015
「ねえ、そろそろ休憩にしない?」
「僕の勝ちを認めてくれるのならばやぶさかじゃないね」
「また、それ?もうかれこれ三時間は休憩なしよ?今時の高校生にあるまじき根性をしているわね、あなた。昭和の時代でも通用するんじゃないかしら」
どうやら、彼女は三時間が限度のようだった。無論、ここで手を休める僕ではない。手拭いは勿論有難く使わせてもらうけれども。
「だてにスパルタ教育をされていないんでね。後もう三時間は余裕でつき合えるよ」
「呆れたわ。それじゃああなたの勝ちでいいから休憩させて頂戴」
「いいのかい?」
――はっきり言って意外だった。
確かに僕の目論見通りにいったのは確かだけれども、ここまでトントン拍子に事が進むとは予想していなかった。これでは第二第三の作戦が無に帰してしまう。まあそれに越したことはないんだろうけれども、しかし予想外ではある。因みに第二の作戦は深夜まで弾き続ける、第三の作戦は翌朝まで弾き続けるだ。
「流石にこれ以上は私も限界よ。腱鞘炎になっては世話ないもの。そりゃあ手袋なんてめったなものはしないけれども、自分の両手をいたわるぐらいはするわよ」
どうも嘘は言っていないらしい。瞑さんから手拭いを受け取り、顔を覆い、天を仰ぐその様子からは緊張感というものがまるで感じられなかった。
「それは好都合だね。亀の甲より年の劫という奴かな。だてにピアノを弾き続けてなくてよかったよ」
物心ついた頃にはピアノに向かっていた僕に、仮に一年ちょっとのブランクがあったところで、練習量で勝てる人間はそうはいない。相手が同年代ならばなおさらである。
「はっきり言ってあなた、異常よ?世界のトップピアニストでも三曲に一回ぐらいは休憩をはさむわ。オーケストラだと話は別でしょうけど。ピアノオンリーで三時間は正直聞いたことがないし考えたこともないわ」
「まあ、単純に聴衆側も疲れるという側面もありそうだけど。それに、僕の三時間はあくまで練習の範囲内さ。もっとも僕以上に練習狂いな奴もいるらしいけどね。風の噂によると丸一日ピアノを弾いていてもケロッとしているらしい」
「それは……是非とも会いたくはないわね。多分私とは正反対の人間だわ」
「それは僕も同意見だね。興味がないわけでもないけど、正直巻き込まれる方が面倒だ」
まあ、かつての自称僕のライバルの話をしたところで意味はない。今頃はきっと他の世界で活躍しているに違いない。アイツはそういう人間だ。ソフトボールで金属バットでも破壊しているんじゃなかろうか?それも嬉々として。
「しかし、なるほどね。私の目算が間違っていた理由がようやく分かったわ。話には聞いていたけど、あなたがまさか本当にここまで練習狂いだとは思わなかったもの。好都合ではあるんだけど。学校が始まってもあなたにかかりっきりになる未来を回避できるに越したことはないわ。いくら瞑に全てを任せるとは言っても、ね」
「人並みな感性を持ち合わせていたようで何よりだ」
まあ、これも今更感満載ではあるけども。何度も言うように彼女のねじは一本どころではないほどに抜け落ちているか、或いは彼女のねじは左巻きになっているかだ。同級生を自宅に軟禁だなんて考えついても普通実行しないし、そもそもとして実行できるだけの下地がないことが殆どだ。まあ、下地があるからこその行動とも言えるけれども。それにしたって異常であることに疑いはない。
「それじゃあどうする?」
「何が?」
――まさか第二ラウンドを始めるとでもいうつもりか。ラスボスを倒したと思いきや即第二形態との対決ということか?それなら、また同じ手段を取るだけだ。名付けて、ゾンビ戦法である。
「流石にもう勝負事はしないわよ。そもそもとしてこの場であなたに勝ったところで私は何も満足しないんだから。本当の本番は文化祭当日よ。それに瞑だって疲れているわ」
「瞑さんが?」
――正直言って全くそんな風には見えない。疲れているというよりむしろ彼女が発する圧のようなものは凄みを増していると言ってもいい。平和ボケをしている僕でも感じられるほどの明確な殺意すら感じられそうなぐらいであるのだ。
「ええ、簡単な事よ、目の下にクマが出来ているでしょう?つまり、寝不足よ」
「とてもクマがあるようには見えないけど?」
「流石お嬢様、ご慧眼恐れ入ります」
しかし、あっさりと本人は己の寝不足を認めた。
「当たり前じゃない。主として当然のことよ。あのよく分からない機械もそうだけど、私に渡した資料だって並大抵のものじゃあなかったわ。どうせ徹夜で作り上げたんでしょう?多分だけど三徹は最低でもしているわね」
「流石ですお嬢様」
「いや、ちょっと待て、それだと和室で寝ていた瞑さんは一体どういうことになるのさ。まさか変わり身の術でも使っていたとでも?」
「おやおや、頭脳も日に日に冴えてきているようですね。正解です」
「僕の記憶が正しければ寝返りすらもうっていた気がするんだけど?それに呼吸の音も確かに聞こえていたし、何よりあの布団から逃げようとすればノータイムで僕は妨害されていた」
「まあ、企業秘密ですよ。音無様がこの家に住むというのなら教えてあげないこともないですけどね」
「じゃあいい。知ったところで多分どうしようもないからな。どうせメイドの嗜みって奴なんだろう?」
「分かってるじゃないですか。私の呼吸音すら記憶しているその変態性には目を瞑って差し上げてもいいくらいです。瞑だけに」
「それぐらいはそうでなくともスルーしてもらいたいところだけどね」
どうも、『瞑だけに』というのはギャグでも何でもないらしい。
まあ、この屋敷の主に抱き枕にされてはそれぐらいしか精神の落ち着かせようはなかったというつまらない理由なのだが。そうでなければ他人の寝息など集中するわけもないだろう。それこそ変態でもなければ。
「どうやら話はまとまったようね。それじゃあ話を戻すけれども、一君。あなた、何かしたいことはないかしら?」
「……?」
「あら、聞こえていないのかしら?あなたにしたいことはないのかと聞いたんだけど?」
「いや、僕の耳はそこまで遠くなってはいない。ただ単に余りの急展開についていけなくなっただけだ」
思わず脳みそがフリーズしてしまったじゃないか。流石にこの展開は予想外過ぎる。
「あら、そこまで意外でもないと思うんだけど。十曲を見事弾き終え、私すらも倒したあなたに何かご褒美があってもなんらおかしくはないでしょう?何ならあなたから催促したって誰も文句は言わないわ」
「いや、少なくとも君は一言二言文句は言うはずだ」
「じゃあ、こう言い換えましょうか。あなたに催促されたって拒否する人間はいないと思うわよ、とね。これが仮にゲームの世界なのだとしたら褒美が無くてはクソゲー認定されること間違いなしだわ」
「人物像を歪ませることは言わないほうが身のためだと忠告しておくよ。君がゲームをしているのになんも文句を言うつもりはないけども、しかし『クソゲー』って。そんな言葉は使うべきじゃあない」
「ふむ。あなたに分かりやすいように言ったはずなんだけど、ダメだったかしら?」
「その心遣いは有難いが、しかし僕はそこまで語彙力が乏しいわけでもないし、何なら僕はそっち方面に詳しいという訳でもないからその気遣いはかえって配慮に欠けるとすら言えるね。僕がニート生活をしていたからと言ってゲームに没頭していたわけじゃないんだから」
「それもそうね。早計だったわ」
「分かってくれて何よりだ」
「それじゃあ気を取り直して答えを聞きましょうか。一君、あなたの望みは何かしら?たいていのことは実現可能よ?ゴールデンウィークはまだ残っているんだし。今日の午後は私も暇よ?」
「そうだね。じゃあお言葉に甘えようか」
「ええ、存分に甘えて頂戴」
まあ、もったいぶる必要も今更ないだろう。そもそも、最初にこの屋敷に連れてこられた時から僕の願いは一貫しているのだ。
「それじゃあ今すぐ僕を家に帰してくれ」
「……ん?よく、聞こえなかったわね。もう一度言ってちょうだい」
「一刻も早く僕を家に帰してくれと言ったんだ。それ以上もそれ以下もない」
「あら、つれないことを言うじゃない。何だったら私のヴァージンをくれてやってもいいのよ?」
「君の倫理観についてとやかく言うこともしないし、そんなものを貰ってもそもそも嬉しさは皆無だ。この話、前にもした気がするんだけど?」
「その気は正しいわよ。ただ、この四日間で何かあなたに変化はあったのかなと少しカマかけただけよ」
――なるほど。道理で同衾はおろか混浴まで企んだのか。それならより一層彼女の倫理観、の前に貞操感に疑問を抱かないわけにはいかないが、まあ正直どうでもいい。
「君のこれまでの行動原理は分かった、それで僕は帰してもらえるんだろうか?」
「まあ、帰せと言われれば帰すけれども、一君のその願いってあくまでゆっくりしたいっていう願いが根底にあるんでしょう?」
「そりゃそうだ。我が家が一番心休まるところだからね」
「なるほどね。ん、ちょっと待って、電話が来たわ」
少々タイミングが良すぎる気もするが、まあここで彼女の携帯を奪って画面を見るなんて行動をとるような僕ではない。そもそもとして、電話が来たというのが本当だという線もある。現に着信音がなっているのだから。簡略化されてはいるが、その曲は紛れもなく幻想即興曲。どうやらお気に入りの曲だというのは本当らしい。
「残念ね、一君」
「何が?」
「今しがたあなたのお家から、つまりは音無先生から連絡があったんだけれど、あなたの家それはもう大惨事らしいわよ?なんでも足の踏み場がないぐらいに」
「それが何か問題でも?僕の部屋が無事なら問題はないはずだ」
「なんでも、あなたの部屋の壁を音無先生、ぶち抜いちゃったらしいのよね、それに天井すらも。青空教室も真っ青の開放感らしいわ。どう?これでも家の方が落ち着くと言えるかしら?」
「なら、掃除でもしてリビングで寝ることにするよ。掃除はそこまで苦じゃない」
「そのことだけど、何でもリビングの床も穴だらけらしいわよ?酔った音無先生がついつい床を踏み抜いてしまったんだと」
――全く何をしてるんだうちの姉は。もはや溜息すら出ない。
普通の民家の壁は人間程度の拳ではへこみすらしないし、天井はそもそも普通の人間がジャンプして届くような高さではない。床だってそうだ。わざわざクレーン車で吊り上げて運び入れるほどのグランドピアノを置いても尚びくともしないのだから、それを踏みぬいたとなればそれはもう故意以外の何物でもあるまい。酔った勢いでだとしてもそれはいささかやりすぎである。唯姉は手加減だけは得意なのだから。人間一人を潰さない程度に潰せるぐらいである。
「それじゃあ廊下でも寝るとするよ。マットでも布けばそれなりに安眠はできる」
「布団も破いてしまったらしいわよ?マットレスもだって」
「……」
――もう何も言うまい。これほどまでに用意周到に破壊活動をされていては多分庭でテントでも張って寝ると言っても庭はクレーターだらけ、屋根の上で寝ようにも恐らくどこの部屋も青空教室並みの開放感を誇っているに違いない。
「……分かった。それじゃあ明日もこの家でお節介にさせてもらうとするよ」
「そうね。まあ、仕方がないわよね。帰る家がないんだもの」
「……」
まったく、猿芝居もいいところである。まさか帰る家を家たらしめなくすると言う手段を取るとは思ってもみなかったけども。
「ただし、これだけは言っておこう。あくまで僕は心身の休息を取りたいんだ。だから、僕は一人で入浴をするし、一人で寝床につく。この二つは保証してもらおうか」
「あら、そんなに私が嫌い?これでも容姿の方には中々に自信があるんだけど」
「それでもだし、だからこそだ。そもそもとして君の倫理観は――」
まあ、事の詳細は省くとして、結論から言って僕は一人での入浴と就寝を勝ち取ることが出来た。それでもなお彼女は乱入してくるかもしれないけれども、まあ約束してくれたことで満足するしかないだろう。ここまで我が家が荒らされていれば彼女が浴場に侵入してこようが、寝床に侵入してこようがまだこの屋敷で過ごした方がましである。多分我が家に帰れば最終手段としてハンモックを取ることになるのだろうが、僕はあの揺れる感じが大層嫌いだ。
と、いう訳で。彼女とのピアノを介しての対話は一応、終わりを告げた。
少なくとも体の安息を勝ち取ることが出来た僕は、四日間の苦楽を共にしたピアノの蓋を閉じ、高級そうな刺繍が施された絹布をかけるのだった。後で聞いた話だが、この布も瞑さんお手製のものらしい。刺繍のみならず元の布も自分で織ったのだと。
メイドの嗜み恐るべし。




