第5話 1日目 ふたりの秘密
「瑞光寺さんはしばらく何もしなくていい」
険しい表情の江口橋から言い渡されたのは、午後2時を少し回ったタイミングだった。
あかねは集めたペットボトルをゴミ集積所に持って行き、次のゴミ袋を丁重に辞退したあとホール本部へと戻ってきた。
冷蔵庫から麦茶を1本取り出した時、江口橋に捕まったのだった。
「どうしてですの? 江口橋さんまでわたくしが余計なことをしたとでも」
「違う。瑞光寺さんは働きすぎだ。コミマは3日間あるってことを忘れていないか」
「……ああ、そういうことですの」
「水分をちゃんと取っているのはいいことだが、それだけ体を動かしてるということだ」
確かにこの麦茶でペットボトル4本目。そして相応に汗をかいている。楽しさに覆い隠されているが、疲労は溜まっているはずだった。
思えば一般参加のときは、最後まで残っていたのは最終日ぐらいで他は早めに切り上げて帰っていたし、そもそも用のない日は休んでいるから全日参加をしたこともなかった。
「そもそも俺は休憩しろと言ったんだが、なぜゴミ集めをしていたんだ」
「それはその……つい」
「熱心なのはいいことだが、ひとりスタッフが倒れると運ぶのに三人手が取られる。何より最終日に一番きつくなるのがコミマだ。適宜休憩したり早めに帰ったり……スタッフが休むのは義務だと思っていい」
「ああ『捜査官は8時間寝るのを義務とする』ということですのね」
「ふっ……そういうことだ。疲労や睡眠不足で責任ある仕事はできないだろう」
漫画から引用していることが分かったのか、江口橋は小さく笑いながら答えた。
あかねは意外そうに江口橋を見て、小さくうなずいた。
「そういうことであれば、承知いたしました。ここは先輩の助言に従うことといたします」
というわけで長めの休憩時間となった。
島中のサークルを眺めながら、ようやく理解する。
なるほど。スタッフ参加すると、この時間帯からようやく買い物ができるようになるということか。人気サークルはほとんど完売しているし、サークルによっては早めの帰り支度をしている。
サークルの立場からするとこの後予定があるのかもしれないし、帰りの混雑を避けるためかもしれない。もしくは、すでに体力の限界か。
どちらにしても、スタッフ参加すると目当てのサークルを買える確率がぐっと減ってしまうことは確かなようだ。
「そういえばサークルの方は、コミマの直前に無理をすることも多いと聞きますわね。やはり体が第一ですものね」
ホテルや新幹線でギリギリまで原稿に取り掛かり、徹夜でコピー本を作るような話も聞く。
誰のせいかはともかく、サークル参加も過酷なのだ。
目的のサークルは、幸いまだ帰ってはいないようだった。
U60bのサークル『玉の宿』
あかねは見本誌回収の時にチェックした、とんでもない筆力の小説がずっと気になっていた。
「こちら、いただけますかしら」
「ええ、もちろん……あら、スタッフさん」
あかねのことを覚えていたようで、顔を認めるとぱっと明るい笑顔になった。
元々美人だと思っていたが、笑うとより魅力的に見えた。
「お約束通り、買いに参りましたわ」
「嬉しい。実は今日初めてなの」
「ああ、初参加とおっしゃってましたわね」
「違うのよ。買ってくださる方が初めて」
「あら……」
机の上に少し積まれている本を手に取ってみる。
『絶空の先へ』と書かれた黄一色の表紙。著者名は高村夏見。表紙から分かる情報はそれだけだ。
ページをめくってみると、最初ほどのインパクトはなかったが、それでも目に飛び込む一節一節が濃厚な存在感を持って世界を彩っていた。
「こんなに素敵な本を初めて手に入れるだなんて光栄……と申してよいのか迷いますわね」
「ふふ、いいの。ありがとう」
冒頭のページにちらりと目をやる。
一節一節に気持ちが込められているのがわかる。
目に入る細めゴシック体はとても読みやすく、この文章の空気を作り出すのに一役買っている。
いい本だ。
あかねは、自分のような素人でも理解できる文章レベルの高さを感じていた。
気になっていた本を無事に手に入れられた満足感と共に、疑問もわいてくる。
「こんなに素晴らしい作品ですのに……」
「初参加の洗礼なのかしらね」
諦めたように笑う高村。あかねは机の上をじっと見つめた。
隣が欠席だったので『重なる夏の物語』サークルはここだけ。十年経ったとはいえそれなりに人気があったアニメだ。決して作品の知名度が低いわけではない。
「趣味だからたくさん売れなくたって構わないと思ってはいたけれど、いざ手に取ってもらえないとなると辛いものね」
「あの」
「はい?」
「差し出がましいようですが、スペースが目に留まりづらい、と申しますか……」
「お、瑞光寺さん。ちょうどいいや。青紙の回収なんだけど」
意を決して口を開いたところで、横から声をかけられた。
同じブロックの三山だ。
青紙の回収……つまりサークルの欠席が確定する時間ということになる。
発行はブロック長か副ブロック長の仕事だったが、回収はブロック員でいいらしい。どうやら三山はその業務を手伝わせようとしたようだった。
「あ? どうかした?」
「いえ、その……」
ちらりと高村の方を見る。
さすがに「本が売れなかった要因を意見しようとしていた」とは言えない。それぐらいはあかねにも分かった。
高村は何となく察したのか、三山に向かって笑いかけた。
「女同士の秘密のお話なんです。うふふっ」
「瑞光寺さん、知り合いだったの?」
「ええ、友達なんです」
高村は堂々と言い切ると、どう答えていいか分からないあかねに「ね?」とウインクした。
同性でもドキッとする仕草に、あかねはぎこちなくうなずくだけだった。
「でも……お仕事なんでしょう? やっぱりスタッフさんってお忙しいのね」
残念そうにため息をつく高村は、愁いているはずなのに妙に艶めかしいオーラを放っていた。
『人生経験』の文字があかねの頭をよぎる。
あかねや三山程度の若造を手玉に取るぐらい、造作もないのだろう。
掌の上で踊らされる三山が、挙動不審になる。なぜか顔が赤い。暑さのせいだけではないだろう。
「いえいえっ、そんなことないですよ。僕だけでも大丈夫なんで、ごゆっくりお話をどうぞ!」
「え、でも三山さん」
「暇そうならって思ったけど、交流も大事だろ。久しぶりなんだろうし、ゆっくり話しなよ」
「いいんですか? 良かった。ありがとうございます」
またキラキラ笑顔を向ける高村を見ると、三山はだらしなく笑ってどこかに消えていった。
後姿が見えなくなるのを見届けた高村は、おかしそうにぷっと吹き出した。
「うふふ、嘘ついちゃった」
「ついてしまいましたわね……」
小さな悪だくみの共犯者になったふたり。
年上の高村はまた小さく笑い、あかねはそんな高村を興味深そうに見ていた。
傍目には美女ふたりが楽しく会話している平和な光景だ。通路を歩く何人かの参加者が、チラチラと二人を見て目の保養をしていた。
「瑞光寺さんっておっしゃるのね。それで、他にも気になったことがあったら、ぜひ教えてほしいわ。今日がダメでも次があるかもしれないし」
「わたくしがお役に立てるかは分かりませんが」
そう前置きしたあかねに、高村は表情を引き締めてうなずいて見せた。