表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/29

013

「うん。概ね計画は順調ね。この調子だと今日中には終わりそうだわ。休み中に終わりそうで何よりね」

 この家に来てから四日後の朝食の席である。

 恐らく瞑さんが作成したであろうおよそ僕一人の為と言うには分厚すぎる資料を彼女は片手で仰ぎながらそんなことを言った。

「そりゃどうも。ダメもとで一応聞いてはみるけれども、その資料では当の本人はもう体力が限界だと言っているっていう情報が書かれてあると思うんだけど、手を緩める気はないのかい?パガニーニとショパンのエチュードで僕は疲労困憊なんだけど」

 分かる人には分かるだろう、この恐ろしさが。ラフマニノフがもはや癒しになるレベルって一体。

 当時、ショパンの弟子だった名もなきピアニストを偲ばずにはいられない。

 これだけの技巧曲を完璧に弾けるまで次に進めないなんてここまでキツイものだとは思いもしなかった。瞑さんの厳しさは多分ショパンにも負けていない。

「それは瞑に聞きなさい。まあ、手を緩めるのもありではあるけれども、後が苦しくなるだけよ?ゴールデンウィークが明けてもまだ私の家に居座りたいと言うなら話は別だけど。何ならうちに住民票を移したって構わないわよ?」

「それは遠慮したいね。あの家から僕がいなくなれば多分三日と持たずに廃墟と化す。今は一応僕が帰ってくるという前提があるから唯姉も滅多なことをしないだろうから大丈夫だけど、流石にそれは家に申し訳が立たない」

「それはあなたのご両親にという意味かしら?あの家って音無先生が建てたわけじゃないんでしょう?」

「……まあ、そんなとこだね。それに家だってむざむざと破壊されたくはないだろう?」

「ふーん。まあ、取りあえずは頑張りなさいな。後、三曲なんでしょう?本音を言うと午前中に終わらして次の段階に行きたいところだけど」

「まあ、最善は尽くすよ。僕だって早いとここんな地獄から抜け出したいからね」

「いい心がけね。ちょっと前のあなたとは別人のようだわ」

「男子三日会わざれば刮目してみよって言葉もあるぐらいだ。そこまで驚くことでもないんじゃないか?」

「刮目している時点で十分に驚いてそうだけど。最初にその言葉を作った人は」

 そう僕に突っ込んだところで、話の対象は先程の僕の小言に移り変わる。

「ねえ、瞑。この愚か者はおろかにも手心を加えて欲しいと言っているのだけども、あなたはどうする?」

「そうですね。そんなことを言う愚か者にはむしろ厳しくいくべきかと存じます」

 どこぞの高級ホテルをも思わせるようなワゴンを転がしながらやってきた瞑さんはにべもなくそう答える。最初の内は僕の日常生活とのあまりの乖離に動揺していたけれども、二回も見ればもはや驚くことはない。もはや朝から彼女たちの軽口につき合う程度の心の余裕は持ち合わせていた。

「では頂きましょうか」

 いつも通りの手際の良さで並べられた豪勢な食事を前に僕の胃は戦闘態勢を整える。朝っぱらからこれだけの食事を食べるにはそれ相応の心構えというのが必要である。二日目の朝にそれを学んだ。

 音頭を取る家主につづいて僕ら二人も手を合わせる。あまり、いただきますを言う習慣がなかった僕ではあるが、そこは日本人の血故なのだろうか。今では大した違和感を感じることもなくなった。

 朝食を追えればすぐに練習が始まる。僕はいそいそとお皿に芸術的に盛られた食事を口に押し込んでいく。

 朝食を終えてから練習が始まるまでの数十分が僕に残された最後の砦である。この時間を逃せば一人になれる時間はそうはない。

「ご馳走様でした」

「あら、今日もまた一段と早いわね。そんなに急がないでもご飯は逃げないわよ?」

「冗談ならもう少しましなのを言ってほしいね。それに、『また』と言っている時点で理由も大方予想がついているんだろう?」

「さあ、どうかしらね。ここ最近はどうやら一人でいる時間を欲しているようだというのは分かっているけれど」

「分かっているじゃないか。理由が、ちゃんと」

「あら、そんな理由だったの。言ってくれればあなたの時間を作るのもやぶさかじゃあなかったんだけど?」

「本当にそう思っているのなら、せめて風呂の時間ぐらいはゆっくりさせてほしいけどね。なんで君と一緒に入らなくちゃならないのさ」

「それはあれよ、一緒に入った方が電気代の節約になるでしょう?私だって無駄遣いは好まないわよ」

「ここの風呂は源泉かけ流しだと聞いたんだけどね。それとも僕の聞き間違い?」

「いくら源泉かけ流しと言っても処理施設は通しているんだから、電気代の節約にはなるでしょう?まさか本当に源泉をそのまま流用しているとでも思っていたのかしら?」

「流石にそこまで常識がないわけでもないさ。ただ純粋に疑問だっただけだよ。確かに君は電気代の節約と言ったけれども、それならここまで豪勢な食事を用意する必要もないんじゃないかな?皮算用だけども、その処理施設とやらよりかは電気代がかかってそうなもんだけど」

「お言葉ですがそれはありません。電気は確かに使ってはいますが、殆ど素材をそのままに扱っていますからね。ほとんど無視していいぐらいです。」

「でもそれだと素材の保管にも結構な電気代がかかっているのでは?」

「それも最初にご説明したはずです。食材はその日に調達しに行くんですから、電気代はかかっておりません」

「なるほど。君が電気代の節約のためにそうしているのは確かに理解したよ」

「当たり前よ」

「じゃあ改めて聞くけれども、本当に電気代の節約の為なら、なんであんなにこれ見よがしに君はその裸体を僕に見せびらかすんだ?君ぐらいの年頃の女の子は、いや、そうでなくとも普通人間は異性に裸を見られることをは中々に恥ずかしがるものなのだと思っていたんだけどね。人間が服を着るのだってそういう理由だ」

 ――一応体の保護の為、という側面もあるにはあるが、それは何千年も昔の話である。現代社会において服を着るという行為は羞恥心からくるもので、まず間違いはない。

「何よ、私の美しい裸体にケチでもつけるつもり?言っておくけど体には自信があるのよ?」

「いや、そうは言っていない。ただ単に見せびらかす必要はないんじゃないかと疑問を呈しているだけさ。それとも君は見られて興奮するような特殊性癖を持っているのかい?」

「し、失礼ね!私が好き好んで晒しているわけがないでしょ!」

「それなら理由を説明してもらおうか」

 ――こんな質問をしている時点でもうお気づきだろうが、もはや僕の中に恥じらいと言う文字は存在しなかった。それもそのはず、このところ数日間僕は二人の美少女(誠に遺憾ではある評価だが)と寝食を共にしているのだ。そんな感覚は麻痺している。日に三回の食事は勿論のこと、寝場所も同じである。洋館には不相応な和室に布団を三組ご丁寧に敷き、その上、真ん中の布団が僕の寝場所だと僕の目の前で声を荒げている家主は言った。

 いや、まだそれならましだっただろう。少なくとも睡眠がまともに取れさえすれば何も問題はなかったはずである。だがしかし、事の張本人の寝相は最悪だった。彼女の長い手足でラリアットを受けながらで、まともに寝れる人間が何処にいるのだろうか。唯姉のしごきで多少の耐性を持っていたはずの僕ではあるが、それに耐えきれることはなかった。

 ならばと布団を動かそうとしてもそれは瞑さんに止められる。何でもこの暴君は隣に人がいないと寝られないということらしかった。つまるところ、体のいい人柱である。

 しかしまあ、これで辻褄が合わないこともない。瞑さんの強靭な身体能力はつまり、夜な夜なラリアットを喰らいながらも睡眠を取れることに起因するものだったということだ。

 全く、つまらん伏線回収もあったものである。まあ、それにしてもいささか常軌を逸しているところはあるのだろうが。

 そして、先の僕の発言からも分かるように、暴君は暴君らしく、僕の入浴も侵攻してきた。

『浴場で欲情してしまった、といったところかしら?』などと面白くもないシャレを言いながら、さも自信ありげに、その身をタオルで隠すこともせず一糸まとわぬ姿で侵入してきた彼女を直視することはしなかったけれども、目に毒である。僕がまともな感性を持っている高校二年生なら恐らくここの浴場は殺害現場となっていただろう。同級生の裸体を直視したことに因る失血死なんて無様な死因もあったものである。

 しかし、ご存知僕は腐りきっているので、多少彼女の裸体を見たところで、目を逸らすだけで、鼻血はおろか、うろたえさえもしなかった。まだ瞑さんが運ぶワゴンの方が衝撃の度合いで言ったら大きかった。

 そんな僕にむかついたのか背中を流せと言われたのは流石に予想外だったけれども、しかし概ね問題はなかった。僕が一人でゆっくりできるはずの時間がこの屋敷では存在しないという一点を除いては。逆に言えば、その一点以外はもはや問題にすらならない。

「ただ、いつも通りにしているだけよ。瞑と一緒に入る時にいつでもしていることよ」

「だそうだけど?」

「お嬢様のその言葉に嘘はございません。確かに私と共に入浴する時もその美しい姿を私にこれでもかと見せつけてきます」

「なるほどね。合点がいったよ」

「どうかしら?これで私が変態ではないことが分かったでしょう?」

「そうだね。それは訂正しよう。君は変態ではない」

「分かればいいのよ、分かれば」

 ――しかしまあ、風呂も一緒か。意外と寂しがりやなのか?と邪な考えを抱いたのは秘密にしておこう。碌なことにならない。

「それじゃあ話を本題に戻そうか。僕が一人でいられる自由な時間を作って欲しいという願いは認められるんだろうか?今日一日ぐらいは認められてもよさそうなものなんだけどね」

「瞑?」

「いいでしょう。では朝食後と夕食後に各一時間ずつ自由時間を設けましょうか。流石にもうこの屋敷から逃げ出したりはしないでしょうし」

「そりゃ有難い。僕のこれまでの頑張りの成果があってよかったよ」

「まあ、その分厳しくはしますけどね。休息のせいで予定が狂っては元も子もないですから」

「そりゃそうだ。そしたら、僕は久方ぶりの孤独な時間を楽しんでくるとするよ」

「どうぞ。行ってらっしゃいな(ませ)」

 そんな感じで僕は一人の時間を獲得することに成功した。だが、ここで一つ問題が生じる。

 ――一体どこで過ごせばいい?

 という至極当然な問題である。ここに来てからというもの知っている部屋は食堂と応接間、ピアノのある部屋に浴場に和室、そして最初で拷問まがいのことをさせられたあの部屋である。後はまあ彼女個人の練習部屋だろうか。

 そう。僕は僕一人で過ごすに足る部屋を知ってすらいなかった。因みに僕の荷物は和室に置いてあるので、例え一人になろうがその時間はほとんどゼロである。

 と、いう訳で。およそ数秒の熟考の末、僕が今朝の自由行動に選んだものは、探検だった。

 別にただあてどのない探検するわけではない。僕が自由時間を存分に味わえるための部屋を探し出すためのある種、探索である。着て数日が立つというのにすることではないとは思うが、僕が部屋から部屋へ移動する時も瞑さんがつきっきりだったのでまともにこの屋敷の構造は覚えていないのだ。ピアノの部屋から食堂までの道順すらも僕は覚えていない。なればこそ、ここで屋敷の内部を知ることも悪くはない。

 流石にやたらめたらと部屋に押し入ることはしないけれども、少しばかり覗くぐらいは許されるだろう。どうも、この屋敷の住人は倫理観がぶっ飛んでいる節がある。メイドは初対面の人間に目隠しをしナイフで脅し、挙句の果てには棍棒でぶっ飛ばすような人間だし、屋敷の主は裸体を同級生に見られようとも何も感じないほどの豪傑である。こんな些細なことで目くじらを立てるような人間ではないはずだ。多分。

 そんな感じの皮算用を理由に僕は探検を始める。まずは、最初に僕が存在を知った部屋。即ち僕が拷問まがいのことをされたあの部屋からだ。


 お屋敷探検ツアー開始から約十分後、僕は例の拷問部屋を一応は発見し、そそくさと退散した。そして、この屋敷の位置関係をあらかた把握した後、その足で僕は一人の時間を過ごすには丁度いい部屋を見つけた。

 屋敷そのものの外見には似つかわしくない部屋ではあるけれども、そのこじんまりとした雰囲気が僕には好みだった。まあ、それでも我が家であてがわれている僕の部屋に比べれば広いけれども、しかしそのどことなく人間味を感じる空気は決して不快ではなく、むしろ好ましいとさえ思えた。優しい雰囲気だった。

 流石に掃除が隅まで行き届いており、さらには家具らしきものは古ぼけた本棚一つで生活感は皆無だったけれども、しかしその部屋に染み付いた雰囲気、或いはその本棚一つが醸し出す空気感は何とも心地よかった。

「あら、何処にいるかと思えばこんなところにいたのね。てっきり寝室で私の匂いでも嗅いでいるのかと思っていたわ」

 だがしかし、そんな感傷に浸る暇は彼女によってあえなく潰された。ものの数十分で僕の一人の時間が消え去ったことを鑑みるに、僕一人の時間を作ってあげるという発言は嘘だったとでもいうのだろうか。それとも、僕の世迷言?

「君の裸を見て何も思わなかった時点でその可能性はないものだと思うけどね。それに声をかけるのならせめて肩を叩くなりワンアクションをして欲しい。こう神出鬼没な現れ方をされるとこちらの心臓が持たない」

「あら、それは失礼したわ。何でも健全な精神は健全な肉体に宿るらしいから試したんだけども、そう言えばあなたの肉体は強靭ではあっても健全ではなかったわね」

「理解が得られたようで何よりだ」

 まあ、これぐらいで驚いていてはこの屋敷で生きていくことは不可能だろう。まあ、既に同級生と混浴している時点で今更感は禁じ得ないけれども。多分それより心臓に悪い出来事はそうはない。

「で?またどうしてこの部屋を?」

「いや、ただ何となくだよ。手当たり次第に部屋を巡っていたらたまたまこの部屋を引き当てたというだけのことさ」

「因みにここで立ち止まっていた理由は聞いてもいいのかしら?確かにあなたが他の部屋を物色していたのは事実だけども、この部屋程時間はかけていなかったはずよ?」

「覗き見とは趣味が悪いね」

「どの口が言ってるのかしらね」

「確かに」

 覗き見を現行している身である。

「それで、理由は?この部屋には何もめぼしいものは落ちていないはずだけど?本棚と本がいくらか残っているだけでしょう?」

「よく覚えているね。これだけ部屋の数があるというのに。僕は道を覚えるだけで精一杯だよ」

「そりゃまあ、私が子供の頃に使っていた部屋だもの。自分が使っていた部屋ぐらい普通、覚えているものでしょう?」

「まるで今は大人みたいな言い草だな」

「あら、少なくとも並みの大人よりかは稼いでいるのは確かよ?今の大卒の初任給よりかは稼いでいるわね。この屋敷を建てたのは私じゃないけれども、そもそもこの屋敷の維持費は私のポケットマネーから出しているんだし。見る?固定資産税がどれほどのものか。一応、去年の納付書は取ってあるのよ」

「いや、やめておこう。これ以上その話をしてしまうと多分収拾がつかなくなる」

 ――僕が言えた話でもないが、多分これは高校生がする話ではない。一体どこに日常会話で税金の話をする高校生がいるのだろうか。学校の授業じゃあるまいし。

 確かに、彼女の名前は既に世界に轟いているしその稼ぎも大体は推測することもできる。勿論、皮算用に過ぎないけれども。つまり、彼女はれっきとした社会の一員なのである。

 さらに言うと、かたや僕は唯姉との実質二人暮らし。家の諸々は僕の役目となっている。

 その点で言えば、僕も税金のあれこれは確かに密接に関わってはいる。がしかし、だからと言ってそんな世知辛い話をするべきではないだろう。いくら今が自由時間とは言え精神を抉るような話はしたくはない。無論、僕は働いてはいないのだが。絶賛モラトリアム真っただ中である。

「あらそう?残念ね。軽く一時間は潰せると思ったんだけど」

「それが問題だ。僕のせっかくの自由時間を潰すつもりかい?」

「別に?」

 ――何が『別に?』だ。そもそも僕の後をつけて来た時点で僕に何かをする腹づもりはあっただろうに。一番に考えられるのは今朝の朝食の件だろうか。

 しかしまあ、そんな彼女との雑談は置いておいてこの部屋の持つ空気感の説明はついた。つまるところこの部屋には実際に人が住んでいたのである。それ故の、心地よさだったのだろう。つまらん。

「なるほどね。僕もつまらない人間になってしまったな」

「まるで今まで面白い人間だったとでも言いたげね」

「それじゃあこう言い換えようか、僕は下らない人間になってしまったとね」

「それは何?この部屋にある種の懐かしみを感じたからかしら?私が見たところそんな感じの感覚を覚えていたようだけど」

「よく見てるじゃないか。流石のストーカー術だ」

「覗き魔には言われたくないわね。……それになんか文句も言いたくなってきたわ」

「文句?」

「そうよ。私の裸を見て何も思わないのは百歩譲って認めるけれども、なんだってこの部屋にそんな感情を抱くのよ。あなたの感受性ってもしかして狂ってる?」

 ――いや、それを認めていいのか?

 だが、しかし彼女が僕をつけてきたのはやはり、今朝の会話の続きをしたいかららしい。いやはや、負けず嫌いもここまでくれば見上げたものである。

「最初に自分の魅力のなさを疑わないあたり流石だね。それでこそ鍵盤上の暴君だ。それぐらいの自尊心が無ければあの世界ではとてもじゃないけど生きていけない」

「知ったような口を」

「まあ、実際に思い知った側の人間だからね、僕は。それぐらいの憎まれ口は叩いたって悪くはないだろう?」

「でも、本人に言うのは流石にどうかしらね?これで私が普通の女の子だったら寝込んで一週間は食事も喉を通らないわよ?」

「それは君が普通の女の子じゃない時点で破綻しているね。僕だって誰かれ構わず憎まれ口を言ったりはしないよ」

「嬉しくないわね」

「そりゃ褒めてないからね。それとも、まさか僕が君を褒めるとでも思っていたとでも?」

「そのまさかよ」

「⁉」

 素直に驚いてしまった。馬鹿みたいに口を大きく開けてしまった。絶句してしまった。

 まさか?この僕が彼女をどう褒めろと?いい体をしているじゃないか、とでも変態宣言をすればいいとでも言うのか?

 ……。自分で言って気分が悪くなってきた。

「まあ、でも今日のところは許しておこうかしら。瞑の見込みでは今日で十曲が仕上がるらしいし。それじゃ、そう言うことで」

「えっ、ちょっ」

「ああ、一つ言っておくけれども、瞑は時間にはとことんうるさいのよ。遅刻なんてした日には私でも怒られるぐらいに。私でさえそうなら、果たしてあなたが遅刻したらどうなるのかしらね?私の時計が正しければ後三分で今日の特訓が始まるはずなんだけど」

「えっ?もうそんな時間?」

「さあ?自分の目で確かめてみたらどうかしら。見たところ時間が分かるものは何も持っていないようだけど。そもそも、食堂を出た時間だってあなたは確認していないでしょうから、あったところで意味はないんでしょうけど」

 その彼女の言葉通り確かに僕は時間など正確に把握していない。全ては僕の体内時計だよりである。巷では風呂場まで持っていくという噂のスマートフォンは和室に置いてけぼりである。なぜならこのところ、この屋敷に連行されたからというもの、必要性が全くなかったからだ。むしろ邪魔ですらあった。

 僕もピアノを弾いていた手前、時間感覚には割と自信がある方ではあるが、しかしそれはあくまで時間に対して集中していたならば、或いは時間の分かる――つまり、ピアノを弾いていた場合に、と言う話であり、すなわち彼女と会話をしていた時間は全て僕の体内時計では計測されていない。

 ――なるほど。人との会話というのは時間感覚を狂わせるものらしい。

 そんなためにならない教訓は、果たして瞑さんの棍棒によるケツバットという形で刻まれることと相成った。

 椅子に座れなくなるギリギリで加減する、瞑さんのその腕前に傾倒と畏怖の念を感じつつ、僕はいよいよ最後となる十曲目の完成に取り掛かる。因みに選曲は二曲目から瞑さんに委ねている。単純にわざわざ長梯子を使って上段の楽譜を取るのが面倒になったからである。他意はない。

「では最後の曲です」

 痛む尻をさすりながらも、僕は何とか最後の曲までこぎつけた。

 そんな僕を、まるで何も関心のないように、いつもの如くの冷静な顔もちで手渡された本日三曲目はノクターンの20番『遺作』だった。


「これはまた難しいのを」

「まあ、難しくないと特訓になりませんからね。言い方は悪いですけど、あなた程度の技術があれば弾けない曲なんて存在しないんですから。最後ぐらいは趣向を変えてもいいでしょう。」

「おっと、これは意外だね。まさか褒められるとは思ってもみなかったよ」

「別に褒めてるつもりはありませんよ。ただ単に事実を言っているだけです。評価はしていますけど」

「それは褒めているということなのでは?」

「あなたがそう思うのならそうなんでしょう。どうぞご自由に受け取ってください」

「それじゃあご厚意に甘えて誉め言葉として受け取っておくよ、有難くね」

「どういたしまして。では本題に入りましょうか」

 そう言うと、瞑さんは何処からともなく液晶タブレットとそれにやけに高級そうな艶消しすらしてあるスピーカーを取り出した。明らかにスピーカーの体積の方が瞑さんより大きい気もするけれどもはや気にするまい。指摘したところでメイドの嗜みだと窘められるのがオチである。

「まあ、今回ばかりは流石に私を超えることは余りに容易いですからね。この曲を楽譜通りに弾くことは余りに容易いので、今回のお相手はこちらになります」

 そう言い終わるや否やスピーカーから流れてきた音声は確かにかの有名なショパンの遺作の一つではあったけれども、しかしその音色には確かに聞き覚えがあった。音と言うよりかは弾き方と言った方が正しいだろうか。その弾き方に僕は既聴感を覚えた。

「因みにこの演奏は誰のものか聞いてもいいのかな?」

「そう聞いている時点で答えは分かっているのでは?あなたが聞き覚えのある演奏なんて数えるほどでしかないでしょう?」

 ――確かにそれはそうである。と言うかほぼ二択だ。

 つまり、この演奏は僕か、件の暴君かの二つに一つという訳だ。正直言ってあの頃の僕はとても人の演奏で心を動かされたりするような感受性を持ち合わせていなかった。故に、僕が知っている演奏は僕か彼女しかありえない。

「十中八九、この演奏は僕だね」

「理由は」

「この演奏は彼女ほど荒々しくはない。僕の心をざわつかせるほどの演奏でもない。消去法的に僕の演奏という結論なんだけど、当たってる?」

「面白みもない思考回路ですね。そこは演奏家らしい何かしらを期待していたんですが」

「僕にそんなものを期待されてもね」

「それもそうですね。何でしたっけ、鍵盤上の冷君、でしたっけ?」

「嫌な過去を掘り起こすな。その名前はとうの昔に捨てている」

「いいじゃないですか、二つ名って中々つくもんじゃないですよ?」

「まさか本気でそう言っているのか?」

「まさか。私ならそんな二つ名がついたとあっては、身を投げかねません。そもそも、二つ名と言う言葉の響きそのものが身の毛がよだつほど嫌です」

「……だよね。ならいいんだ」

「?」

 やや納得がいっていない風の瞑さんではあるが、これ以上この話に時間を割くのはよしておいた方がいいだろう。あの頃の僕はその二つ名をいたく気に入っていたなどと言う黒歴史をつい口走りかねない。

「それじゃあ早速始めるとしようか」

「いい心がけですね」

「そりゃどうも」

 まあ、取りあえずはこの曲を仕上げるのが吉だろう。当時の僕が相手となってはそんじょそこらの気合では全く足りない。ましてや技術ではとても勝てない相手である。

「では、私は仕事をしてきますので、納得がいったら呼んでください」

「りょーかい」

 そんな感じでいよいよ最後の十曲目は始まった。わざわざ言うことではないかもしれないが、このショパンの遺作は、正直言って少しピアノを齧っていれば弾けはする曲ではある。最後の35連符がやや難しいが、慣れれば何も問題はない。だからこそ、瞑さんはこの曲を最後に選んだのだろう。今まで散々超絶技巧の名を冠する恐ろしい曲を僕に弾かせておいて、その上でのこの曲である。

 この曲は、簡単が故に、僕には難易度が跳ね上がる。難しいのは何も技術的に、というだけではないのだ。稀代の名曲ラ・カンパネラよりもはっきり言って僕には難しい。表現力などと言う言葉とは無縁の生活を送ってきたからである。

 だがしかし、ここで諦める僕ではない。感情を込めろというのなら込めてやろう。それほどまでに僕はやる気に満ち溢れていた。恐らくそこにはようやくこの生活から解放されるという喜びもあったのだろうが、しかしここでそれを言うのはいささか無粋と言うものだろう。僕はその気持ちを押し込め、黒と白の世界へと再び身を投じた。

 まあ、そもそもとして、スピーカーから流れるそれが余りに無感情だったのも大いに起因するけれども。仮に、演奏者があの暴君だったならば僕は勝負する気も起きなかったに違いないのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ