第64話 1日目 Chikiさんと
「お姉さま!」
若干気まずい空気を切り裂くように、明るい声がした。
学校の制服をまとった、白に近い銀の髪。
この暑さの中で、額に汗ひとつ浮かべることなく涼しげに笑っている。
「あら、Chikiさん」
「お姉さま、今日は『かなみ』とお呼びください」
「ああ、そうだったわね」
『アトラナートの学園』の登場人物のコスプレをしている清川ことChikiだ。
あかねの扮している怪異『胡蝶』を慕う学園の女子生徒。あかねの腕を取るその姿はゲームのCGの再現のようにも見えた。もっとも、このアニメジャンルが配置されたホールでどれだけの人が『アトラナート』を知っているかは分からないが。
今日はあかねになりきってもらうようお願いしている。
「えっ、Chiki? 本物?」
「隣、誰? スタッフだけど……併せだよね」
周囲がざわざわしている。
ジャンルを問わずにコスプレする雑食性と、現役学生モデルという肩書。そして毎回の衣装のクオリティの高さ。Chikiはネットでも何度か話題になったこともあり知名度は高かった。
そして、そのChikiに並び立つ黒髪の美女。先ほど参加者同士のトラブルを鮮やかに解決したスタッフ。
ふたりが見つめ合う様は、ゲームのパッケージにそのまま使えそうな迫力があった。
「おひとりですの?」
「欲しい本があったので。今日はこちらのご担当なんですか?」
「ええ、そうですわ」
「お姉さまは、今日何時ごろからフリーなんですか?」
「そうですわね……13時ごろかしら。手が空くと良いのだけど」
「混んでますしね」
隣のハブロックからはそうでもないが、やはりネブロックの混雑は見てすぐに分かる。
ふたりの雰囲気に圧倒され口を開けたままの椎名が、はっと正気に戻った。
「ずっ……瑞光寺さん、Chikiさんとお知り合いなんですか!」
「ええ、そうよ。あかね様がコミマスタッフになるよりも前からね」
なぜかChikiが前に出て答える。
「かなみ、口調が崩れていてよ」
「はっ、も、申し訳ありません!」
慌てて頭を下げる。
あかねはChikiの方にそっと手を置いた。
「ごめんなさいね、かなみ。私にはまだやらなければならないことがあるの」
「あっ、はい! ではまたお昼に参ります」
買ったばかりの本を抱きしめたまま、Chikiは勢いよく頭を下げた。
少し落ち着いたと見て、あかねは椎名と打ち合わせを始める。
「椎名さん、お昼を回す人員が足りない可能性が高いので、おふたりほどお借りしたいと江口橋さんが」
「あ、合点了解です! さっき無線でも江口橋さんに言われましたので!」
「それで、午後の人員なのですけど……」
副ブロック長として伝えるべき事項を、椎名に伝える。
無線はホール全体に流れてしまうので、こういった小さい打合せは直接話すことになっている。
ネブロックが局所的に混んでいるが、地区で見るとそこまで大混雑にはならないという見通しである。
だが昨今の情勢を考慮して厚めに巡回していく方針だ。
「それじゃあ瑞光寺さん、また後程」
「ええ、椎名さん。ご対応ありがとうございました」
椎名はもらった情報をブロック内に共有するため携帯に素早く文字を打ち込むと、ホール長が自分を探しているという無線を聞いて急ぎ本部へと去っていった。
「それでは淡野さん、Reikaさん、また休憩時間に参りますわね」
「あっ、はい!」
「どうもお騒がせしました」
頭を下げる兄妹。
「淡野さん……ああ、Keigoさんですのね。先ほどは失礼いたしました」
「え?」
コピー本の作者名を見て、呼び名を訂正した。
Reikaは本名ではなかったが、Keigoも本名ではないのだろう。ただ、ふたりでペンネームの雰囲気を合わせたであろうことを想像すると、どこか微笑ましい。
「先ほどのは、あまりお伝えしていい感想ではなかったですわね」
感想を聞きたくない作者はあまりいないが、感想の中でもいい感想だけを聞きたいという人と、悪い感想でも聞きたいという人とがいる。
Keigoの欲しい感想と欲しくない感想が分からない中で、悪い部分も指摘してしまったことをあかねは気にしていた。
「いえ。全部本当のことっすから。むしろ、細かいとこまでちゃんと読んでもらえて……こう、何なんすかねこれ」
「嬉しい、でしょ」
「あー、ああ、嬉しいな。自分の頭の中だけにあったものが、文章になって現実に現れただけでも嬉しいのに、誰かから感想をもらえると本当に実在できたんだって……」
腹に落ちたKeigoが、大きくうなずいた。
定点に戻ったあかねを見ると、江口橋が安心したように息をついた。
「お疲れ様。大変だったみたいだな。トラブルになったらすぐに呼んでくれれば良かったんだが」
「いえ、わたくしの知り合いのサークルでしたの。ですのでそのままわたくしが対応した方が良かったのです」
「そうか。椎名とも午後のことを話をしてくれたみたいだな。助かった」
トラブルにもうまく対処できている。あとは混雑だけだが……その混雑もピークの時間帯から比べれば目に見えて減っていた。
「急に人が減りましたわね」
「ああ、お昼前だが完売続出だな」
「それは素晴らしいですわね。ですが、少々……」
「早いな。おそらく搬入数を見誤ったんだろう」
先ほど、お弁当が到着した無線も入った。この分だと昼ご飯の休憩は問題なく回せるだろう。
そんなことを話していると、ニコニコの椎名がやってきた。
「お疲れ様です! この様子だと混対の貸出は不要そうですかあ? でもあんまり油断はできなさそうなんで、巡回させますね!」
「助かる」
「それではお昼を回しましょう」
こういうとき責任者は後回しになる。
江口橋はブロックを回って休憩に出られそうなブロック員に声をかけていくつもりだという。
「お昼の後は俺が定点に立つから巡回に入ってもらいたいが、今回はコスプレ広場に行かないのか」
コスプレイヤーが集まるコスプレ広場は、会場内で何か所か設けられていて、前回の防災公園もそれにあたる。
他にも西の屋上展示場や庭園と呼ばれる場所もコスプレ広場で、ある意味ではコミマでも最も華やかな場所といえる。カメラの撮影も、コスプレ広場で行った方がトラブルが少ないため、コスプレイヤーもコスプレ広場に好んで集まっている。
「行くつもりはありませんわ。スタッフ業務がありますので」
「今日は手が回りそうだし、コスプレ広場に行ってもらってもいいぞ」
あかねは少し考えるが、最近のイタズラ……いや、事件のことを考えるとホールから離れようとは思わなかった。
「あくまで、わたくしはスタッフですので」
「そうか」
あかね本人の意思を尊重し、江口橋は短く答えた。
※
Chikiこと清川千歳は隣に立つ「お姉さま」を輝くような瞳で見ている。
スタッフの昼食休憩後を待って捕まえた「お姉さま」だ。
「お姉さま、もしかして責任者なのですか?」
「ええ、そうよ」
「素敵! さすがはお姉さま!」
今回無理を言ってキャラに近い口調でとお願いしている。
それはひとえに「あかね様」を「お姉さま」と呼ばんがため。
そして無理を言った巡回への帯同。それはずっと一緒に隣を歩くため。
ブロック長の江口橋は「目は多い方が良いだろう」と二つ返事だったが、Chikiの熱い視線はあかねにくぎ付けなのであまり意味がない。
あくまでも巡回がメインなので、あかねは油断なく見回るが、会話を期待していたChikiは少し不満だ。最近噂に聞くコミマの事件をのことを思えば仕方のないことなのだが。
それにしても雰囲気が張りつめている。もう少し力を抜いても良いのではないかとChikiは思うのだが、あくまでもコスプレ参加者である自分にはそんな口出しをする権利はないとも思う。
(あかね様。もし私がスタッフになったら、どう思いますか)
Chikiが心の中で問う。
どんな返事が来るだろうと想像をめぐらす。
優しく手を取ってくれるだろうか。それとも何も言わず隣に立ってくれるだろうか。
不意にあかねが立ち止まると、じっとChikiのことを見つめる。
「あ、何でしょう?」
あかねはChikiの前髪を優しく上げた。
顔が、近い。
「かなみ、少し顔が赤いわね。外に出ましょうか」
「は、はひぃ……」
自分がChikiの体温を上げているとは夢にも思わず、ホールの外へと連れ出す。
夏の日はまだ高いが、強めの風が気持ちいい。
真っ黒いスカートがはためき、髪が大きく踊る。
それはまるで物語のラスト、強大な敵と戦うシーンそのものだった。
だが……
「っ……!」
その横顔を見た瞬間、Chikiは唐突に理解した。
お姉さまは……あかね様は何かと戦っている。
その目は敵を探し、その耳は敵を聞き、その手は敵を捕らえようとしているのだと。
ずっと孤独に張りつめた空気を纏って。
私に何ができますか。どうしたら、あなたを助けられますか。
かつて私がそうしていただいたように。
私を救ってくれた一杯のカモミールティー。そのご恩をどうお返しすれば良いですか。
問うても答えは無いだろう。それどころか、優しく突き放されるかもしれない。
でもせめて、せめて。
どうかお傍にいさせてください。