第39話 3日目 急ぐ雀田さん
C97の最終日、あかねも疲れが取れ切っていない自覚がある。
早朝のリビング。
「おはようございます……」
ぬっと現れた雀田を幽霊かと思って内心驚いた。
この瑞光寺の家は、会社の事務所も同じ建物の一階にある。
どうやら雀田はその事務所の仮眠室で眠っていたようだ。
勤務時間外だが好きに使っていいらしい。そのあたりは個人経営だけあって緩い会社である。
簡易ベッドでは疲れが取れていないのか、雀田に動きにいつもの機敏さがない。
手早く朝食を済ませ出発の準備をしていると、雀田が申し訳なさそうに言った。
「お嬢様、私は少し遅れて行きます。会場の夜間通用口までは安威がお送りします」
「そう。構わないけど……」
あかねは雀田の顔に出ている疲れが濃い割に、目がギラギラしているのが気になった。
不本意ながら安威に付き添われ、電車を乗り継いでビッグサイトへと向かう。
あかねにとって2回目のスタッフ参加となるコミマ。通算で6日目。少し慣れてきたような気もしているが、この次は来年の8月。そう思うと少し寂しい気がした。
冷たい空にそびえ立つ、逆三角形の会議棟。
一般参加だったころのあかねにとっては用のないただのシンボルでしかなかったが、スタッフになってからはこの中で拡大集会に参加した思い出が積み重なっている。
大きなガラス窓から見下ろした東ホールの屋根は、この先もずっと忘れないだろう。
「では、私はここで失礼いたします」
「ありがとう、安威」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
スタッフ用の夜間通用口の前で、安威と別れる。
安威はこの寒空の中、サークル入場時間まで1時間ほど寒空の下で待つことになるが仕方ない。
すでに山ほど集まっている一般参加者は、もっと待ち時間が長いのだ。
あかねは以前一般参加していた自分を思い出して、すごい忍耐力だったと他人事のように振り返った。そして、今も寒空で待ち耐えている大勢の一般参加者に敬意を抱くのだった。
※
雀田しのぶは早足で急いでいた。
真冬だというのに雀田の額にはうっすら汗が浮かんでいた。
荷物がこれほど重くなるとは思っていなかったが、これもこのお祭りに合わせるため。お嬢様のため……
時間はちょうど七時あたり。
ギリギリセーフだと思っていいだろう。
「すみません、少し遅れました」
朝ミーティングの途中でやってきた雀田を、ルレロブロックの面々が温かく迎えた。キャリーケースで大きな荷物を持ってきたが、誰も気にした様子はない。
後で聞いた話によると、最終日はホテル宿泊のスタッフが着替えを持ってきたりするので、大荷物の人が珍しくないらしい。
昨日体調不良で早く帰った児島の姿もある。雀田は仲良くなってきた彼女が無事に参加しているのを見て安堵した。
雀田の到着で、ルレロブロック全員が集合することができた。
桐宮は遅れてきた雀田のために、朝ミーティングの内容をもう一度おさらいしてくれた。
今日は最終日で混雑が予想されること。そんな中で、昨日からの警戒レベルが維持されてレベル3で朝から活動すること。他のブロックで受付の不備があったこと。今年は例年より参加者の体調不良が多く、昨日はスタッフでも児島と同じように体調不良が出て、数人重症化したスタッフもいたらしいこと。
外周シブロックの混雑に注意しながら巡回をしっかりするようにと指示があった。
簡単な朝ミーティングがひと段落し、解散となったところで雀田はブロック長たちに声をかけた。
「桐宮さん、江口橋さん。七時半からおじょ……瑞光寺さんをお借りします。1時間程度になるかと」
「えっ、復帰は八時半かあ……正直なところ、ちょっと辛いんだけど」
「その分残りの時間、倍働きます。サークル入場してくる神崎という男も使います。見本誌を回収して回っている皆さんのサブとして、重い見本誌を本部に運搬する役に徹させます。ルレロブロックだけでなくラリブロックの分もお手伝いしますので、後ほど顔合わせをお願いします」
「お、おう……」
キャリーバッグを持つ手に汗がにじむ。
寝不足の雀田は自覚していなかったが、半分殺気を込めた目で桐宮を威圧していた。
「雀田さん、何か隠していますわね」
「はい。でもまだ言えません。あと三十分待ってください」
「相変わらず正直ね」
背中に冷や汗を感じながら雀田はぎこちなくうなずいた。
雀田はちょっとした誤魔化しが苦手だった。そして「待ってほしい」と正直に言えば、お嬢様は受け入れてくれることも知っていた。
スタッフ控室で手早くお弁当を食べ、急いでホール本部へ戻る。
お嬢様にはそのまま控室で待つようお願いしてきた。
「桐宮さん、江口橋さん、こちらが神崎です。さっき言った見本誌を運ぶことだけに徹する運び屋です」
「民兵か……神崎さんスタッフ経験は」
「この間、浜松町で」
「へえ」
桐宮は面白そうに神崎を見る。
後から聞いた話によると、一般参加したスタッフの知り合いが混雑対応の応援に駆り出されることはままあるらしい。
それが桐宮の言う「民兵」とのこと。
「じゃあ、ブロック員にも面通ししておくから」
「はい、よろしくお願いします。じゃあ神崎、お願いね」
「了解」
「それでは、お嬢様のところへ行ってきます」
雀田は走らないよう速足で控室に向かった。
まだスタッフ3日目だが、走らずに急ぐのがうまくなったような気がする。
不審物を探しだす目も養われたし、人を誘導するコツもなんとなくわかってきた。
今後この能力を生かせる機会があるかは分からないが、新しいことを身に付けているという実感が雀田にとって新鮮なものだった。
(不思議な場所だ)
雀田は、この仕事との境目があいまいな時間を楽しんでいた。
「それではおじょ……瑞光寺さん、こちらへ」
雀田はスタッフ控室の隣の部屋へとお嬢様を案内する。
控室同じぐらいの広さがありそうだが、人の気配はほとんどない。
「ここは」
「スタッフ用の女子更衣室ですよ」
お嬢様が何か言うと口を開く前に、ドアを開けて中に入った。
その時、お嬢様の中でこのキャリーバッグとこの部屋が結びついたようだった。
ただし、この着替えはお嬢様自身のものなのだが。
出入口にいるスタッフにスタッフ証を見せ、中に入る。
中には数人しかおらず、揃ってキャリーバッグから衣装を取り出して着替えの準備をしている。
これから忙しくなる時間帯。お嬢様と同じように手早く朝食を食べて着替えに取り掛かっているのだろう。
雀田は事前に打ち合わせをした通り、部屋の端へとお嬢様を誘導する。
そこで待っていた老女に、お嬢様が目を見開いた。
「おはようございます、お嬢様」
「正山? どうしてここに」
正山は長らく瑞光寺の家に勤めていたお手伝いさんで、料理や掃除、裁縫から電化製品の修理までこなす器用ななんでも屋だった。特に高身長のあかねには既製品の服が中々なく、正山が作った服にばかり袖を通していた。
寄る年波に勝てず去年の秋に職を辞したのだが。
その小さな体に任されていた仕事量はとんでもなく、彼女が辞めた後、その穴を埋めるのに男が一人雇われ、パートの家政婦が二人補充された。
どうして、その彼女が今ここにいるのだろうかとお嬢様が目を見開く。
「お着換えのお手伝いでございます」




