第8話 2日目 会場へ
行き交う人のいない静かな駅で、小さくつぶやく。
「少し汗ばみましたわね」
23区の端に住むあかねにとって、スタッフの集合時刻に間に合わせるだけなら、もう1時間遅い時間でも構わない。だが、あかねはこのコミマの日の始発が気に入っていた。
改札を抜けて階段を下りる。
ここからは、ひとり。
薄暗いホームで電車を待つ若い人が、みんなコミマの参加者に見えてくる。
「あら」
その中のひとりに、明らかに見覚えのある男性がいた。
だが、声はかけない。あかねが一方的に知っているだけだ。
(撮影終わりかしら……いえ、こんな時間はおかしいですわね。まさか)
何度かテレビで見たことのある若手の男性俳優なのだが、名前までは思い出せない。
世間は盆休み、こんな早朝の駅にいるということは、彼もコミマに参加するのかもしれない。
(まさかそんなことはないでしょうけど。)
でも、コミマの多様性というか受け入れる懐の広さを考えると可能性はゼロではない。
そういえば有名な声優も参加したというような話も聞いたことがある。
やがて始発電車が入ってくる。
あかねはそちらに目を向け、これから始まるスタッフ業務のことを考えていた。
(持ち物は……防止に腕章、スタッフ証もありますわね。駅から出てからスタッフの誘導に従って、会場に入るのは道路に面した夜間通用口……昨日と同じですわね)
あかねは小さくうなずくと、隣の駅からやって来た電車に乗り込んだ。
「走らないでください!」
駅員の声が構内に響き渡る。
沿線のオタクを順次積み込み満員になった始発は、ゆっくりと終点に到着した。
扉が開くとともに吐き出される、地下鉄への乗り換えを急ぐオタクの集団。
もちろんあかねは走るようなことはしない。ギリギリで間に合うことを知っているからだ。
それにスタッフたるもの、会場の外から範を示さなければならない。
スタッフ証と帽子と腕章はカバンの中だが。
走る人よりも、歩いている人の方が多い。
歩く人の中に先ほどの若手俳優を見つけ、ルールを守る人なのだと安心する。
やがて人ごみに紛れたが、あかねの中で彼の評価が上がった。
相変わらず名前は知らないのだが。
『いかなる時も優雅たれ』
あかねは祖母の教えの通り、優雅さを保ったままで地下鉄の乗り場まで歩く。
幾人にも追い抜かれるが、まだ数分の余裕があるはずだ。
階段を降りると到着していた地下鉄を見る。
席は埋まりつつあるようだ。
ここから先は長い乗車になる。端の車両でも着席しなければ。
よく見れば混んでいる車両と空いている車両の差が極端にあるようだ。
乗り換えの時に先んじるためだろうか。
あかねはそれほど急がなくても問題が無いため、空いている車両を選んで着席する。
少し胸が高鳴っているのは、乗り換えで歩いたためか、それとも今日のイベントが楽しみなためか。
ほとんどの乗客は寡黙なひとり。
しかし、いくつかのグループの会話が聞こえてくる。
「今日は企業に行って、東に行って、その後西に行ってさあ……」
「最初みんな企業に行きそうじゃない? 駅降りてからのルート再確認しとこう」
「イベストのCGがマジですげーのよ。俺たちの課金が神絵を生んだってわけ」
「それでまた課金するわけか」
「マジ永久機関」
「凍らせたペットボトル持って来た?」
「大丈夫。2本中1本はカチコチ」
「今日も気温上がるらしいからなあ……」
この時間帯のグループは、ほとんどがコミマ目当てと見ていいだろう。
会話の中身がそのままだ。
やがてそう間を置かず、地下鉄が発車する。
この空いている車両でさえ、座席が埋まってしまっていた。
地下鉄が駅へ到着するたびに、乗客がホームに並んでいる様子が見える。
特に真ん中あたりの車両が大混雑しているようだ。
駅員の「空いている車両へ」の誘導の声。
乗り終わり、誰もいなくなったホームに響く発車ベル。
すべてがコミマの始まりを実感させてくれる。
豊洲でまとまった人数が降り、少し車内ががらんとする。
ゆりかもめに乗り込む人たちだろう。
時間的にはゆりかもめが若干有利のようだが、ゆりかもめは車両が小さく少ないため余裕がない。
さらに最近では新しい市場ができて、その客とも乗り合わせるらしい。なかなかハードだ。
そういうこともあって、新木場経由のりんかい線も少なくない人たちに選ばれている。
「新木場、新木場です。お出口は右側です」
あかねもその中のひとり。
他の駅と同じように、到着と同時に走り出す人たちが多い。
だが、あかねはまた優雅にホームを歩く。
急ぐことはない。りんかい線は、始発の次が一番空いている。
たくさんの人を乗せた始発が、発車していった。
新木場始発のりんかい線を見送ること。
これがあかねの、コミマのスイッチの入れ方だった。
(夜間通用口への経路を確認しておいたほうがいいわね)
あかねは人の邪魔にならないところで、カバンから地図を取り出して改めて確認する。
昨日も途中まで一般参加者の流れに沿って進み、途中で別れる形でたどり着けた。
駅から降りた後の人の流れは中々激しく、落ち着いて地図を見ている余裕は無い。
経路を確認し、小さくうなずく。
「……よろしいですわね」
ホームには同じく始発を送った参加者らしき人がちらほらいる。
少し歩いてみたが、やはり国際展示場駅の出口に近い車両には人が集まるようだ。
比較的混雑しない真ん中あたりに移動しようと向きを変える。
その先に見覚えのある人の姿を見かけた。
(あら……)
先程地元の駅で見かけた若手俳優だ。
ということは、ここまで同じ地下鉄に乗って来たということなのだろう。
なんとなく目が合い、反射的に軽く会釈をする。
俳優の方も軽く頭を下げた。
ほとんど人のいないホームで隣に立つのもおかしいので、ひとつ間を空けた乗車口目印に立つ。
(それにしても)
ちらりと隣に立っているであろう俳優の方を見る。
また目が合った。
見られていた?
さすがに自意識過剰か。
何となく気まずいような気がして、目線を前に戻す。
ぼんやりと線路を眺めていると、あろうことか近づいて来るではないか。
「あの、こんにちは」
恐る恐るといったふうに、少し時間のズレた挨拶があった。
少し高めの声。そういえばテレビ越しにでも彼の声は聞いたことがなかったと別のことを考える。
「こんにちは」
強張った返事になってしまったのは仕方ないだろう。
知らない男性に声をかけられて警戒しない女はいない。
あかねはこれまでも何度か声をかけられた経験はあったが、都度お目付け役に出てきてもらってやり過ごしてきた。
まさか「ついて来るな」と言った日に限ってこうなってしまうとは。
露骨に目をそらし、線路の方を向く。
会話をする気はない、と理解してくれただろうか。
「あの、これを……」
声と共に、何かが差し出された。
それはあかねの顔写真入りのスタッフ証だった。
「あら。これは」
どうやら落としてしまっていたらしい。
いつだ。先ほど地図を確認した時だろうか。
スタッフ2日目にして失態である。
「ありがとうございます」
「いえ」
スタッフ証を受け取ると、急いで自分のカバンにしまう。
紛失していたら大変なことになっていたはずだ。
あかねは改めて線路に目をやり、小さく息をつく。
拾ってくれた若手俳優は、そのままあかねの隣に立っている気配がする。
やはり警戒感が勝ってしまう。
あかねは意識してそちらを向かないようにしていた。
それ以上声をかけられることもないまま、すぐに次の電車がやって来る。
(さすがに失礼だったかしら)
同じ車両の違う席に腰を下ろしていたが、それもやがて車内の人が増え始めると見えなくなった。
少なくとも今日はもう会うこともないだろう。
さすがに冷たすぎたかもしれない。いや、急に声をかけてくるようなら仕方ないかもしれない。
だが明らかに親切心からだし、それ以上余計な会話もなかった。
であれば、やはり自分の方が失礼な振る舞いをしてしまった気がする。
もやもやした気持ちを抱えながら、りんかい線は国際展示場へと向かってゆく。