011
「楽譜は何がいいかしら。一通りは揃ってあるわよ?」
しかし、一通りと言うには多すぎるほどの楽譜がその部屋にはあった。ピアノが二台あっても尚軽く十人はすめそうなほどのスペースは余っていたが、その壁一面は全て楽譜で埋まっていた。はっきり言って異常である。よほど大きな店でなければあり得ないほどの蔵書をその本棚は誇っていた。これだけで軽く楽譜屋を出せそうなものである。需要があるかは別として。
まあ、そんなものは彼女がサインでも書けばいくらでも生み出せるのだろうが。
「なんでも構わないよ、君が弾いてほしい曲を選んでくれればそれで」
「分かったわ。それじゃあ少し待っててちょうだい?とびきりのを持ってくるから」
どうやら、彼女は楽譜の場所を把握しているらしい。ゆうに一万は超えるだろう楽譜の場所を彼女は覚えているとでもいうのだろうか。
「別にそういう訳じゃないですよ。一応の規則性を持って楽譜は並んでいます」
「だよね」
勿論彼女が僕の心の声を読んだことには突っ込まない。それに、推測という線だってありうる。ここまでの圧巻な本棚を見せられては僕と同じ感想を普通抱くだろう。
「まあ、その規則性は私には分からないんですけどね。規則性があるらしいということしか私は知りません。名前順でもないですし、作曲家でまとまってもいません。調ごとに組み分けされてるわけでもないですし、年代順に並んでいるわけでもありません。要するに謎ですね」
「さいで」
しかしまあ、規則的に並んでいるのは確かなようでもののニ、三分で彼女は楽譜を持ってきた。
「とりあえずリストとラフマニノフを何曲か持ってきたわよ。オススメはラ・カンパネラね。あなたの現状を把握するには丁度いい楽曲だし、これならあなたも弾いたことあるでしょう?あなたってリストが好きそうだもの」
「僕がリストを好きかどうかはさておいて、そりゃまあ弾いたことはあるよ。ピアノに全く関りのない人間でさえ知っているぐらいの名曲だ。もっとも、今の僕が到底弾けるような曲じゃないけどね」
「だからいいんじゃない。ただでさえ完璧に弾ける人が少ないんだから多少ミスしたところで恥ずかしくもないでしょう?」
「いや、多少のミスどころではないんだと思うんだけど?そもそもまともに暗譜しているかすら定かじゃない。何せ一年以上前の記憶だ」
「うるさいわね。いいからさっさと弾きなさいよ。せっかく昨日ピアノを調律したんだから、瞑が」
「瞑さんって調律もできるの?」
「メイドとして当然の嗜みです」
「さいで」
調律は中々に技術が要するものだった気がするが、まあメイドとはなんぞかを知らないのでとやかく言うべきではないだろう。何度も言うが、彼女を僕が持つ尺度では測れない。
僕は目の前で嬉々として楽譜を差し出す彼女に促され、気づけばピアノの前に座っていた。
「さあ、一君。弾いてごらんなさい」
「いつから僕は君の教え子になったんだ」
「でも、ここではあなたが一番の弱者でしょう?瞑だってこれくらいの曲、完璧に弾けるわよ?」
「瞑さんも?」
「勿論です。メイドとして当然の嗜みですから」
――もう、メイドをやめて大人しくピアノの道を進めばいいんじゃなかろうか?この超絶技巧曲を完璧に弾ける人間なんてそうはいないのだ。
「でも、瞑のピアノには精密さしかないのよね。あの頃のあなたみたいに。つまり、面白みがないのよ」
「別にプロでもないならいいのでは?コンクールの制度上、精密さは一番の武器だろう?あの頃の僕に敵がいなかったのもそれが理由だし」
「それはそうだけど、まあプロとしては生きていけないわよね。表現力がないことにはこの世界じゃ生きていけないわ。それを感じたからあなたも逃げ出したんじゃないのかしら」
「さあ、それはあの時の僕に聞いてみないと分からないね。そもそもとして、あのままピアノの世界で生きていくつもりがあったのか今では定かじゃない」
「ふーん。まあ、どっちでもいいけれど、それなら今あなたがピアノを弾けないってことはないわよね」
「さあ、それは弾いてみないと分からない」
「それじゃあ、どうぞ。決して笑ったりはしないから遠慮なく弾いてちょうだい」
いよいよ覚悟を決めねばならないようである。一年間のブランクがあって初っ端『ラ・カンパネラ』は気が引けるけれども、まあ、彼女の言葉通りある意味気楽である。多少のミスがあっても問題無いということはそれ即ち適当に弾いていいということである。曲解しすぎかもしれないが、しかし、あの一切のミスが許されない張りつめた空気感の中で引かなくてもいいということは最低限あるだろう。つまり、やはり気楽に弾いていいという結論に至る。
僕は右手の親指を一つの黒鍵に置き、そして、遠慮なく右手を跳躍させ鍵盤を叩く。正直言って楽譜――と言うか僕自身の一身の都合上譜面台に置かれたそれはほとんど用を為さない。当時こそ目をつぶってでも弾けてはいたものの、今の僕は自分の手を目で追わねばまともに正確な鍵盤を叩くこともできないのである。つまり、楽譜をじっくりと見る余裕はほとんどない。
と、いう訳で。楽譜は一瞥し、曲の流れを大まかに確認するだけに留め、僕はかつての記憶をたどりながら、殆ど自分の記憶のみを頼りにピアノに向かう。
結論から言って、その僕の演奏は余りにもお聞き苦しいものではあったけれども、何とか最後まで演奏することはできた。それが楽譜通りの正しい演奏だったかは定かではないけれども。兎にも角にも僕は鍵盤から手を離した。
七分弱という短い時間ではあったが、久しぶりの全力は、鈍った僕の体にはだいぶ堪えたようで、弾き終えた僕は息を切らし、少し肌寒いぐらいだった室内で僕は汗すらかいていた。
「やけに時間がかかったわね。普通五分ちょとで弾き終わるような曲よ?」
「そりゃまあ、思い出し思い出しでやったからね。むしろ早く終わった方だよ」
「にしては、普通に弾けてたようだけど?もしかして、裏で練習でもしていたのかしら?」
「まあ、だてに僕も最前線で戦ってはいなかったってことじゃない?流石の僕もここまで弾けるとは思わなかったけども。意外と暗譜できていたことにも驚きだ」
「ふーん。あなたはどうだったの瞑?」
「はっきり言ってお粗末ではありましたが、まあ初心者にしてはまあまあだったんじゃないでしょうか?」
「いや、初心者って」
「私なりに褒めたつもりですけどね。経験者としては正直褒められたものではなかったですから」
「何か当たりきつくない?」
「いえ、いつも通りです」
「さいですか……」
そう言えば当たりがきついのは最初からか。初対面で棍棒を振り回すのを当たりがきついと言わずして何といえばいいのか僕は知らない。文字通り当たりがきついのだから。軽い打撲で済んでいるのが不思議なぐらいである。
「しかしまあ、よく素直にピアノを弾く気になったわね。正直、初日で成功するとは思わなかったわ。今後の計画がおじゃんよ。もう少し、じわじわいくつもりだったんだけど」
――白々しいな。
「そりゃよかった。これ以上は僕の体がもたなかっただろうから」
「それじゃあ、次の段階へ進みましょうか。時間はたっぷりあるんだもの。一日目で山場は超えたしゆっくりいきましょうか」
「ん?これで僕の軟禁生活は終わるんじゃなかったのかい?」
「そんな訳ないわよ。そもそも私があなたを連れてきた目的もまだ言ってないでしょう?早とちりはするもんじゃないわ」
――まあ、確かに彼女の言い分は通っている、か。僕がピアノを弾くだけで済むと思っていたのは完全な僕個人の予想に過ぎない。
「それじゃあ、君の本当の目的は?」
「最終的な目的は何度も言うように、あなたを再びあの世界へ連れ戻し、その上であなたともう一度勝負すること。今は、その為の第一手段として文化祭であなたをステージに立たせることを目標としているだけよ。それは屋上で言ったでしょう?あなたをここに連れてきたのはその前段階ね。つまり文化祭であなたがステージに立つことを了承しない限り私の手からは逃れることはできないということかしら」
「そいつは初耳だね」
「勿論よ、今初めて言ったもの」
――まあ僕が察するところ彼女は僕を再び元の舞台へ立たせ、その上で僕を叩きつぶしたいのだろう。正真正銘、勝負にも試合にも勝ちたいという訳だ。まあ、既に言った気もするけれども、まあ確認することは悪いことではないから良しとしよう。大事なことは何度でも言うべきだ。
「そりゃまあ、大層なことで。それで?僕はこれから一体何をすればいい?練習?それとも君の条件をのめばいいのか?文化祭に出ますと署名をすればいいのか?血判ぐらいならしても構わないけど」
「まあ、それに越したことはないけど、正直言って今のあなたと勝負したところで大した面白みもないのよね」
彼女は腕を組み、考え込んだ風を装う。彼女の言葉通り、既に僕に対する作戦は練っているのだろうし、多少僕が計画に無い行動をしたところで、彼女が考え込む理由は何もないのだろうが、まあ恐らくは雰囲気づくりといったところだろう。殊勝なことである。
「そうね、それじゃあ瞑にピアノで勝てるまで帰れまテンと行きましょうか。ちゃんと十曲全てで、ね。もしあなたが瞑に勝てたなら晴れて解放としましょうか」
「お嬢様、それは流石に私を軽んじすぎです。今の音無様が私程度の力を取り戻すには軽く一月はかかると思われます。その上、十曲となると少なく見積もっても三ヶ月はかかるかと」
「なるほどね。だ、そうよ、一君。この勝負降りる?」
――客観的に考えて、瞑さんの言い分はもっともである。たどたどしくもなんとか七分で弾き終えたラ・カンパネラを瞑さんは完全に弾けるのだろう。五分ちょっとで、しかもノーミスで、である。ピアニストが本職ではないのに驚くばかりだ。
主の言葉を信じるのならば、ではあるけれども。だがしかし、僕の演奏をお粗末の一言で切って捨てた、瞑さんと僕の力の差は歴然に違いない。
「まさか。その勝負、勿論受けるとも」
しかし、僕に勝負を降りるという選択肢はない。何せ、もうここまで来ているのだ。ここで退いては男が廃るってもんだろう。まあ、唯姉にしこたま殴られている時点で男どうこうもあったもんではないが、そこには目を瞑ってほしい。瞑さんだけに。
「あらあら、音無様。学校に行かないおつもりですか?これ以上学校を休めば二回目の高校二年生を送る羽目になるかと存じますが」
「ご心配どうも。しかし生憎と僕は負けるつもりはさらさらないし、まあ、留年もしたくないからね。ここは全力で行かせてもらうよ」
「一曲弾いただけで息の上がるような人間が良くもまたそんな口を叩けますね。脳みそつまってますか?」
「レントゲンでは異常はないね。1000回殴られてもいたって正常だ」
「……はあ。そう言うつもりで言ったのではないんですが、まあ良いでしょう。音無様がその気なら受けて立ちます」
「話はまとまったみたいね。それじゃあ勝敗の判断は瞑に一任するわ。よろしくね」
「かしこまりました」
「一君も、それで構わないかしら?」
「まあ、別にいいけども、そう言う君はどうするんだい?君のことだ、てっきり審判役でもやるのかと思っていたんだけど」
「まあ、それも正直アリだけども、ご存知私は世界を股に掛けるピアニストなんだから、素人演奏を聞く余裕はないのよ。よく言うじゃない?一日の遅れを取り戻すには一週間かかるって」
「初耳だね」
「まあ、私の持論だから。ともかく、私は私の練習をしないといけないのよ。私がいなくて寂しいのは分かるけども、残念ね」
「ああ、残念だ。残念極まりないね。ここが僕の部屋だったら大声で泣いてしまうところだった」
――正直言って有難いことこの上ないけれども、まあこの場面はこうしてあしらった方が得策だろう。
「……忠告しておきましょうか一君。嘘を吐くならもうちょっと心を込めなさい?私には別に構わないけど、瞑にそれをやったら首と胴体がおさらばになっちゃうわよ?」
「気を付けるよ。このご時世にそんな古典的な死に方をしたくはないからね。老衰で死ぬのが僕の夢なんだから」
「それは初耳ね。あなたにそんな人並みな夢があったなんて」
「そりゃまあ、今考えたからね。これでもう聞き飽きたわ、なんて言われては返って困るってものさ」
「はあ、まあ良いわ。あなたが何故そんな意味のないことを言ったのかは測りかねないけれど、要は瞑の判断に一任して問題ないのよね?」
「問題ないね」
「それは良かった。それじゃあ私は隣の部屋にこもるけども、ご飯の時間と勝敗が決した時は教えて頂戴。瞑にはまかせっきりにはなるけれど、それぐらいのハンデがあったほうが良いでしょう?」
「不本意だけど、認めざるを得ないね」
「瞑もそれで構わないかしら?」
「メイドですから」
その瞑さんの返答に満足してか、「隣の部屋ってさっきの部屋のことね」とだけ言い残して、彼女は部屋を後にした。
そして、その扉の閉まる音は即ち僕の地獄の始まりを意味する。ああは言ったもの、正直勝てるのかどうか分からない。むしろ分が悪すぎるまであるだろう。瞑さんの立場上、僕の方がよりピアノと向き合えるというハンデはあるものの、もはやそんなハンデはないに等しいのである。それほどまでに現時点での実力差は甚だしい。
「では音無様、まずは一曲目、いきましょうか。言っておきますけど手加減はしませんからね?賄賂があれば話は別ですけど」
「君に賄賂が効くのかい?」
「物によっては、ですけどね。まあ何が私に効果的なのかは言うつもりはないですけど」
「ですよねー」
――まあ、いいだろう。そんなものはもとより期待していない。仮に手ごことを加えてもらったところで、あの暴君はそれをいともたやすく見破るに違いない。彼女もだてに鍵盤上の暴君を名乗っていない――いや、勝手に言われているだけか。
しかし、実力は折り紙付きである。こと、ピアノにおいては。
「ですが、まあハンデとして勝負曲はご自由に選んでもいいですよ?一応ここの曲は全て網羅してますから」
「これを?全部?軽く二万曲はありそうだけども」
「メイドして当然の嗜みですから」
「さいで」
メイドの嗜み恐るべし。
しかしまあ、僕の自由に曲を選んでいいのなら少しばかりは気が楽である。こんな僕でも持ち曲と言うのは十曲以上は存在する。勿論『ラ・カンパネラ』は論外だ。
「それじゃあ、まずはこれで」
「ほほう。ショパンの幻想即興曲ですか。普通ですね」
「そこはセンスがいいとか言ってくれないか?割と好きだった曲なんだけどね。僕が最後に弾いた曲でもあるんだし」
「曲のセンスは確かにこれ以上はありませんが、ここでそんなメジャーな曲を持ってくるあたりあなたは普通ですね。もっとマイナーな曲で攻めた方が勝率も高いと思いますけど」
「君は全部網羅しているんだろう?それなら僕が得意な方から攻めた方がいいと思ってのこの曲なんだけど」
「なるほど。では質問ですが、あなたはどうやってその曲を見つけたんですか?一応この本棚に一目でわかる規則性はないと言ったはずですが」
「いや、単純に本棚の一番右上にあったからね。最初に目についたのがこの曲だという訳だ。その上弾きなれた曲だというのなら話は早い」
「なるほど。では、一つだけお教えしておきましょう。お嬢様はその本棚の右側に行けば良く程、その曲をよく練習しますし、逆に左側に行けば行く程その頻度は低くなります。そして段数が下がれば下がるほど頻度もまた低くなります。つまり一番左下の曲は滅多に弾かないという訳です。まるで元素の周期表みたいですね」
「それじゃ、結局規則性があるじゃないか」
「確かにその傾向はありますけど、気分で変わるものを規則性とは呼べませんからね。と、話を戻して、つまり私が何が言いたいのかと言うとお嬢様が好きな曲は私もまた好きだということです」
「なるほど。それじゃあこの曲は君の得意曲という訳だ」
「そうなりますね。次の曲からは出来る限り左側それも下段のものをオススメしておきます」
「諸刃の剣だね。生憎中段、下段は見たことのない曲がずらりだ」
「まあ、あくまで提案ですから。それをどう扱うかはあなた次第です」
「忠告どうも。しかし、今は幻想だろう?まずはこれで君に勝たないとね、貴重なアドバイスは活かせない」
「それもそうですね。ではさっさと勝負を始めましょうか」
「ああ、始めよう」
そうして戦いの火蓋は切られた。
と言っても、まあ血で血を洗うような激しさは一切存在せず、ただ単に僕がピアノに向かいひたすらに練習。それを横目で見ながら僕の演奏をBGM替わりにして瞑さんが本を読むという、戦いという言葉がまるで似つかわしくないものだったと言っておこう。
瞑さんがとった勝負というのは、つまり僕の演奏が瞑さんの基準を越えたら僕の勝ち、それまでは次の曲には進めないといった、殆ど自分との闘いだった。僕は来たる飽きにおびえながらもなんとか曲の練習をこなしていったのである。




