幕間 根岸さんと神崎さん
根岸恵は、どちらかというと緊張していた。
C98夏、1日目の搬入時間。
人もまばらなガレリアの、その壁際にある椅子にふたりで座っている。
「あの、こんばんは、根岸さん」
「はい。こんばんは、神崎さん」
外はまだ明るいが、それも昼間ほどの力強さはなくなっている。
ここガレリアでも、人類の英知であるエアコンの力が明らかに優勢になっていた。
「すみません、今回もわざわざ……」
「いえ、仕事のついでですから」
搬入員証を下げたふたり。これから根岸の勤める印刷所の搬入作業である。
災難なことに、搬入用のトラックが道中で故障し、到着が遅れる見込みだという。
「そういえば、神崎さんの、お仕事は……」
「不動産業……になりますかね」
ふたりが交際を始めて、まだ数ヵ月。
お互いにまだ遠慮があるのか、そういったプライベートなことをあまり聞いてこなかった。
それにしても不動産業とは。このビッグサイトに……しかもコミックマートというイベントとは一切関係がなさそうに見える。
「不動産、ですか。あの、瑞光寺さんのお供は」
疑問をそのまま口にする根岸。
そう、目の前の神崎がこのイベントに参加しているのは、瑞光寺あかねに帯同しているからだ。
初めて出会った浜松町でもそうだった。
「あー、あれはですね……」
特に隠すことでもないのか、神崎が事情を説明する。
会社としては不動産業であり、神崎も地域のあちこちに出かけては物件の確認をしたり大家と話をしたりしている。
また、事務所で不寝番をすることもある。不動産の瑞光寺は文字通り「いつでも」住民からの相談を受け付けている。
瑞光寺あかねの自宅が事務所を兼ねており、元々社長の一家とは顔を合わせる機会が多かった。
そんな流れの中で、お嬢様の付き添いのようなことをする機会は何度かあったのだが、瑞光寺の父でもある社長が安心できるという理由から正式に付き人の業務ができた。
毎日大学に通うお嬢様にも、少なくともターミナル駅まで、場合によっては大学まで付き添うこともある。
「色々な、仕事……」
「そうですね。おかげでその、根岸さんともお会いできて」
「あっ……」
小さく声を上げる根岸。
「遊びにも、行けました」
「そうでしたね」
この春のことだ。
瑞光寺の自宅がある街には、映画館がある。
その映画館で午前零時から行われる最速上映のイベントのときに寄らせてもらったのだ。
それまでも何度かこのイベントに参加したことはあったが、夜中の二時前に終了した後、始発まで行くところが無くて非常に困っていた。
街をふらふらするのにも適さない時間帯だ。
数少ない映画館のベンチ確保に失敗したら、壁にもたれかかって時間をつぶすほかない。
そういうこともあり、瑞光寺の自宅に招かれたことは本当に助かった。
深夜にも関わらず瑞光寺あかねは歓迎してくれ、不寝番で詰めていた神崎と夜食をつまみ、夜通しゲームをして楽しんだ。
後日それを聞いた雀田が神崎を非難の目で見ていたらしい。働け、と。
「今度またおいでください」
「ぜひ……」
次もまた、最速上映がある。
今からそれが待ち遠しい根岸だった。
聞けば神崎も隣接した建物に住んでいるという。根岸はそこも見てみたいと思っている。
「あの、それ、瑞光寺さんの、ですか。それとも神崎さんの」
「そっ、それはもちろん」
息を飲むふたりの目が合った。
数秒が永遠に感じられる。
ガレリアのざわめきがどこか遠くに聞こえる。
「瑞光寺の……」
「そう、ですよね」
「でもあの、いずれは私の部屋にも……来てもらいたいです」
「えっ」
その意味を察せないほど子供ではない。
根岸が目を見開いて神崎を見ると、見慣れない汗が額に浮かんでいた。
勇気を出して一歩近づいてきてくれたのだと思うと、根岸は胸がいっぱいになった。
※
「あのふたりは高校生なのかしら?」
ガレリアのエスカレーターの陰から、壁際を伺うふたりがため息を吐いた。
半ば呆れたような目でふたり……どちらかというと神崎の方を見ている。
「高校生の方がまだマシですよ……神崎のヘタレめ」
切り揃えた髪を揺らして、雀田が吐き捨てた。
仕事では難しい相手でも堂々と話を進める頼れる同僚なのだが、どうしてこうなっているのか。
気難しい地主の爺さんにも、しつこく譲歩を迫るおばさんにも一歩も屈さない神崎が。
「あれは何歳だったかしら?」
「二十六ですよ……じれったいな」
「根岸さんは二十五だったわね……十年前に戻ったつもりで楽しんでいるのかしら」
「案外そうかもしれませんよ」
まるで放課後の教室だ。
初々しくも惹かれ合うふたり。その間に流れる穏やかな空気を邪魔するのはどう考えても無粋だろう。
「お互い大切に思っているのですわね」
「いやしかし……いい大人なのですから」
「雀田」
「はい」
「そっとしておきましょう」
「はい……」
どちらが大人か分からないが、雀田は素直にうなずいた。
少し残っていた閉会後作業を確認するため、そそくさと東5ホールへと去る。
※
しばらく無言だったふたりが、同時に息を吐いた。
「全部、聞こてえましたね」
「ええ、そうですね……」
根岸の携帯に、あと十分ほどで作業が開始できそうだとメールが届く。
この放課後の時間も、そろそろ終わりだ。
いい大人は、働かなくてはならない。
「あの、神崎さんも、そういう風に思って……ましたか」
瑞光寺あかねが口にした『大切に思っている』のことだ。
察した神崎は、どういったものかと考えている。
「私はその……」
自分には女性としての魅力は無いと思っている。
決してスタイルが良いわけでもなく、頭も良くないし話もうまくない。
瑞光寺あかねのような目の覚める美人を見慣れていると、自分のような取り柄のない女に興味を持つのだろうか。
そんな風に思っていた根岸にとって、神崎の言葉は思いがけないものだった。
「根岸さんは魅力的ですので、いつも自制するのが大変です」
「えっ……」
冗談……でもないらしい。
そう。こういうときに冗談を言える人ではないからこそ、根岸も惹かれている。
根岸は顔が熱くなるのを感じながら、神崎の言葉を待った。
「でも、根岸さんのペースで構いませんので。時間は、あります」
たぶん、同じように顔に熱を感じているだろう。
神崎の顔が赤に染まるのを見ながら、根岸はふっと笑った。
ああ、幸せ。
こんな時間を過ごせるなんて、幸せ。
ここに来て良かった。この仕事をしていて良かった。
いくつも重なった偶然の上に、ふたりで立っている。
「ありがとう、ございます」
根岸はじっと神崎の目を見て、そしてそっと手を重ねた。




