言っているだけだ。あくまであかすりはその一例でしかない」
「では、あかすり体験はどうしますか?」
「……いや、遠慮しておくよ。背中を流してもらっただけで満足だ」
「今の間は何ですか?」
「どうやら僕ものぼせてきたみたいでね。言葉を理解するのに少々時間が必要なようだ」
「苦しい言い訳ですね」
「別にそうでもないさ。瞑さんだって顔が真っ赤だ。そろそろ限界が近いんじゃないのかい?」
「……ま、まあ、それもそうですね。では軽く湯船につかってから上がるとしますか」
「それがいい。それじゃあ僕はもう上がらせてもらうよ」
「あら、私と一緒につからないんですか?多分クラスで一生自慢できますよ?」
「その自信には素直に感服するけども、それならまずは自分の言葉に整合性が欲しいところだね。一行矛盾とは中々だ」
「ただの比喩じゃないですか。それこそ額縁通りには受け取ってほしくないというものです」
「それは失礼、ではもう上がらせてもらうよ」
そんなところで僕は話を切り上げ、脱衣所へと向かう。正直言ってこれ以上はもう限界だ。何故かは知らないがやけに湯気が立ち込めているのを見る限り、この場所の温度自体、中々のものである。
「ああ、そうそう最後に一つ言っておくのを忘れていました」
「何?」
「もう私を瞑さんとは呼ばなくてもいいですよ。それに君呼ばわりも認めましょう。どうぞお好きな呼び方で。個人的には瞑と名前呼びをオススメしますけど、まあお好きなように」
「それは事実上、僕に拒否権はないのでは?名前呼び確定じゃないか」
「そう思ってもらっても構いません」
「じゃあ大人しく名前呼びをさせてもらうよ」
「いいでしょう。その呼び方を私は認めて差し上げます」
「どうせ、他の選択肢を選んでも同じ結論にさせたくせに。なにが認めて差し上げますだ」
しかし、そんな僕の憎まれ口に彼女が反応することはなかった。ただ満足そうな表情を顔に浮かべ、湯船へと直行しただけである。
普段無表情だった彼女のそんな表情に普通は心を動かされるのかもしれないが、そこはこの僕も違わない。間違っても惚れる方向性ではないが。
逆に、余りの似つかなさに僕は恐怖すら覚え、そそくさと浴場を後にするのだった。まあ、こればっかりはしょうがないだろう。今まで僕を棍棒で無表情のまま脅してきたような人間の笑顔なんて恐怖以外の何物でもない。そりゃあ浴場での一件で多少なりとも関係性は深まった気もするし、名前呼びも許可されたけれども、怖いものは怖いのである。
そんなことを考えつつ、僕は寝巻に身を包み、ようやく朧気ながら把握しつつある屋敷の中を寝床へと進む。勿論、そこは例の和室ではない。今朝見つけた屋敷の主の子供部屋である。




