000
「ねぇ、音無少年。君はいつまでそうしているつもりだい?」
「そうしている、とは?」
誰も居ない学校で。誰も知らない教室で。僕も知らない誰かと誰かが対話していた。
対話――というよりかは尋問に近いのだろうか。知らない誰かは、知らない誰かから一方的に言葉を投げられているようだ。
何やら、黒い布を被せられた、一見すると机にも見える歪な形をした、机の用途すら満たしていないそれを挟む形での出来事であるところを鑑みるに、その光景自体、どうも違和感が勝ちすぎる気もするが、まあ、見ず知らずの二人が知らない空間で対話するなんて状況に比べれば、やや見劣りはするだろう。無視しても構わない。違和感だってそちらの方が大きい。
「君がいつまでそのくすんだ灰色の世界にいるつもりなのかと聞いているんだ。僕の知る限り、昔の君はバラ色とはいかなくとも輝いてはいたはずなんだけどなあ」
尚も、知らない誰かは言葉を続ける。
多分、これは僕の心象風景なのである。そして対話をする二人は恐らく両者共に僕だ。
伊達や酔狂という訳ではない。誰も知らないという言葉に嘘はないし、顔ははっきりとは見えなかったけれども、しかしその声には聞き覚えがあった。録音した自分の声に得てして人は、違和感を感じるらしいが、これは非現実とは言え、あくまで生の声である。僕が聞き間違う道理は存在しなかった。
「残念なことに今の僕にあの頃の僕に戻るだけの気力は存在しないんだ。それに望みすら抱いちゃいない。つまり、君の訴えは全くの無駄という訳なのさ。こうして毎夜毎晩僕の夢に休むことなく出てくるのは感心しないでもないけどね」
しかし、僕はそう返す――いつものように。
ネタ晴らしをすれば、この光景は何も初めてではないのだ。故にそういった結論が導きだされたのである。単純明快、経験則による帰結である。
これが、仮に初めてであれば、ただその光景に驚くのみなのだろうが、ここ最近こんな夢ばかり見るので慣れっこになってしまった。無論、最初こそ驚いたものの、これが夢だと分かればなんてことはない。起きようと思えばすぐに起きることが出来る。明晰夢と同じ要領だ。
――だが。
「果たして、今日の君はどうかな?今日が何の日か分からない君ではないだろう?」
どうも、今日の夢の内容はいつもと違うらしい。いつもは、僕が軽くあしらって終わりなのだが、今日の僕は僕を引き止めた。
「今日は二年生最初の登校日だけど、それがどうかしたとでも?」
「ゆめゆめ油断することなかれ、音無少年。仮に君が今の生活のままを望んでいるのであれば、という話ではあるけどね」
「ご忠告痛み入るよ。それじゃあ僕はそろそろ起きるから。君が言った通り今日は二年生の初日、今日の朝は少し早いんだ」
そう答えると、顔も見えない対話相手は姿を消した。恐らくではあるが、笑みを浮かべていたんじゃないかと僕は思う。表情は相も変わらず見えなかったけれども、そんな雰囲気を僕は感じた。まるで、これから起こることが分かっているかのように……。
なんてプロローグを書けば、或いは『ゆめゆめ油断することなかれ』などという、これ見よがしの一言を言い残せば、これから何かビックイベントが――例えばクラスメイトの一人が謎の死を遂げるなんてものがやってきて、それに僕がシリアスな雰囲気であれやこれやと気をもみながら解決していく。なんていう、現実ではそうはない非現実的なストーリーを思い描くんだろうけれども、しかしそんなことは断じてないと断言しよう。もっとも、だからと言って先の会話で嘘を言っているわけではないけれども。
今日から新二年生としての生活が始まるのは揺るぎようのない事実だし、そして今日の僕が早起きだったというのもまた事実である。勿論今日の夢の内容も。
ただ僕がシリアス口調で一部省略、また分かりやすいように訂正して紹介しただけで、多分本当はお菓子でも食べながら談笑していたんじゃないかと僕は思う。夢なんてそんなものだろう?そもそもとして、夢の内容を徹頭徹尾、隅から隅まで、完全に覚えている訳がないのだから。完全記憶能力を持つ人間だってそうじゃない――らしい。
まあ、何はともあれ、僕は実に一月ぶりとなる私立千色高校へと足を運ぶ。
僕は部活に所属していない。その上、これと言った交友関係のないただの一高校生の長期休暇といえば家で惰眠を貪るしかやることがないだろう。それこそやる気のある学生は図書館や予備校なんぞに行って勉強に勤しむのだろうが、日々惰性で生活を送っている僕がそれに習う道理はこれっぽっちもありゃしない。正直、家を出て陽の光を浴びることすらも久しぶりと思えるほどだった。家を出て早々、まだ太陽も昇りきっていないというのに、目つぶしを喰らったぐらいである。
家の前から千色高校へと続く、短く平坦な道は足に重りでもついているのかと勘違いするほどに気怠く、そして途方もないほどに長く感じた。だがしかし、時刻は七時過ぎ、気温は二十度を少し下回る程度の、ひどく過ごしやすい一日だった。どうも、単純に体力が落ちているらしい。
さて、簡単に僕のニートぶりを説明したところで、ここで一つ何故僕が早起きをしたのか解説しておくべきだろうと僕は考える。一日の内半分は睡眠に費やし、定期テストは赤点ギリギリ、おまけに出席日数もギリギリな一年を送っていた僕が早起きしたのには並々ならぬ理由が無くてはならないだろう。それこそ、退学処分を宣告されるぐらいの罰が無ければ僕が朝早くに学校に行く理由は存在しえないのだ。
まあ、僕の今日の夢の一部始終を知っていれば何があるのかぐらいは察しがつくんじゃなかろうか。因みに正解は、担任の先生との一対一の面談である。
いやあ、夢の中でも面接の対策を練るなんていつから僕は敬虔な生徒となったのだろうか。こんな自堕落な僕が出来てしまうのだから睡眠学習が誤った用法で広がるのも秒読みかもしれない。
――が、しかし。
そんな軽口を叩くだけの余裕は校門をくぐった瞬間に叩き落とされた。
校門で仁王立ちする、一人の女子生徒を見て。
「あら、一君じゃない。久しぶりね。元気にしてたかしら?」
僕がその姿を見て狼狽するのを見てか、その人物は口角をニヤリと上げ、そう僕に問うた。
担任の先生でも、僕のクラスメイトでもない、ただの古い顔見知りが僕を待ち受けていたのだから、僕がそうするのも無理もない。何せ、彼女は古い顔見知りなのだから。
――そう、古い顔見知り、である。
「……な、なんで君がここに?」
思わず言い淀んでしまった。
単純に僕がこの春休み、人とまともに会話をしているのもあるのだろうが、しかし、何より、彼女がここにいるということが僕にとってあり得ない事であり、望んですらいなかったことだった。故に僕は彼女が僕の目の前に存在するという事実の把握に精一杯だったのである。そもそもとして彼女の存在は忘却の彼方に押し込めていたはずだったのである。
「ただの偶然よ。一身上の都合で転校したのがここ千色高校で、たまたま一も同じ学校に在籍していたというだけの話よ。ほら、聞くところによるとこの学校って例外だらけなんでしょう?そうなら問題ないと思うんだけど、いかがかしら?」
――いや、いかがかしらと言われても。さいですかという当り障りのない返答を返すだけで精一杯。そんな仕組まれた偶然があってたまるか、という至って普通のツッコミを返すことすらも僕にはできなかった。
「積もる話は後にしてもらってもいいかな?今僕は忙しいんだ。絶賛呼び出し中でね、半までに教室にたどり着かなければ進級すら危ういんだ。ひょっとすれば僕はこの学校を去らなければならなくなるかもしれない」
「ああ、そう言うこと」
なるほど。と彼女は手を打った。どうやら腑に落ちたことでもあるらしい。
「道理であなたが早く学校にくるわけだ。……ええ、そう言うことなら私も同席しようかしら」
「全く話がみえてこないんだけど?」
「どん臭いわね。つまり私もあなたと同じ立場だということよ」
と、いうことらしかった。やはり府に落ちない。彼女は僕の知る限り、この学校の生徒ではないのだから。