第61話 1日目 苦しい時間帯
倉敷千夏は不慣れな混雑対応に苦戦していた。
1日目でこれほど混雑するとは思わなかった。
ネブロックのあちこちで伸びる列。広めの通路のはずが、あっという間に通り抜けるのにも苦労するほどの混雑になった。
湿気のせいか、キュッキュと床が鳴る音がする。
いつか見たバスケアニメのオープニングを思い出し、アニメジャンルなので納得……している場合ではない。
正直なところ、通行の妨げになっているとしか言いようがない。本来なら列を折るところだが、折る方向がない。
「ネ」とまで書いた最後尾札をどこに渡すべきかすら迷っていた。
手を付けるのは長い列にするべきか、動きの鈍い列にするべきか、それとも手近なところにするべきか……
「どうしよう……」
目に見えた混乱は起きていないが、手を出せる状況ではない。
倉敷はうまく状況が把握できないでいた。
「どうしよう、どうしよう」
夏の暑さもあって頭が回らない。
ただでさえ最もシャッターから遠く風が入らないのに、この壁のような人混み。
湿度も極端に高い中で大きな男性に囲まれ、頭がオーバーヒートを起こしても不思議ではなかった。
「うっ……」
どんと押されて一歩後ずさる。
ふと後ろを振り向くと、ノブロックのサークルの机がすぐそこにあった。
「す、すみません……」
思わずサークルに謝る。
そうだ。ここまで列が伸びてしまったということは、頒布に影響が出始めてる。
もしサークルの机の前まで列が埋めてしまったら、その日のコミマの思い出自体が悲しいものになってしまう。
「何とかしないと……」
ひとり呟く倉敷に、明るい声がかけられた。
「お、大盛況だね。とりあえず片っ端から圧縮だね」
「思ったよりも伸びているな」
「朝日さん、江口橋さん」
同じネブロックのトラックヤード側のエリアを担当している朝日とブロック長の江口橋だった。
朝日は縁なし眼鏡をきらりと光らせると、額に汗を浮かべながら楽しそうににやりと笑う。江口橋は長袖シャツが暑そうだが、特に表情を変える様子はない。想定の範囲内ということだろうか。
「とりあえずこっちを圧縮してくる」
「はい。じゃあ倉敷さん、次のことは圧縮してから考えよう。この列、前から圧縮するから倉敷さんはそっちの隣の列お願いできる? 圧縮終わって最後尾札がなかったらそこに渡そう」
「は、はい」
朝日の指示に従って、列を圧縮していく。暑い。
「すみません、少しずつ前に詰めてください。少しずつ前に」
空気の流れがよどんでいるのを感じる。
風通しの悪いこの空間でさらに人との距離を詰めることに若干の申し訳なさを覚えるが、頒布できないサークルが発生してしまうことを考えると仕方がない。
「もう少し前へ……ありがとうございます。あ、これ最後尾札お願いします」
前から順に声をかけ、最後尾にたどり着く。ブロックの番号を書いた最後尾札を渡してひと段落。
通路の流れはある程度確保できたように見えるが、いつまた詰まるか分からない。しかも今圧縮したところなので、これ以上前に詰められる余裕もない。
「列を折るしかないね」
「あっ、朝日さん」
「倉敷さん落ち着いて。事前に決めた通りに導線テープ貼って。とりあえずパケなしで単純にL字にしよう」
「はっ、はい!」
「これさっき江口橋さんがくれたから使って」
朝日に差し出された白いガムテープを使って、列を置きたい場所を見えるようにする。
スタッフはどこに列を置けばいいか分かるし、一般参加としてもどこに立てばいいのか分かりやすい。
欠点は、片付けが必要なこととゴミが出ることぐらいだ。
人ごみの中で苦労しながら、床に白いテープを貼り付ける。
「お並びのみなさん、足元白い線に沿って並んでください!」
「右の人が白いテープの上に立つぐらいの位置でお願いします!」
朝日のフォローが入り、さっと列が折れる。これで通路の流量は間違いなく確保された。
息つく間もなく、朝日が外周方面に目をやる。
「じゃあ倉敷さん、もう少しこの辺りをお願い。ちょっと向こう見てくるから」
「は、はい」
白いテープを倉敷に渡したまま、朝日が混雑へと向かっていった。
落ち着いてあたりを見回す。
通路は確保されているが、いくつかの列で間隔が空いているように見える。
「まずは圧縮、その次はそれから考える……」
教えられたとおりに圧縮から始めると、案外それで通路は落ち着いてきたように見えた。
列の隙間が空いていると、そこを無理やり通り抜ける人がいて列が曲がり混乱を生む。
通り抜ける気を起させないほど詰めればそういったことは起こらない。
L字に折った列はどうなったかというと、参加者が自発的に隙間を開けて人を通していた。足元の白いテープが良い仕事をしている。
朝日が貼って行ったのだろう。L字の根元をつなぐ部分が点線で表現されていた。
もちろん気づかずくっついて並んでしまう人もいたが、多くの参加者は意図を汲み取って点線部分の隙間を開けて並んでいた。
混沌が収まっているのを見計らってその隣の列を圧縮すると、少し先に瑞光寺の姿が見えた。
夏服の明るい色が多い中で、長身の黒いセーラー服がひときわ存在感を放っている。
人の目を引く美貌に、引き締められた表情。
半径数メートルにわたって、秩序ができていた。
柱の周りは立ち止まる人が多いと聞いていたが、今日に限っては誰もそんなことをしない。
無視できない存在感に監視されている気になってしまうのだろう。
「あっ……」
こちらを向いた瑞光寺と目が合った。倉敷は反射的に緊張するが、すぐに安心感に変わるのを感じた。
瑞光寺の表情は変わっていないように見えるが、倉敷には確かに「ちゃんと見てくれている」という風に感じられたのだ。
(よし)
自分はまだまだ頑張れる。
いざとなれば助けてくれるという信頼と安心がある。
「少しずつ前におつめくださーい!」
倉敷はしっかりと声を張り上げ、また隙間の空き始めた列を整えだした。
※
ガレリア側外周通路。雀田しのぶはまだまだ見習いであることを痛感していた。
ふくよかな体を軽やかに動かして次々に列を整える矢原。
小さな体を活かして、するりと人ごみに入り込み的確にアナウンスをする児島。
どちらも、とても真似できない。
雀田は普段からそれなりに体を動かしている方であるが、それでもこの場所でスタッフとして動けるかはまた別の話だ。
(お嬢様の足手まといになるわけにはいかないのに……)
雀田が首を左右に小さく振ると、肩で切り揃えた髪が揺れる。
副ブロック長として頑張っている、自慢のお嬢様。
円滑なブロック運営がお嬢様の評判に繋がるに違いないと信じている雀田は、自身が役に立てていないことに焦っていた。
「えっと、雀田さん」
「あっ、矢原さん……」
ネブロックのガレリア側を任されている矢原。運動不足が伺えるふくよかな体型と地味な眼鏡は、一昔前のオタクのビジュアルイメージそのままだが、スタッフとしては先ほども見たように非常に機敏な動きだ。
雀田が困っていることを察知したのだろう。
不慣れそうに頑張って話しかけているように思えた。
「焦らなくても良いっすよ。みんな本が買いたいだけなので」
「それは、そうなんですが」
「みんなそれぞれ目的がバラバラなだけで、敵じゃないんすよ。だから、少し流れを整える手伝いをすれば、応えてくれるんすよ。見ててください」
矢原は右手を大きく上げると、少し上に向かって声を上げた。
「ここは通路が狭くなります! なるべく左側通行でお願いします! ここは通路が狭くなります! なるべく左側通行でお願いします!」
矢原の見た目からは想像しづらい、腹から出す太い声。
その声に答えるように、何人かの一般参加者の動きが変わる。
「ここは通路が狭くなります! なるべく左側通行でお願いします! ここは通路が狭くなります! なるべく左側通行でお願いします!」
また、同じアナウンス。
確かに人の流れは少しだけ良くなったように見える。
「同じアナウンスを繰り返すんですか」
「何度も同じことを聞くのは自分だけっす。あ、じゃあ続きお願いします」
そう言い残した矢原は、少し先で間延びしている列の圧縮をする。
ふらっと現れたブロック長の江口橋と二言三言交わすと、さらに向こう側へと消えていった。
その江口橋がちらりとこちらを見る。雀田は目が合うと、大きくうなずいて見せた。
「ここは通路が狭くなります! なるべく左側通行で!」
めったに出さない腹からの声。
雀田はそれが少しだけ楽しく思えてきた。
「なるべく左側通行でお願いします!」
思えば、日常生活において大声を出す機会はあまりない。カラオケに行ったとしても、これほど本気で声を張り上げることはない。
(これはストレス発散にいいかも)
「通路狭いですので左側通行でお願いします!」
何回目かでコツを掴んできた。
なるべく歩いている人の目を見た方が良い。
ちらりとでも目が合えば、ちゃんと指示に従ってくれる割合が高い。
つまり、逆走状態になりそうな人を見極めて、見えやすいところに動いて、見て、声を上げる。
考えながら動けば効果が見えてくる。面白い。
面白いのだが……
「雀田さん、ずっと声出してますけど大丈夫ですか」
「ああ、児島さん……何とか。しかしここの人の量は全然変わらないですね」
「ホールの出入り口に向かう人の流れがどうしてもありますもんね」
そう。この業務は終わりが見えないのだ。
大きな声を出し慣れていない雀田は、喉に少しの違和感を覚えていた。これではそのうち喉がかれてしまうだろう。何かコツがあるのかもしれない。
「大きな声を出す業務は交代しましょう。できそうなら、列の維持やってみますか? あそこのパケットですけど。最初にレクチャーした後、私が代わりにここのアナウンスをしますよ」
「分かりました。お願いします」
雀田は気づき始めていた。お嬢様の役に立とうとこの場所に立ったが、それを抜きにしても面白い場所なのだと。
その場所を思いきり楽しむために、もっと色んなことを覚えたいと思うのだった。




