第4話 1日目 失敗と励ましと
軽めのサンドイッチを一人で食べ、スポーツドリンクを少しずつ口に含む。
やはり水分が足りていなかったのだろう。体に水分がいきわたる感覚があって、肌に汗が噴き出る。
そしてようやく、少しだけ疲れているのを実感したのだった。
食べ終わってから、江口橋に言われた通り会場の中を回ってみる。
まずは隣りの東1ホール、そして外のトラックヤードと呼ばれる屋外に出て、真上からの夏の日差しを浴びる。
「風があるから思ったよりマシ……といえども、やはり暑いですわね」
ジリジリと音が出そうなぐらい日差しが強い。この時間帯で、すでに猛暑日が確定している。
無駄に体力を消費することもない。
わずかにある日陰へと身を寄せて、江口橋の言っていた『外のベンチ』を探してみる。
確かにホールの外壁沿いに確かに金属製のベンチが置かれていた。
慣れた風に見える参加者が、荷物を広げて休憩している。
なるほど、ホールで座り込む参加者にはこちらを案内することにしよう。
日差しのことを除けば大っぴらに荷物を広げられる。
「あら……」
ベンチを観察していると、目に留まったものがあった。
空のペットボトルが五本。休憩している人のゴミというわけではなさそうだった。
ふとホール内に目を向けると、通路の端に空きペットボトルが立てられているのが見えた。
「あまり褒められたものではありませんわね」
見つけた以上、そのままにしておくわけにはいかない。
あかねは、東2ホールのシャッター横に展開されたゴミ集積所の係員に声をかけてゴミ袋を譲ってもらった。中国人のような訛りだが、幸い日本語の理解に支障はないようだった。
それにしても譲ってもらったゴミ袋は巨大である。100リットルぐらいだろう。
「まさに大は小を兼ねる……というものですわね」
今日は最高気温が36度になる予報だった。おそらく参加者の持参するペットボトルの本数も相当なものだし、自動販売機でも飛ぶように売れていることだろう。何より昼時の今、まさに予報通りの暑さに見舞われており、水分の消費量が上がっていることは間違いない。
探せばいくらでもペットボトルのゴミを拾えるだろう。
自分のやるべきことを見いだせた気がして、あかねは俄然やる気になった。
外壁周りだけで、10本20本と空きペットボトルが見つかる。一部は忘れていったのかもしれないが、多くが故意に置かれていったものかと思うと、あかねの表情は晴れない。
しかし今は自分のできることをするべきだ。
『巡回するときは不審物に気を付けてください。特に液体の入ったペットボトルは要注意です。速やかに排除する必要があります。たとえ空であっても、誰かが踏む危険があるので……液体が入る円筒上の物ってある意味とんでもない怖さですよね』
事前に行われるスタッフの拡大集会でも館内統括がそんなことを言っていた。
誰のものか分からないペットボトルは、速やかに排除するべし。
ホール内に転がっていた1本を拾い上げ、30本に達したところであかねは数えるのをやめた。
一般参加者に話しかけられたからだ。
「あの、これも捨てさせてもらっていいですか?」
「もちろんですわ」
「ありがとうございます!」
「あっ、スタッフさん、私もいいですか?」
「俺も……すみません」
「いえ。ついでですので」
「助かります!」
あかねの周りにあっという間に5人6人と参加者が集まり、それぞれにカバンやリュックからペットボトルを取り出してゴミ袋へ入れてゆく。
「あの……こっちもお願いできますか」
次に声をかけてきたのは、サークル参加者だった。それも、朝に見本誌を回収したUブロック。
「もちろんですわ。3本もお出しになるということは、しっかり水分をお取りになっていますのね」
「ええ、ばっちりです」
「あっ、こっちも今飲んじゃうんで、ついでにいいですか?」
「もちろん」
隣のサークル、その隣のサークルからも次々に声を掛けられ、まるで回収巡回のような状態になってきた。
UブロックとVブロックの半分を回ったところで、100リットルの巨大ゴミ袋がペットボトルでいっぱいになった。
「さすがに重いですわね……」
これほどまでにペットボトルのゴミが回収できるとは思ってもみなかった。
軽い気持ちで始めたが、これは役に立っている実感がある。
自分でやってみて改めて、ゴミ収集の重要性を理解するのだった。
「お嬢様、お持ちします」
「神崎……不要です。弁えなさい」
「はっ、失礼いたしました」
せっかく労働の喜びを味わっているのに、さっと横に並んだスーツの男が水を差した。
先ほどの安威の同僚の神崎だ。サングラスこそしていないが、この夏コミの会場内でスーツはよく目立つ。
今日二人もこの会場に寄こしたなんて、父親の過保護にもほどがある。もう立派な18歳の大学生だというのに。
あかねに冷たくあしらわれたスーツの男は、素直にあかねの指示に従ってどこかに消えていった。
もう来ないでほしい。ゴミ集めぐらいできる。
苦労して持ち込んだ満杯のゴミ袋に、ゴミ集積所の中国人のおばさんも目を丸くする。
その表情を見て、あかねは心の中でしてやったりと得意げになった。
「オネサン、ヨク集メタネ。スゴイ」
「このくらいお安い御用ですわ」
「次イルカナ?」
「えっと……ええ、頂戴いたします」
「頑張ッテキテネ」
流れるような手さばきで、あかねのゴミ袋と新品のゴミ袋を交換する。
もう一度ゴミ袋いっぱいにペットボトルを集めるミッションを課せられのだと思う。
あかねは表情にこそ出さないが、足取りは軽い。
ああ、楽しい。ただのゴミ集めがこんなに楽しくなるなんて。
放置されているペットボトルはもちろん、参加者の空ペットボトルもお願いされれば回収していく。
東2ホールのVブロックからXブロック、外周のAブロックと回って、袋の中に半分ほどたまったところで不機嫌そうな声が聞こえた。
「おい新人」
「何か?」
振り返ると、スタッフ帽をかぶった男がいた。三十は越えているだろうか。そろそろ切り時かという長さの髪が暑苦しく帽子からはみ出している。
顔に覚えはあまりないが、あかねがちらりと見たスタッフ証には東2ホール本部の前原と名前があった。
そういえば朝礼でサークル対応について手順を話していた。
「一体何をやってるんだ?」
「ペットボトルのゴミを集めておりますけど……見ればお判りになりますでしょう」
「誰の指示だ?」
「わたくしの判断ですが」
前原は大げさにため息をつくと、わざとらしく額に手を当てた。
どうもオーバーリアクションが好きらしい。
ちらっとあかねのスタッフ証を確認すると、今度は腰に手を当てて首をかしげた。
「何睨んでるんだよ」
「睨んではいませんが」
前原は怪訝な顔をする。
あかねとしても睨んでいるつもりはない。これまでもたまにそう言われることはあったが。
「ふん。UVは君堂と江口橋のブロックか……あのさ、困るんだよこういうことされると」
「どうしてでしょう、ペットボトルは不審物ですわよね?」
「置いてあるペットボトルは不審物かもしれないが、集めて回らなくていい。そんな大々的に集められると、スタッフ全員がそういうことやってると思われて迷惑なんだよ」
「迷惑? なぜです?」
「一人が違うことをすると、それを全員に要求されるんだよ。そのぐらい考えれば分かるだろ」
「誰が要求するのですか?」
「サークルや一般に決まってるだろ!」
声を荒げる前原に、あかねは思わず肩を縮めた。
突然の鋭い声に、何事かと周囲の注目が集まる。
前原当人はあまり気にしていなようだが、外周通路の話し声が一瞬小さくなった。
「そのように怒鳴らないでくださいませ」
「誰のせいだよ!」
あかねは驚いた。これまで衆人環視の中で大声を張り上げる人間を見たことがなかったからだ。
そんなことに気づいて、急に冷静になる。
それと同時に背後に気配を感じ、後ろを振り返ってこちらに向かおうとしていたスーツの男を目で制した。
これは、あかね自身の問題だ。彼らが出てくるとややこしくなる。
「どこ見てんだよ」
「いえ」
あかねがさらに口を開こうとしたところで、横から低い声が入って来た。
「前原さん」
騒ぎを聞きつけたのか、人をかき分けて江口橋が現れた。
あかねと、あかねの持つ巨大なゴミ袋を見てから前原に尋ねる。
「何かありましたか」
「江口橋、お前んとこの新人どうなってんだよ」
「何がですか?」
「ペットボトルのゴミ回収とかされるとさ、他のスタッフが迷惑するだろ」
「そうですか? ついでに捨てるぐらいやってもいいと思いますが」
「全員が全員、そう思ってくれないだろ。他のホールで『東2では回収してくれた』とか言われてみろよ。困るだろうが」
「困りますか? 『うちではやってないんですよ』で済む話でしょう」
「その受け応えが無駄だって言ってんだよ」
「そもそもゴミ袋を持ってないスタッフには話しかけないでしょう」
前原の声が大きいせいか、参加者が遠巻きに三人を囲んでいるような状態になっている。
サークル参加者はそろって眉をしかめたり首をかしげたり、共通して前原に好意的ではない視線を送っていた。
「瑞光寺さん、ここはいいからそのゴミを捨ててきな」
「承知いたしましたわ」
「あと前原さん、ここだと目立つので本部に行きましょう」
「……ああ」
言われて視線に気付いたのか、小さめの声で前原が返事をした。
江口橋に促されるまま、ホール本部へと向かう。
あかねはちらりと自分の方へ視線をやる江口橋に向かって、大きくうなずいて見せた。
失敗。
その二文字が頭をよぎる。
自分は正しいことをしていると信じていたが、前原の言うことに一理あるような気もする。
ただ、サークル参加者に嫌な思いをさせてしまったのは間違いなさそうだ。
あかねはサークルに向かって騒がせたことを詫びるお辞儀をした。
「皆様、お騒がせをいたしました」
「あの、スタッフさん」
サークル机から身を乗り出すようにして、ひとりの男性サークルがあかねに声をかけた。
その男性は励ますかのように明るく大き目の声でお礼を言った。
「ペットボトル回収してくれて、ありがとうございます。何言われても、こっちはめちゃくちゃ助かったんで」
「いえ、お見苦しいところを……」
再度謝ろうとするあかねに、周囲の他のサークルも気遣いの言葉をかけてくる。
「うちのもありがとうね」
「上の人間ってのはどこの組織でも融通が利かねえなあ」
「ゴミ拾って怒られるとか信じらんない。アンケートに書いてやろ」
「まんレポに描こうよ」
「そうだな。ひんしゅく? ……じゃなくて感謝のコーナーだな!」
「皆様……」
直接向けられた敵意に傷ついていた心が、少し癒されるような気がした。
思えば、これほど誰かからお礼を言われ、庇われたことは初めてだ。
あかねの目頭が、つんと熱くなる。
『いかなる時も優雅たれ』
あかねは表情を引き締めると、サークル参加者たちに向き直った。
「皆様、引き続きよろしくお願いいたします」
「それはこっちのセリフですよ!」
「また理不尽に怒られたら俺たちが味方してやるからここに来な!」
先程の謝罪と違い、今度は感謝を込めてあかねは深いお辞儀をした。
潤む目を隠すように、深く。