第80話 あかね、撮影所へ行く
少し幕間のようなお話が続いた後、C99冬が始まります。
夏コミから1週間。
大学は休みのままだが、周囲の大人たちはすっかり日常に戻っている。
コミマの間はずっと一緒だった雀田とも朝夕しか顔を合わせない。
日課の朝のジョギング。
日替わりでお目付け役が付き合ってくれるが、今日は雀田の番だ。
真夏の街を走るのはこの時間ぐらいしかない。それにしても湿度が高く汗が噴き出るのだが。
折り返し地点にあたる公園での休憩中に雀田へ切り出した。
「東英撮影所、ですか」
「ええ。雀田に付き添いをお願いしたいのだけど」
「それは構いませんが、どういったご用件ですか」
「実は」
それは、高村トシヤからの提案だった。
笑顔がぎこちない……ストレートに言うと下手なあかねのために、表情を作るためのレッスンを紹介してくれるらしい。
「それはよろしいですね」
「ええ。入構については高村さんが許可を取ってきてくださるとのことなのですが、雀田の分もお願いしようかと思って」
「ん? あ、ご存じなかったんですか、お嬢様」
目を丸くする雀田。
思ってもみなかったことを口にした。
「瑞光寺の方は顔パスですよ」
「えっ?」
何年振りかに、間抜けな声が出た。
夜、チャットで繋がった高村トシヤに朝発覚したことを報告する。
まさか家業の関係で撮影所に出入り自由とは思わなかった。
『……というわけで、許可は不要とのことでしたの』
『瑞光寺の名前は聞いたことがあったけど……いや、もしかしたら親戚か何かかなとは思ったけど、瑞光寺さんの実家だったとは』
撮影所設立に多大な貢献があって、今でも撮影に協力している。
そんな謎の会社の名前として何度か聞いたことはあったらしい。
『まさかわたくしの実家がそんなことをしていたとは思いませんでしたわ』
雀田もその撮影場所の管理の仕事をしているらしい。初耳だった。
瑞光寺の家の敷地内の建物で仕事をしているとは聞いていたが、警備か何かかと思っていた。一応不動産管理の仕事をしていたのだ。
しかし、あかねのお目付け役はどういう仕事の位置づけなのだろう。あまり気にしたことがなかったが、ここに来て微妙に気になってきた。
『それにしても顔パスとはね』
『わたくしは顔が知られているわけではありませんので、少し違いますが』
『それでも雀田さんは顔パスだなんて。知らなかったな』
『わたくしもです』
仕事で何度も入っているらしい。
もちろん撮影エリアや倉庫など用のない部分には入ってはいけないが、本館をはじめいくつかの建物には立ち入ったこともあるとのこと。
「仕事ですので」
雀田はクールに言い放った。
最近はコミマのときの浮かれた雀田を見慣れてしまっているが、それまでは口数少ない冷静な人だと思っていたのを思い出した。
雀田曰く、何を話せばいいのか分からず緊張していた、とのことだが。
『それじゃあ後は”女伯”のご都合を確認します。なるべく土曜で調整するので』
『承知いたしました。よろしくお願いしますわ』
チャットを終えたあかねは、SNSでChikiがアップした夏コミのコスプレ写真を眺める。
もちろんあかねの写っているものもあるが、写真越しでも疲れているのが分かる。それに表情が硬い。
これまではクール系のキャラばかりだったこともあり、気にされたこともなさそうだが、当事者だけは自分の不甲斐なさに情けなくなる。
今回トシヤの紹介してくれる”女伯”と呼ばれる講師のレッスンで、少しはマシになればいいのだが。
あかねはため息をついて、パソコンの電源を落とした。
約束の土曜日の朝、あかねは雀田と共に東英撮影所の受付にいた。
どういった手続きになるのか分からなかったが、涼しい顔をしている雀田にお任せする。
「こんにちは、瑞光寺の雀田です」
「あー、どうもどうも」
雀田を見た守衛のおじさんが気さくに笑顔を見せる。顔見知りらしい。
「今日はどなたですかね。連絡入れますよ」
「いえ、今日は付き添いで。こちら瑞光寺のお嬢様なのですが」
紹介されたあかねは、小さく会釈した。
「瑞光寺あかねです」
「へえー、社長の娘さん? 初めまして。入構の際は一応こちらに顔見せてくださいね。
「承知いたしましたわ」
優雅な礼に、守衛が息を飲む。
所作の洗練された人たちも出入りする場所ではあるが、あかねの若さで纏う雰囲気とは思えなかった。
ただそこはプロ。すぐに気を取り直して雀田に向き合った。ふたり分の入構証を取り出している。
「入構証をお渡ししますんで。あと、夜間は色々あって制限させてもらってますので、原則18時ぐらいまででお願いします。今日は見学ということですか?」
「いえ、今日は打合せのようなもので、高村トシヤさんのご紹介で『女伯』とのお約束です。管理棟のミーティングスペースで待つよう言われているんです」
「そうですか、了解です。確かに言付かってますよ」
守衛室のメモを横目にそう言った。
話が伝わっていたことに胸をなでおろす。
ちなみにトシヤは本名の高村トシヤで活動している。
「ではご遠慮なくどうぞ、お嬢様。ああ、帰りは入構証さえ戻していただければ良いんで。あと細かい注意事項はまあ、雀田さんからで」
「サボらないでください」
呆れたように言う雀田を見て、守衛が楽しそうに笑う。ずいぶん気安い関係らしい。
入構証を手渡されたが、そのほかは何も手続きらしきものはなかった。顔パスというのは本当らしい。
いいのだろうかと思ってしまうが、出入りが自由だからといって用事があるわけでもない。
俳優もいるだろうが、仕事中の彼らに話すような失礼なこともするわけがない。
勝手知ったると言わんばかりにどんどん歩く雀田を追う。
物珍しくはあったが、きょろきょろしている間に置いて行かれそうな勢いだ。
手近な建物に迷いなく入り、すれ違うスタッフに「お疲れ様です」と頭を下げる。
場に溶け込んでいる。
瑞光寺ではなく東英の社員と言っても通じそうだ。
「雀田はそれほど頻繁にでこちらへ来ていたのかしら?」
「うーん、そうですね。週1回ぐらいは来てる気がしますね」
「そんなにも」
目的地に着いたのか、会議室のような部屋に入って雀田が椅子に座る。
馴染みすぎている。
一体どんな仕事をなのかと聞いてみたかったが、その話題の前に来客があった。
控えめなノックに雀田が返事をすると、ゆらりと入ってくる人影。
「失礼するよ」
女伯。
なるほど、顔中に刻まれた皺は重ねられた年月を雄弁に物語る。
不思議なことに表情は柔らかく見えるのだが、眼光ははっとするように鋭い。
見定めるかのようにふたりを眺めると、そっと口を開いた。
「あんたらが……えーっとなんだ。ああ、受講者ってやつかい?」
「はい。あの、高村トシヤさんのご紹介で……『女伯』さんでしょうか」
「ああそうだよ。表情インストラクターの赤堀だよ。高村の指導もしてたからその縁でね。その『女伯』ってのは通称で……前は女伯楽だったんだがいつの間にか縮まっちまってね。なんか偉そうで嫌なんだがね」
「それでは赤堀先生とお呼びいたしますわ」
「そうしてもらえるとありがたいね」
赤堀はやれやれと椅子に腰を下ろすと、改めてふたりを見る。
多少の緊張はあるが、物怖じせず真っすぐ見つめ返してくるふたりを気に入ったようだ。
「それにしてもこんな別嬪がふたりとは。高村トシヤの知り合いとしか聞いてなかったから、すっかり男性だと思い込んでたよ」
「初めまして。瑞光寺あかねと申します」
「ああ、瑞光寺の。それはまた」
赤堀もまた、瑞光寺のことは知っているらしい。
雀田が初対面であるところを見ると、仕事では瑞光寺と関わることはあまりなかったようだ。
「ふうん、顔が良いわね」
「お上手ですわね」
赤堀は本心であるようだが、あかねは冗談だと受け取ったようだ。
このトップクラスに顔の良い人たちが集まる場所で、自分が褒めてもらえるとは思ってもみない。
赤堀は意味ありげに笑みを浮かべてひとつうなずいた。
今度は雀田が自己紹介をする。
「私は会社の方の瑞光寺の雀田です。今日は付き添いです」
「付き添いねえ。まあせっかくだしあんたも受けていきな」
「えっ」
雀田は慌ててあかねを見る。
おそらく高村にも言っていないだろうし、勝手に判断するのはまずい気がする。
相手はプロだ。
お金を積んでご教授願う相手のはず。謝礼の話は出ていないがタダというわけにはいかない。
そもそも表情インストラクターに、自分ごときが何をしてもらうというのか。
頭の中でぐるぐる思考する雀田だったが、あかねは涼しい顔でこう言った。
「そうね。めったにない機会なのだし、ご厚意に甘えるといいわ」
「……分かりました」
諦めの良い雀田は自分の選べる道がないことを早くに悟り、潔くうなずいた。
「インストラクターなんて呼ばれているけど、本業はただの演技指導さ。ただ表情への指摘が細かいもんだからいつの間にか表情インストラクターなんて呼ばれちまってね。自分の幅を狭めるようであんまり嬉しくないんだが」
赤堀はぶつぶつ言いながら準備を進めていく。
あかねの艶やかな黒髪を手に取ると、感心したように息を吐いた。
化粧を落とした受講者ふたりの髪をタオルでまとめると、化粧水のようなものを取り出した。
適量を手のひらにとって両手で伸ばす。
「じゃあちょっと失礼するよ……」
まるでエステのように、あかねの顔をむにむにとマッサージしていく。
時折状態を確かめるように、軽く押したり引っ張ったりもしている。
あまり経験のない感触だが、なかなか悪くはない。
「うーん、凝り固まっているね。緊張しないでいいからね」
よいせよいせと顔の施術を進めていく。
されるがままのあかねを雀田が興味深そうに眺めている。
「心理的なところもあるかもしれないわね……心の中の強烈なブレーキで自制しているようなもんだね。まずは筋肉に『こう動いてもいいんだよ』と教えてあげなくちゃいけない」
あかねは祖母に相当厳しく躾けられた。言動、所作、もちろん表情も。
だが最初の言葉遣いでの指導が行き過ぎ、いつしかあかねは笑わなくなっていた。
雀田があかねと出会った頃には今のような雰囲気だったが、雀田は表情の少ないあかねのことをずっと心配していた。
(自制……か)
なんとなく腑に落ちる部分はあった。
雇い主の家庭の事情に口を出す権利はないと思っているが、もう少しあかねのことを気にかけて欲しかったと思ってしまう。
ある程度のところで、赤堀が手を止めた。
少し疲れが見える。
「思ったより長期戦になりそうだけど、そうね……水曜土曜の週2で通うのはどう?」
「どうして私の方に聞くのでしょうか」
雀田は天を仰いだ。




