第57話 設営日 夜、地元で
設営日の作業を終え、帰路につく。
雀田とあかねが電車から降りると、熱気の壁にぶつかったような気がした。
一気に汗が噴き出す感覚。
「涼しい電車に長く乗っていると、温度差にやられそうですね」
雀田はハンカチを額に当てると、恨めしそうに空になったペットボトルを眺めた。
今すぐ自動販売機で買うべきか、帰ってから置いてある飲み物を飲むべきか迷っているようだ。
「あっ」
聞き慣れない声がして、あかねはそちらの方を見る。
そこにはどこか見覚えのある青年がいた。整った顔立ちが目を引く。
相手は小さく会釈すると、あかねもそれに返した。
どこで会ったか、記憶を探る。
相手は柔らかい笑みを自然に浮かべ、あかねに害意が無いことを示す。
「大泉の方だったんですね」
「ええ、そうですけど……」
そこまで言って、思い出した。
去年の夏コミでスタッフ証を拾ってくれ、そしてトイレの場所を案内した青年だ。
「奇遇ですわね」
「今回もその……出られるんですか」
「ええ、お待ちしておりますわ」
周囲を気にしてか、意図的に『コミマ』の単語を出さなかったのだろう。
あかねはそう察すると、優雅に礼をした。
相手は少し面食らったようだが、笑顔で「楽しみにしています」と言って去って行った。
「お知合いですか、お嬢様」
「知り合い……ええ、そうですわね」
お互いに顔を知っていれば知り合い、だろうか。
人との心の境界が曖昧になるコミマでは間違いなく「そうだ」と言えるが、まぎれもない現実である最寄り駅では、すぐにそう断言できなかった。
また会うこともあるのだろうか。
もしまた会えたなら、その時はせめて名前を教え合おうとあかねは思うのだった。
帰宅後すぐにシャワーで汗を流す。
すぐに寝るために軽めにした食事をとっていると、妹のすみれが向かいに座った。
何やら思いつめたような表情に見えるが、切り出すのは早かった。
「姉さま、私もコミマに行ってみたいわ」
すみれはあかねのグラスが空いているのに気づくと麦茶を注ぐ。
あかねは「ありがとう」と言って少し口にした。
「すみれ、急にどうしたの」
「コミマには高村先生が参加されているんでしょう? 直接お会いして感想を伝えたいの」
「そうね……いえ、次にした方がいいわ」
「なぜ」
悲しそうな顔をするすみれ。
憧れの人に会えるかもしれなかったのに、参加を反対されるとは思わなかったようだ。
だがこれは、すみれのためでもあった。
「残念ながら高村先生は今回いらっしゃらないの。落選してしまったのか、元々申し込んでおられなかったかは分からないけれど。それに夏は過酷なの。初めて参加するのであれば、冬の方が体の負担が少なくて良いわ。その時は……そうね、安威に付いてもらいなさい」
「あー、そうか。ひとりだと無理よね」
あかねがすみれの頃は一人で即売会に参加していたが、恐らく誰かが遠巻きに見守っていてくれたのだろう。
他の家はともかく、うちがそこまで放任するとは思えない。
両親と顔を合わせる機会は少ないが、だからこそ過保護気味なところがあるように思う。
「あと、勉強もしっかり頑張らないといけないわ」
「そしたら、父さまと母さまに口添えしてくれる?」
「もちろん。おふたりとも、義務を果たす人間の言い分は必ず聞く方よ」
「うん、私もそう思う」
やらなければならいことを放置して叱られた覚えは何度かあるが、自由に行動して叱られたり、それを止められた記憶はあまりない。もちろん怪我をするリスクがあったり迷惑になるようなことは叱られたが。
そういった『要点』を抑えていれば、理解のある両親であると言えた。
外にいるときはいつも誰かに見守らせていた、ということもあるだろうが。
「次の冬も参加されるかは分からないけど、いらっしゃるといいわね」
「うん」
さすがに高村がいないと聞いてまで押しかけるつもりは無いらしい。
すみれは素直にうなずいた。
今回あかねは、明日の1日目と最終日の3日目にコスプレを予定している。
あまりその気はなかったのだが、Chikiから誘われたことを言うと途端に雀田が張り切り始め、勝手にChikiと連絡を取り合いまたも正山を巻き込んでコスプレ計画に奔走していた。
普段の仕事よりもよほど張り切っている。
あかねはハンガーにかけられた明日の衣装を眺める。黒セーラーに灰色スカーフで、一見すると普通の学生服だ。
今回のキャラクターは『アトラナートの学園』の胡蝶。
かなり古いパソコンのアダルトゲームなのだが、未だに根強い人気があるらしい。
これはChikiの提案だというが、18歳になったばかりの彼女に何があったのだろうか。曰く、ゲームに登場する『お姉さま』と『かなみ』の関係性が良いとのことで。ぜひとも再現したいらしい。
もちろん『お姉さま』こと『胡蝶』はあかねで、『かなみ』はChikiである。
勧められるままにゲームをプレイしてみたが、音楽もグラフィックも昔を感じさせない出来だ。
ゲームのジャンル上エロシーンも多分に含まれているが、それを加味してもどこか文学性を感じさせるような内容だった。
「それにしても、また人間ではないキャラクターですのね。わたくしそういう雰囲気なのかしら」
ゲームに登場する『胡蝶』の気高さはぜひ見習いたいと思わせてくれる。
もしChikiが自分の中にそういった部分を見出してくれているのなら嬉しいのだが。
携帯が短く震え、メッセージが表示される。
『清川千歳』と本名で登録されているが、Chikiのことだ。
『あかね様、明日はよろしくお願いします』
漫画革命でSNSのアカウント作って以降、何度もメッセージを交わしてきたが、顔を合わせるのは前回の冬コミ以来だった。
Chikiはコスプレ系のイベントには参加しているようだったが、そこで何度かあかねのことを聞かれたらしい。そういえばリョリョも同じようなことを言っていた。
あかねはSNSの使い方にあまりピンと来ていないところがあり、たまに食事と出先で見かけた猫をアップする程度だ。とにかく発信慣れしていない。これはあかねにともって発見だった。
Chikiは2週間前に出来上がった衣装の写真をアップし、古いゲームのコスプレをするということで話題になったらしい。新星のコスプレイヤー『AKANE』と合わせをすると発信してしまったので、あかねのアカウントのフォロワーがまた増えることになった。
あかねにとっては自分のことを見る目が増えてもあまり嬉しくはない。
世の中がなぜフォロワー数を比べて見るのかあまり理解できないでいた。
とはいえ、SNSで楽しそうに発信するChikiは微笑ましく、彼女が慕ってくれていることに悪い気はしていない。
『午後からよろしくお願いしますわね』
携帯で短いメッセージを送ると、あかねはパソコンの電源を落とし部屋の明かりを消した。
明日も始発に乗るつもりだ。早く寝なければ。




