第7話 2日目 夜明け前
朝4時。
瑞光寺あかねの妹である瑞光寺すみれは、来春の高校受験に向けて遅くまで勉強に取り組んでいた。
とりわけ今日は理科で良く分からない部分があり、すっぱりと勉強を終われないままズルズル夜更かししてしまった。
もはや夜更かしではなく徹夜だ。
諦めて寝ようと口をゆすぎに来た洗面所で、姉のあかねと出くわした。
艶やかな黒髪が暗い朝の光にも輝いて見える。
「姉さま……」
「あら、すみれ。起こしてしまったかしら。ごめんなさいね」
「ううん。これから寝ようかと思って」
「そう。頑張っているのね。でも睡眠時間を削りすぎるのは良くないわ。短期的には詰め込む量が増えるかもしれないけど、長期的に見ると体調を崩しやすいのよ」
「うーん、早い時間だと不安で寝付けないことが多くて、ずるずる勉強してしまうの。何も考えないようにすると、余計に不安とか失敗とか思い出してしまって」
「まあ……」
「姉さま?」
姉はすみれの手を両手で包み込むように握った。
すみれは姉の手のぬくもりを感じるとともに、自分の指先が冷えていたことに気が付いた。
「よく眠れるように、昔みたいに手を握っていなければならないかしら?」
「い、いらないし! もう子供じゃないんだから」
「ふふっ」
急に恥ずかしがるすみれの様子を、姉は優しく見ていた。
笑顔ではないが、感情は目で十分伝わる。
そういえば姉は昔からよく手を握ってくれた。
そのせいだろうか。恥ずかしいのに振りほどくような気にはなれなかった。
姉の指先から伝わる温かさが、じんわりと体に伝わっていくような気がする。
「すみれ、眠る時は深く息をすることだけを考えればいいわ。難しいかもしれないけど」
「息をすることを考えるの?」
「そう。『何も考えない』なんて高僧の所作ですもの。凡人のわたくしたちには無理なのです。だから、息をすることだけを考えてそれで頭をいっぱいにすれば、いつの間にか眠れますのよ」
「うん……」
昔一緒に寝ていた時は、いつも姉が先に寝てしまっていたことを思い出した。
すうすうと耳に届く姉の寝息を聞きながら、自分も安心して眠りに落ちていったのだ。
今さらそんなことを言い出せるはずもなく、すみれは黙ってうつむいていた。
「さて、そろそろ出ないといけませんわ」
姉の言葉にはっと顔を上げた。
今、少し寝ていたのかもしれない。
すみれは急に恥ずかしくなったが、姉は相変わらずこちらを見て優しい眼差しですみれを見ている。
目つきが鋭いために、誤解を受けやすかった姉。こんなにも優しいというのに。
すみれや弟のことをずっと気に掛けながら、自身の成績を落としたことが無い。
すみれにとって自慢の姉なのに。
『すみれちゃんのお姉さん、ちょっと怖いね』
『睨まれているみたいで……』
『おうちに遊びに行きたいけど、すみれちゃんがうちに来ない?』
姉のことを面と向かって悪く言われたことはほとんどない。
近所の大人や教師からも気に入られているし、振る舞いは優雅で品がある。
ただ表情が乏しく目がキツイだけで、避けられてしまっていた。
姉の座右の銘が「李下に冠を正さず」だと聞いたときはその意味が分からなかったが、調べて意味を知った時、姉がどれほど振る舞いに気を遣っているのかと悲しくなってしまった。
「姉さまはこれから出るの?」
手を離したすみれがどこか不安そうな顔をするのを見て、姉は努めて明るく笑った。
「ええ、始発でお台場に」
「……あんまり元気そうじゃないけど、ちゃんと寝た?」
「睡眠は十分。でもそうね……楽しさも、苦しさも、少し刺激が強すぎたかしら」
何かあったのだろう。姉は力なく笑う。
小さな声で「それまで思っていたスタッフと、少し違っていたわ」とだけ教えてくれた。
すみれにはそれ以上聞くことはできなかったが、姉は自分の頬を両手でぱちんと挟んだ。
「でも、やらなければなりませんの」
姉の目に、小さな明かりが見えた。
何がそうさせるのかは分からなかったが、そうと決めた姉は本当に強い。
きっと、スタッフとして強く、優雅に振舞ってくれるだろう。
何よりコミマは、昔から姉が嬉々として足を運んでいた場所だ。
「そう……でも全然楽しくないってわけじゃないなら良かった。今日も楽しんできてね」
「ええ、ありがとう」
「今日は安威も神崎も置いていくんでしょう? 気を付けてね」
「わたしくしこそ、もう子供じゃなくってよ」
姉が完全にひとりで出かけるのはとても珍しい。
すみれにとっては少し羨ましくもあった。「受験でなければすみれも誘うのだけど」と姉が笑う。
本当に興味が湧かなさそうなところへは誘われないはず。
だから、自分にとっても面白い何かがあるのだろう。
今は想像しかできないが、もしかしたら来年の夏、ついて行っているかもしれない。
日本が誇る同人誌即売会、コミックマートという場所へ。
「ああ、リビングのテーブルに置いた黄色い表紙の小説はとても素晴らしいの。気分転換に読んでみると良いわ。ついでに国語の勉強にもなるかもしれないわね」
「同人誌ってやつ?」
「そう、だけど元のアニメを知らなくても楽しめますわよ。きっと」
「ふーん……姉さまのお眼鏡にかなうのなら、後で読んでみようかな」
「ええ、ぜひ。原作をあまり知らない人がどう思うかが知りたいわ」
少し話し過ぎたのだろう。
姉は「始発の時間が」と言って慌ただしく出ていった。
もうひとり、姉のことを追いかけて出たお世話役がいるようだ。多分安威だろう。
急に静かになった家の中で、すみれは小さくつぶやいた。
「あ。コミマ会場でもあの話し方なのか、姉さまに聞くの忘れちゃったな」
すみれは、密かに責任を感じていたのだ。
姉の特徴的な口調は、小さい頃に祖母の真似をして話をしていた姉。その姉のことを、お姫様のようだと褒めちぎり、ずっとその口調で話すようお願いしたのだ。
姉は祖母に頼んで話し方を教えてもらい、そして仕込むからにはと厳しく躾けた祖母の影響もあって、以降ずっとあの話し方を続けている。
もしあの口調のままで恥を……いや姉が恥ずかしがることは無いにしても、周囲が戸惑っているかもしれない。
口調を直すのであれば、それはそれで聞いてみたい。
「でも、あの話し方こそ姉さまらしい」
すみれは、姉がコミマスタッフという役割の中でも、姉らしい優雅さと博愛の心を発揮できるようにと願うのだった。
※
「安威」
「はい」
駅へ向かう途中、あかねは背後を歩く男に声をかけた。
「今日は駅までで良いわ」
「承知いたしました、お嬢様。くれぐれもお気を付けくださいませ。それと、存分にお楽しみください」
「ええ、ありがとう」
昨日、安威は正規のルートではなくこっそりと会場に忍び込んでいたらしい。
それも、サークル入場の時間帯で。
本が目当てではないにせよ、これはれっきとした不正入場。許されることではないし、スタッフの身内がそんなことをしていたと明らかになったら大問題になる。
ルール違反を行ったペナルティとして、今回のコミマは監視役を付けず自由にさせてもらうことにした。
夏の朝、まだ駅の周りは静寂に包まれていた。
早い夜明けに白み始めた街。日中で最も静かな時間かもしれない。
いつも車が列をなす交差点は、ようやく1台の車が止まっている程度。
心なしかひんやりしている空気の中で、あかねは大きく息を吸った。
最寄り駅まで歩いて15分ほど。始発の出る10分前に駅へと到着。
人の姿はちらほら見かけていて、始発に合わせて街が動き始めていることを実感する。
「では安威、ここまでで」
「行ってらっしゃいませ」
安威にとっては不本意であろうが、普段の生活を離れてコミマに参加する以上、自由にさせてもらいたい。
普段大学に通うのにも、つかず離れずでお目付け役が付いているあかねにとって、これで本当にコミマの日が特別になったような気がした。
誰かがあかねのために尽くすのではない。
あかねが誰かのために尽くす。
大きな家で大切に育てられてきたあかねにとって、そんな機会はとても珍しいものだった。