014
「いいんじゃないですか?私としては合格を上げたいところです」
苦節一五分、僕はようやく鬼教官から合格を貰った。苦節、と言うには十五分という時間はいささか短い気もするが、これまでの研鑽を考えると苦節と呼称してもいいだろう。それぐらいの誇張表現は許されようというものだ。
「そりゃどうも。まさかたった三回弾いただけでクリアとは思ってもみなかったけどね。いささか拍子抜けなぐらいだよ」
まあ、僕が納得がいって、その上で、瞑さんを呼んだわけではなく、丁度僕が弾き始めた時にたまたま瞑さんが戻ってきただけなのだが。運が良かった。
「今さら何を。そもそも、これはあくまで準備段階ですからね。クリアして当然というものです」
「その割には中々に厳しかった気もするけど。この時代に棍棒担いで脅すメイドなんて寡聞にして僕は聞かない」
「脅したつもりはないんですけど」
「だとしてもだ。棍棒を担ぐという時点で中々に君はどこぞの金太郎並みの個性を持ち合わせているからね。脅すなんてものは付随的なものだ。或いは内包されていると言ってもいい」
「誉め言葉として受け取っておきましょう。今は十曲を無事に弾き終えたことを素直に喜ぶべきでしょうから」
――果たして、満身創痍なこの僕をもってして無事などと言えるかは定かではないが、しかしまあ五体満足で終えられるのならば無事と言っても差支えはないか。
この僕の両手両足が自由に動けてさえいれば彼女の目的からすれば無事以外の何物でもないのだから。
「しかし、私のことを『君』呼ばわりは頂けませんね。この四日間で私との距離を少しでも縮められたとでも思ったら大間違いですよ?」
「これは意外だね。当初の僕に卓上ナイフを投げていた姿とは大違いだと僕は思うけど?僕の口におにぎりを押し込めている時点でそこそこの親密度はあったんじゃないかと僕は思っていたんだけどね。それは僕の気のせい?」
「まさしく気のせいですよ。そもそもとして当初の私はあくまでこの屋敷のガードマンとして音無様に対応していたわけで、つまり今の私はメイドとしてあなたにあれやこれやと世話を焼いてあげているんですから、それは極々当然のことと言えるでしょう」
「なるほどね。でもそれだと、親密度は少なくとも上がってはいるよね?マイナスからゼロになっただけかもしれないけどさ」
「やけに今日は口の調子がよろしいですね。朝食に油を提供した覚えはないんですが?」
「まあ、これで最後だしね。会話ぐらいは楽しんでもバチは当たらないだろう?だってほら、今日でゴールデンウィークは終わりだ」
「なるほど、そう言うことでしたか」
どうやら合点がいったらしい。確か、僕の記憶ではゴールデンウィーク四日間だったはずだ。多分、この家の家主は僕を連れてきた時にそう言った。何のことはない、この家に連れてこられてから四日間、つまり三泊しているということは今日が最終日だろうと言うごく普通の当たり前の平凡な思考である。
「では、そうですね。音無様の言葉通り最後らしいことをしましょうか」
そう言うや否や瞑さんは指をパチンと鳴らした。やけに響きのいい音だったとは一応言っておこう。今まで聞いた指パッチンの中で一番の響きだった。
「準備期間は確かに無事に終わりました。ですが、準備が終わるとなれば次に待ち受けるのは本番だと相場は決まっています。練習はあくまで練習であって、本番の為に練習をするでしょう?」
「ああ、それは嫌と言うほど理解しているとも」
「ということで、音無様に課された最後のミッションは本番、つまりはお嬢様とのバトルになります」
その瞬間、僕の向かいにあった一つのピアノから何故かお辞儀の和音が聞こえてきた。演奏者は勿論この館の主である。さっきまでそこには誰も居なかったはずでは?それに、今からがやっとこさの本番のはずだ。何故にお辞儀の和音を?
まあ、単純に彼女がそこにいたことにただ僕が気づいていなかっただけかもしれないのでわざわざ言うことでもないか。
しかしまあ、大した演出もあったものである。何故にこの部屋にピアノ二台もあるのだろうかと、瞑さんが一切弾かない時点で思ってはいたけども、まさかこれを見越していたとは。てっきり僕にリスト好きの称号を押し付けようとする彼女の意匠なのだとばかり思っていた。どうやら、流石の瞑さんもピアノを虚空から出すわけにはいかないらしい。
「おめでとう、と言うべきでしょうね一君。まさかあなたがこの十曲の試練を乗り越えられるとは思ってもみなかったわ」
そんなことを言いながら僕の方へやってきた彼女はドレスを身にまとっていた。どうやら彼女もこの演出にノリノリのようだ。
「ピアノを二台置いている時点で乗り越えるもどうもあったもんじゃないけどね。この結果は確定事項だったはずだ」
「あら、頭がよく回るじゃない。まあ、正確に言うのなら十曲を弾き終えるまでこの屋敷から出さないという計画だけだったけれども、まさかゴールデンウィーク中に達成するとは思わなかったわ、かしら?」
「それは嬉しい誤算だね。まさか本当にこの屋敷に監禁され続ける可能性があったとは思ってもみなかったよ」
「嘘を吐いたつもりはなかったんだけど、まあ確かにやや常軌を逸していると言われてもしょうがないのは確かね」
「『やや』?犯罪行為はそんな軽い言葉で流されても良いのか?」
「まあ、私たちの通う千色高校の校訓は『個性的であれ』らしいから問題はないんじゃないかしら?ご丁寧にあなたは解説をしてくれたみたいだけど」
何と、ほぼ戯言のつもりで言った我が高校の情報がこんな形で扱われるとは。正直言ってその存在自体、今の今まで忘れていた。多分二年生最初の登校日でリビングのテーブル上に乱雑におかれていた外部向けの資料が原因だろう。それ以外には考えられない。
「なるほど。思わぬところで伏線回収という訳か」
「いや、別にそんなつもりはなかったんだけど。ただ単にそのモットーとやらを曲解して都合のいいように利用しているだけよ」
――まあ、有効活用してくれているだけ有難いか。僕の戯言にも価値があったと思えば、うん。それに伏線回収というのならピアノ二台の方が適任である。
「では両者ともに準備は良いでしょうか?」
すっかり進行役と化した瞑さんは尚も続ける。見えないマイクが具現化しそうなほどにノリノリだ。
「ええ」
「勿論」
「因みに採点は私お手製の採点機械が行います。単純に正確性とあとは強弱の表現で点数は出ますのでそこは予めご了承ください。要はいかに楽譜通りに弾けるかどうかの勝負ですね。まあ、カラオケ採点のピアノバージョンとでも考えてくれれば問題ありません」
――どうやらメイドの嗜みと言うやつはプログラミングすら可能にするらしい。全く持ってその方面の知識はないけれども、これが並大抵の聞きかじった程度で出来る代物ではないことは分かる。
「ますます君が不思議で仕方がなくなるね」
「今度私をそう呼んだら今度こそ吹き飛ばしますよ」
「それはなんだ、ぶっ飛ばすの上位互換か?」
「さあどうでしょうね。私もまだ吹き飛ばしたことはありませんから。ですが、まあ私はメイドですからね、それぐらいはできるでしょう。目算では軽く裏山にクレーターが出来る程度の威力は出るはずです」
「……肝に銘じておこう」
多分向かいのピアノで深紅のドレスに身を包む彼女よりもこのメイドがおっかない存在なのだと僕は理解した。暴君よりも暴君らしいってどういうことだ。トンビが鷹を生むじゃああるまいし、主よりも暴力性が高まるって一体。
「余計なことは考えない方が身の為ですよ、音無様。今度という今度はぶっ殺しかねませんから。命の保障はできません」
「……改めて肝に銘じておくよ」
これ以上は僕の体がもちそうにない。僕の肝は多分切り傷でズタズタのボロボロだ。多分後一つでも何か刻めば真っ二つになるんじゃないかってぐらいに。
「準備もよろしいようですし、始めますか。先攻はどちらにします?」
「一君が決めていいわよ?あくまで私はラスボスだから」
「それじゃあ先に弾かせてもらおうかな。後に演奏するのは好きじゃあない」
まあ、『ラスボス』なんて言う彼女に似つかわしくない言葉に突っ込むのは辞めにしておくべきだろう。これ以上長引かせても意味はない。
「あら、後攻の方がいいんじゃないかしら。あの日は確か、私より先に演奏していたと記憶しているんだけど」
「だからいいんじゃないか。ラスボスはラスボスらしい方法で破らなくちゃ面白くない。かつて敗れた時と同じ状況で戦うなんてそれっぽいだろ?」
面白くない、などと言う極めて僕らしくない言葉が出たところで、「ふーん。まあいいわ」と言う彼女の興味のなさそうな返答を皮切りに勝負は始まった。勿論勝負する曲はこれまでの十曲である。仮に審査員が人間ならば、まあ万に一つも勝ち目はないのだろうが、今回の相手は機械である。瞑さんの言葉が本当であるのなら、つまり正確性と強弱によって点数がつけられるのなら僕に勝機はなくはない。口にしたくない件の二つ名がつけられるほどである。僕の演奏は楽譜通りに演奏するという点に関しては抜きんでていたのだ。
だとしても、仮に一勝するだけですら、今の僕に彼女が相手では多分日は沈むんでしまうだろう。まあ、とどのつまり根性勝負である。彼女が集中力を切らすまで僕は集中力を維持し続ければいいのだ。今でこそこんな自堕落な生活を送ってきてはいるが、集中力に関しては自信がある。半日ぶっ続けで弾きっぱなしだったこともあるぐらいだ。それも休憩なしで。
仮に、それ以上に過酷な練習を彼女が積んでいたのなら話は終わりだが、彼女の演奏の特性上それは考えづらい。鍵盤上の暴君は気分屋なのだから。
そうでなければ、僕があの日、ぽっと出もいいとこの彼女に、それも今まで名前も聞いたことのないような彼女に負けるわけがないのだ。
こう言うと、自慢話に聞こえるかもしれないけれども、ちょっとピアノを齧っただけの人間に負けるような鍛え方はしていなかった。そもそもとして人生最初のコンクールなど、緊張でまともな演奏などできるわけがないのである。確かに物心もまだつかないような幼少期に出されれば緊張感など皆無なのだろうが、理性がつきさえすればあのステージで緊張しないわけがない。
つまり、当時中学三年生だった彼女は僕が知っている範囲で、一度もコンクールに出場したことがなく、すなわち緊張しないわけがないのである。
ならば考えられる可能性はただ一つ。彼女はピアノに関して天才的だったということである。しかも、それは今の彼女の姿が証明している。
そして、人生初のコンクールであれだけの演奏が出来る人間は精神異常者か、或いは感極まってついつい本性をさらけ出しちゃいましたみたいな我慢の出来ない人間ぐらいである。彼女が精神異常者でない可能性はまだ否定できないが、しかしそんな演奏をするものが半日もぶっ続けで弾ける道理はないのである。そういう人間は一度の演奏で全てを出し切るタイプなのだから。
中には嬉々としてピアノを楽しむ人間が、それも半日はおろか丸一日ぶっ通しでもケロッとしているような人間がいないでもないが、少なくとも鍵盤上の暴君と呼ばれる彼女にその可能性は考えられない。吹き荒れる嵐は一過性のものだから吹き荒れるし、嵐と呼ばれるのだ。
とまあそんな感じの蜘蛛の糸よりもか細い勝ち筋を頼りに僕は彼女に勝負を挑まなければいけない。
ああ、そうそう、そう言えば。
栄えある一曲目として選ばれたショパンの『幻想即興曲』は彼女が僕との最初で最後の勝負で選んだ曲でもある。明言はしなかったが、音楽室で彼女が演奏した曲もそれである。
あの日のプログラムに書かれていた彼女の演目の中に存在しないはずのその曲をいきなり弾き始めたことからも、僕の推論は補強されるだろう。或いは彼女が精神異常者という可能性が高まっただけかもしれないが、まあ僕の推論が当たっているという可能性が高まるのならば問題はない。僕の勝ち筋が強まるのならば何も問題はない。それだけで精神安定剤になりうるのだから。




