第70話 2日目 閉会後の突発作業
一部で不穏な空気になってはいたが、コミマ全体としては概ね順調に閉会へと向かっていた。
警察も巻き込んでの調査が入るという。荷物を持ってきた当事者である雀田は話を聞くためと地区本部へ連れていかれてしまった。
それを除けばネノブロックに異常はない。
閉会三十分前ともなると、さすがに参加者の密度は下がりきる。
このジャンルは遅くまで人が残っている方だが、それでも頒布物が尽きたサークルは机の上を片付けるし、あちこちで片付けが始まっている中で新たに本を探しに来る人は少ない。
「混雑は無いのに活気があるのは不思議ですわね」
「評論系のジャンルは独特だな。本の個性がかなり強い」
参加者がみな「すべての本を見てやる」と言わんばかりに見本の本を手に取り中身を見る。少しでも良いと思えばすぐに買う。そんな光景があちこちで見られている。
評論というジャンルに固まってはいるが、ほぼすべてオンリーワンのテーマを扱い、今回を逃すと同じ本は手に入らないかもしれない。そう思うと手元に置いておきたくなるのだろう。
一期一会。
その意味をこれほど実感するイベントもないように思う。
「こちらいただけますかしら」
「はい……あっ、スタッフさん」
あかねは見本誌チェックで印象に残った本を買って回っていた。
声を上げたのは、あかねにこれでもかと褒められたあの廃墟イラストのサークルだ。
ほとんど帰り支度を始めるような雰囲気だったが、あかねを見てなぜかほっとした様子だった。
「良かった。あの、スタッフさんに差し上げたいものがあって」
「わたくしに、かしら」
「そうです」
差し出されたそれは、直筆のカラー色紙だった。
そこに描かれていたのは、黒髪の乙女。見るからに整った輪郭、気の強そうな目は優しい光を宿す。
大人しい色使いに見えて、なぜか目を引かれる色彩。
どこか儚げながら芯のある雰囲気が匂い立つ。
「これは、わたくし……」
朝の見本誌回収で話しただけなのに、ここまで描けるものなのだろうか。
世の中には素晴らしい才があちこちに存在するのだと再認識する。
「良かったじゃないか。瑞光寺さん」
「でもこんな、こんな素晴らしいものをいただいてしまって、何をお返しすればよろしいのでしょう」
「あの、むしろこれが褒めていただいたお礼なので……」
「ありがとうございます。これほど嬉しいことはございません」
深く頭を下げる。
ただ感想を述べただけでこれほどの作品を送ってもらえるなど、過分としか思えない。
「こんな……色までつけていただいて」
「色使いを褒めていただいたので、つい」
10分やそこらで出来上がる色紙ではないことだけは確かだ。
あかねは再び頭を下げると、改めて本を購入した。
横から覗いていた江口橋が感心したようにうなずいた。
「なるほど。これは惹かれるな……私も1部いただいていいですか」
「えっ、もちろんです」
『これにて、コミックマート98夏、2日目を終了いたします。お疲れ様でした!』
そのやり取りのさなか、閉会のアナウンスが流れてきた。
少なくなったとはいえ、ホールの全体で終わりを祝う拍手が響く。
目の前のサークルと目が合い、お互いに頭を下げる。
「お疲れ様でした」
「ええ、お疲れ様でした。本と色紙、ありがとうございます」
「こちらこそ」
※
本部に戻った江口橋誠司は、エネルギー飲料ののど越しを感じながら一息ついていた。
水分を欲していた体から、ぶわっと汗が出る。
閉会後、あまり間を置かずに明日のための作業が始まる。
とはいえサークルがある程度少なくなってからの開始なので、それまでは休憩になる。
「無事に終わりましたわね」
「無事……」
瑞光寺の言葉を思わず繰り返す。
今日のこれで無事というのなら、無事の基準がかなり低い。
盗撮の件は東5と東6で始末をつけるため、東5からは雲雀と君堂が地区本部から聴取を受けていた。すでに解放されて戻ってきてはいるようだが、雲雀は着替えがあるせいかまだその姿を見ていない。
時限装置の件では雀田が地区本部に連れて行かれてしまった。こちらも解放されたはずだが、さすがに疲れたらしく瑞光寺が早退させたらしい。良い判断だ。
この状況をもってして「無事」と形容するのは無理がありそうだが、被害者が一部のスタッフだけだと考えると広義の無事と言えるかもしれない。
「悪い知らせだ」
ホール長の和泉が、本部にいるスタッフに向かって大きめの声を上げた。
「急ぎの業務が入った。なぜか搬入の荷物で、東456と西地区のものが混じったらしい。外にカゴ台車があるから各ホールの分をピックアップしてもらいたいそうだ」
「えー……」
それを聞いたスタッフ一同の表情が曇る。
これは準備会のミスではなく搬入業者のミス……なぜスタッフが駆り出されるのか。口にはしないが不満に思う空気は感じる。
「まあ気持ちは分かるがミスは誰にでもある。そして困るのはサークルさんだ」
「なら仕方ないな」
江口橋が気持ち大きな声で、ホール長和泉に向かって返事をする。
すると、ぽつぽつと賛同する声もあった。
かなり疲労の溜まっている2日目の夕方に余計な作業をするのは辛いところだが、避けられないのなら嫌な雰囲気にはしたくない。それに恐らく一番つらいのはホール長のはずだ。
和泉は江口橋に感謝の目線を送る。
「時間は今から30分後、作業場所はトラックヤード、5ホールと6ホールの間に展開する。あとは現地で企業対応部の指示に従ってほしい。それまでできるだけ『おはよう紙』を頼む。以上よろしく」
やることが多い。そして暑い。
ただ机にテープで紙を貼り付けるだけ。だけなのだが数が多い。
そして今日に限っては時間に追われている。
いつもなら数人がバラバラにのんびり作業を進めるが、今日はそうはいかない。
ひたすら机の上の椅子を整える役、ひたすらテープを切る役、ひたすら紙を貼る役。
自然と役割分担が形成され、工場の作業のように繰り返す。繰り返す。
シャッター越しに見える外の景色が青みがかった頃……
「おはよう紙はその辺にして、荷物対応頼む! 残りのおはよう紙はホール本部で引き受ける!」
大声の伝言ゲームにより、ホールにいたスタッフがぞろぞろとシャッターの外に出る。その数約40名。
シャッターの外に出て全員が驚いた。
「こっちの方が涼しいじゃねえか」
誰かの声に心から同意する。
すっかり日の落ちた東京湾岸を走り抜ける海風。
まだぬるさと湿り気は感じるが、明らかにホールの中より快適だった。
「気持ちいいですわね」
「そうですね!」
瑞光寺に答える暑苦しい声がした。フプヘペの保谷だ。すでにダンボールを抱えている。
「本は良いですね! 江口橋さん」
「そうだな……」
良いの意味が少し違うような気もしたが、とりあえずうなずいて取り掛かる。
「やはりコミマは良い。筋肉がお役に立てる」
色んな楽しみ方があるようだ。
業務の内容はそれほど複雑ではない。
本来ならブロックごとに分かれているはずのカゴ台車の宅配搬入。これをホールの外壁に貼られたブロックの通りに仕分けする。
箱に貼られた配置の紙を確認し、運ぶ。これだけだ。
なぜ混じったのか。
どうやら不慣れな作業員が、ひらがなとカタカナを区別しなかったらしい。
「大仕事ですわね」
「そうだな。だが当日トラブルが発覚するより良いだろう」
「当日……そうですわね」
すぐに受け取れるはずだった荷物がどこにあるか分からない……そんなことになればサークルはたまったものではないだろう。それもふたつのエリア分。
「あら。ネブロック……」
ダンボールを大事に抱える瑞光寺。
自分の担当するサークルの搬入トラブルが事前に防げたと実感する。
江口橋はタオルで汗を拭き、再びダンボールと向き合った。
「年寄り無理すんなよ!」
「しっかり膝曲げて持て! 腰やるぞ!」
最初こそきびきび動いていたスタッフ達だったが、すぐに疲れが見え始める。
それもそのはず。始発かそれに近い時間帯に出てきて、混雑はそれほどでもないとはいえ夕方までスタッフ業務をしてきたのだ。
もうビッグサイトに来て12時間経つ。
そんな中で疲れを感じさせず、何ならふたつ同時に段ボールを運ぶ男がいた。
フプヘペブロック長の保谷だ。
「みなさんお疲れのようですので、残り全部私がやりましょう!」
「日付変わっちまうわ!」
あちこちで笑い声が上がる。
暗くなっても残っているスタッフが50人から60人ほどいる。
ホテルに宿泊するスタッフも多いと聞くが、何人かはあかねや雀田と同じように自宅に戻るはずだ。あまり遅いと明日に障る。
「お嬢様、お手伝いいたします」
「安威。どうやって入ったのですか」
「先ほど君堂さんに。帰り際のようでしたが通してくださいました」
「まあ」
厳密にはルール違反のような気もするが、ある意味緊急事態だ。
ここは安威にも手伝ってもらう方がいいだろう。手順を教えるとすぐに飲み込んで作業を始めた。
突然の大男参戦に驚いた人もいたようだが、黙って作業する安威のことを頼もしく思ってもらえたようだ。
その時、どこからか低い音が響いてきた。
ビルのすき間から半円状に光が見える。打ち上げ花火だ。
「そういや湾岸花火大会か」
「役得って言っていいのか?」
「割に合わねー」
そして、言葉が止まる。
保谷と安威を除いて手が止まり、みなが同じようにぼんやりと夜空を彩る半分の花火を見た。
「……よし、じゃあやるか」
花火大会の小休止と思われるタイミングで、誰かの声がした。
いい休憩になったのか、それからの仕分け作業の効率がアップしている。
花火の音を聴きながら、無心でダンボールをより分ける居残りスタッフ。
終わりが見えた頃、弁当満載の台車を押したホール長の和泉が花火に負けない大きな声を上げる。
「終わったら弁当あるぞー!」
「「おおーっ!」」
残るダンボールも数えるほどになり、何人かが手を止め始めた。
あとは張り切る保谷を中心とした若手男子に任せて良いだろう。
「花火見物しながらお弁当をいただきたいですわね」
「安威さんも、どうぞ」
江口橋に弁当を差し出されるが、汗だくの安威は首を振る。
「いえ、私は」
「遠慮するだけ時間の無駄です。もらっておきなさい」
「はい。おお、カレーですか」
あかねに言われて素直に受け取る安威。
なりゆきで江口橋、安威、あかねの3人で弁当を食べる。
まだ花火は続いている。
火薬のにおいがここまで漂ってきていた。
「お祭りみたいですわね」
「元々お祭りだろう?」
「そうでしたわ」
程よく体を動かした後の、見知った顔と食べる弁当。
半分見える花火に、火薬のにおいを運ぶ夜風。
その夜ビッグサイトのトラックヤードで食べたカレー弁当は、それぞれにとって忘れられないものになった。




