第6話 1日目 初日の終わり
「今日『かさなつ』のサークルは、玉の宿さんとお隣だけでしたわ。しかし、視覚的にはそういった情報が何もないのです」
「……ポスターということかしら」
「そこまで準備されずとも、いわゆるPOPと申しましょうか。アニメジャンルの配置ですと余計に何の作品の二次小説なのか、この本がどういった内容なのかを見やすく伝えた方がよろしいのではないかと」
あかねは「漫画なら表紙で判別できるのですが」と補足する。
この場にいる誰も、ここが『重なる夏の物語』のサークルだと分からない。視認性がとにかく悪い。
高村は納得したようにうなずくと、小さく息をついた。
「確かに、そうかもしれないわね」
「装丁も、とてもセンスが良くてお洒落なのですが、ただ二次創作の作品であることを考えると、情報が足りませんわ」
「やっぱりイラストレーターさんにお願いするべきね」
「もしくは『かさなつ』の舞台のような、夏の地方都市の写真なども良いかと思うのですが」
「敷布の黒に映えるのは黄色かなって安直に考えたけど、確かに夏の写真でも映えそうね」
高村は「次回に向けて、とても参考になったわ」と腑に落ちたらしい。
あかねは高村が「次回」のことを口にするのを聞いて安心した。誰にも手に取ってもらえなかったから、もうコミマに来たくないと考えてもおかしくないと思っていた。
「宣伝も大事だと思いますわ」
「個人サイトやSNSはやってないから、それが難しいのよね」
「そこは色々事情がおありでしょうから。となるとやはり当日の訴求力ですわね……」
「それにしても、夏の写真っていいわね。あのプロローグのシーンでしょう」
「やはり思い出されましたか。あの主人公の独白から、一気に風景が広がるシーンの、気合の入った背景は衝撃的でしたわね」
「それにフェードインしてくるBGMがまた。あれはアニメならではの演出よね……小説書きとしてハンカチ噛みたくなるくらい悔しかったわ」
その後二人は『かさなつ』の思い出に花を咲かせ、お気に入りのシーンやセリフを語り合って意気投合したのだった。二人はお互いにとって、コミマでできた初めての友達となった。
高村と別れた後も、あかねは自分の担当したUブロックのサークルの本を買って回る。
中には「さっきはありがとうございました」とお礼を言ってくれるサークルもいた。
あかねにとってはペットボトルを回収しただけだったが、サークル側から見れば邪魔なゴミを引き取ってもらえて大変助かったということだろう。
自分の行動を喜んでもらえたことには、確かな満足感があった。
前原から注意されてしまったことが心に引っかかっているが、江口橋はあかね側に立ってかばってくれた。それを考えると、前原の言葉はスタッフとしての統一見解では無さそうであると推測される。
でも推測。まだ自分の行動に確信が持てない。
もう少し周りを見ながら知識を広げる必要がある。
そして、救わなければならない。このイベントを。
あかねは買い物をしながらも、そんなことを考えていた。
「神崎」
「はい」
いるだろうと思って名前を呼ぶと、すぐに返事があった。
数人いる黒服の中でも筋トレが趣味でやや暑苦しい男、神崎。
今日の監視役の一人だった。
「神崎は先に帰ってもよくてよ」
「閉会時間が近いから、ですか」
「ええ、どうせ安威もいるのでしょう」
安威の気配はないが、どこかから遠巻きに見ているのだろう。
見ているだけであれば、その職務を止める気はなかった。
「少なくともどちらかは、お嬢様と同じ電車で戻るよう仰せつかっております」
「そう……ではその役目は安威にお願いするわね。神崎、これを頼まれて欲しいのだけど」
あかねは買いまわった本が詰まった手提げを渡すと、これを持って先に帰るよう神崎に伝える。
筋肉自慢の神崎としては、力仕事は望むところであったし、閉会間際であることや安威が残っていることから判断し、あかねの言葉に従うことにしたようだ。
あかねの荷物を大事そうに抱え、出口方面へと消えていった。
閉会まで残り30分を切る頃、休憩室で休むあかねの姿があった。
少し疲れを感じているが、慣れない時間帯での早起きのせいもあるだろう。
あかねは一般的な大学生に比べると規則正しい生活を送っているが、それでも始発に合わせたコミマ生活リズムは、このくらいの時間帯にどっと疲れをもたらしてくる。
冷房の効いた休憩室では、力尽きたスタッフが数人床で寝ている。
これからの業務に備えているのかもしれない。
まだ1日目。3日間あるコミマを戦うために、今休むという彼らなりの判断なのだろう。
休憩室の小さな窓から見下ろすと、会場内の人通りがかなり少なくなっていることが分かる。
ジャンルにもよるだろうが、サークルももう半分ほどが帰ってしまっているようだ。
寂しいと思う反面、あかねは自分がどうだったか思い出していた。
事前に調べた目当てのサークルを回り、気になっているジャンルを回り、オリジナル系のジャンルを回り、そして帰る。閉会までいた記憶はほとんどない。
スタッフとしては閉会後の作業もあるらしいが、許されるのであれば今日のところは早めに帰って明日に備えたほうが良さそうだった。
ホール本部に戻ったあかねは、まっすぐ水分補給のための麦茶を取りに行った。
椅子で休む江口橋を見つけると、戻ったことを報告する。
あかねのことをじっと見る江口橋。
何事かと見つめ返すが、江口橋の方からふっと吐いて緊張を解いた。
「瑞光寺さんは、笑うのは苦手か」
「……ええ、そうですわね」
「そうか」
「申し訳ありません」
「うん?」
謝罪に心当たりのない江口橋が首をかしげた。
「昔からですの。目つきが怖いとか、睨まれているとか」
「そうか。それじゃあ同類だな」
「同類?」
「俺もまあ……笑顔が苦手で、最初の頃はクレームを受けたりもした」
「そうでしたの。やはり笑顔は必要ですのね……」
多くのコミマスタッフは愛想が良い。それは言えることだが、もちろんそうでないスタッフもいる。
江口橋もどちらかといえばそっち側だ。
「瑞光寺さん。大雑把な話だが、スタッフには『親しみやすいスタッフ』と『頼りがいのあるスタッフ』があると俺は考えている」
「はい」
「俺は『頼りがいのあるスタッフ』を目指すことにした」
「……なるほど」
暗に愛想の有り無しのことを指しているのだろう。
江口橋なりの励ましなのかもしれない。あかねはそう思うことにした。
今日を思い返しても、よく面倒を見てくれている。
彼自身の言う『頼りがいのあるスタッフ』を実践できているように見える。
「それはそうと、サークルさんと話し込んでたそうじゃないか。ずいぶんはずんでいたと何人か言ってたぞ」
「ええ、お友達ですもの」
高村の嘘は、もう嘘ではなくなった。
そうだ。今日は色々なことがあったが、何より新しい友達ができたのだった。
それだけで今日は、素晴らしい日だったと言える。
『これにて、コミックマート96夏、1日目を終了いたします。お疲れ様でした!』
閉会のアナウンスが場内に響き渡り、残った参加者の拍手がホールを包み込む。
C96夏の1日目に、ひとまず幕が下りる。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様。初日から色々あったと思うが、明日もよろしく頼む」
「はい。もちろんですわ」
「今日のところは早く帰って、しっかり休んでくれ」
実を言うとスタッフにはまだまだ仕事は残っているが、体力に自信が無かったり、家が遠かったりすると早めに帰ってしまうスタッフも多い。
あかねは初参加ということもあって、早めに切り上げて帰ることにした。
ペースが分かって来れば、閉会後作業もどんどんできるようになるだろう。
江口橋の助言に従って、早めに会場を後にした。
閉会したばかりの時間帯は、とにかく電車が混み合っている。
しかし、その表情は一様に満足そうで、幸せそうに見えた。
自分はこの笑顔にほんの少しでも貢献できたのだろうか。
答えの出るはずもない問いが、頭から離れなかった。
やっと1日目が終わりました。次から2日目です。