第3話 1日目 模索
何事もなく過ぎた午前中も、初めてスタッフの立場に立ったあかねから見れば何もかも新鮮だった。
朝の一般入場の鬼気迫る雰囲気、そして臭い。
外周の混雑と熱気、また臭い。
そんな臭いを物ともしない、同人誌を買って回る一般参加者の表情。知り合いと話し込むサークル参加者の笑顔。
自分が一般参加した時には気に留めなかったが、それぞれが目的を持ってこの場所にいる。
それを客観的に見ることができるのは新鮮だ。
何より……
「あの、トイレはどこにありますか」
「あちらの正面に大きな案内が……見えますかしら」
「あっ、ありがとうございます!」
頼られることで得られる、自分が必要とされている感覚。
身に付けるべき知識を持っていれば、これほど人の役に立てる。
あかねは一般参加とは違う種類の充実感を、かみしめていた。
(それだけでは、いけませんわね)
あかねは改めて夢のことを思い出し、この場所を守るためにスタッフになったのだと心を引き締める。
まずは今回でコミマの仕組みを知り、その上でどうすればいいのかを考えるつもりだ。
壁際に座っている人を見かけ、声をかけるべきか考える。
『ひとりが座っていると、他の人間も座っても良いと思って何人も座ってしまうから、早めに立ってもらうように声をかける』
そう言っていた江口橋のことを思い出す。
スタッフのやるべきことは、受付と安全確保、そして参加者対応が軸になっている。
座り込みは安全確保の黄色信号とも言うべき状態だった。
そこへ同じブロックの三山が通りかかった。
「あの、三山さん」
「おん? ああ、お嬢様か」
「お嬢様……?」
「名前を覚えられなくてね……あー、どうかした、瑞光寺さん?」
三山はあかねのスタッフ証を確認しながら名前を呼んだ。
三山は二十代半ば、身長はあかねより少し低いくらいでスタッフ帽をやや目深にかぶっている。
中肉中背で正面から見ると大きな特徴はないが、今日のシャツの背中に「ラーメン」と書かれており、後姿が判別しやすい。
お嬢様呼びに引っかかるところはあったが、あかねは気にしないことにした。それよりも聞いておきたいことがある。
「ええ、あの座り込みをしている参加者に、どう声を掛ければ良いのかと考えていたところです。よろしければお手本を見せていただけないかしら」
「お手本ね……」
三山はちらりと壁際に目をやると、小さくため息をついて鼻で笑った。
「あのくらい放っておけば?」
「は?」
思わず聞き返したあかねを、意外そうな顔で見る三山。
やれやれと言いたげに大げさに肩をすくめると、あやすように笑って見せた。
「地図見てるだけだし、すぐどっか行くでしょ。注意するとお互い嫌な気持ちにならない?」
「でも座り込みは安全確保に……」
「安全でしょ。この程度の混雑なら」
三山の指す「この程度」が今の時点であれば、確かに混雑とは言えない。しかし、タイミングによっては人の波が高密度になることもある。あかねに言わせれば、決して空いているわけではない。
そう見ているうちに、またひとり座り込んで携帯を見始めた。
「……増えてしまいましたわ」
「増えたけど、二人ぐらいなら全然。そりゃ十人いたら注意するけど」
そうだろうか。
ふたりの時点で注意すれば、十人にはならないはずだ。
「三山さん、座り込みが増えて『安全が確保できていない』と消防の方が判断すると、コミマが中止されると聞きました」
「……ああ」
正論をぶつけられ、三山が目をそらす。
「もしこれを見逃してコミマが中止するようなことになったら、耐えられるのですか。やるべきことをしなかったと後悔なさいませんの」
「……まだ大丈夫だよ」
「教わったことと違うのですが」
「……現場は臨機応変だよ。柔軟に考えないと」
納得できないまま見ていると、座り込んでいたふたりが立ち去った。
それを見た三山は得意げに笑う。
「ほーらね」
耳障りな声を残して、三山はその場を立ち去った。
あかねはまた人がたまり始めた壁際を見ながら、小さくつぶやいた。
「……ただの怠慢ですわ」
誰にも聞かれることは無く、雑踏に吸い込まれてゆく。
色んな人がいる。それぞれが考え方を持っていて行動している。頭では分かってはいたが、いざ目の当たりにすると言いようのない虚しさを感じるのだった。
また、座り込んで荷物を整理する男が現れた。
あかねは自分を奮い立たせ、声をかける。
「こちらでの座り込みは禁止されておりますの。お立ちいただけません?」
「すぐ終わるんで」
「少しの間でもご遠慮いただけませんこと? ここは通路ですので座って良い場所ではありませんの」
「チッ……うるせーよブス」
メガネの男は舌打ちをし、そのまま去ろうと歩き出した。
そして横にいた、少々場にそぐわないスーツ姿の大男にぶつかってふらついた。
その大男、身長が二メートル近くある。メガネ男にぶつかられても微動だにしていない。
大男はサングラスのせいで表情は見えない。直感で相手にならないと分かるほど、体格の差は明らかだった。
そしてスーツにサングラス。コミマ会場に不似合いな異様な雰囲気である。
「あ……すみません」
「……」
大男は一言も発さず、メガネ男の襟をそっと掴んだ。
「な、何するんですか」
「俺には謝るのに、この方には暴言か、お前」
「い、いえ、その」
メガネ男はあかねに向かって助けを求めるような目を向けた。
「あら。ブスに助けを求めるのですか」
「す、すみませんでし……」
あかねはとりあえず謝罪されたものとみなし、大男に向き合った。
長身のあかねでさえもなお見上げるような体勢。はたから見ると大型犬と熊のように見えた。
あかねが威嚇するように睨みつけると、まるで極道映画のワンシーンのような雰囲気になる。
緊張感が伝わったのか、周囲のざわめきが小さくなる。
誰もが遠巻きにあかねたち3人のことを見ていた。
「おやめなさい」
「……」
大男は答えない。
「もう一度言います。その手をお離しなさい」
大男はゆっくりとした動作で、メガネ男の服から手を離した。
メガネ男は怯えた表情のまま、後ずさりしてそのままどこかへ消えていった。
あかねは大男から目を離さず、メガネ男に一瞥もしない。
外周通路の真ん中でにらみ合う異様なふたりに、周囲の参加者はひと回り遠巻きに避けて通っていた。
あかねが、小さく口を開く。
(どうしてここにいるんですの、安威)
(もちろんお嬢様を守るためです)
お互いにだけ聞こえる声で、二人は言葉を交わした。
安威を見たあかねは、小さくため息をつく。
(お父様ね……過保護ですわね)
あかねはガレリア側の出入口シャッターを指さすと、少し声を張って毅然と言った。
「お引き取りくださいませ」
スーツの大男は一瞬面食らった表情を見せる。
「お引き取り、くださいませ」
語気を強めるあかねの言葉に、安威は大人しく従った。
二メートルの長身が、あっという間に雑踏に紛れていく。
その後ろ姿をじっと睨みつけ、遠くホールの出入口を通ったのを確認すると、あかねは大きく息を吐いた。
『いかなる時も優雅たれ』
自分に言い聞かせる。
あかねは自分がイライラしていることを自覚しているものの、一体何にイライラしているのかが分からなかった。
ここは休みが必要なのだと判断して、一度休憩しようと本部へ足を向ける。
なお、一部のSNSで『黒服の不審者を追っ払った女性スタッフ』が話題になるが、それは本人の知らぬ遠いところの出来事である。
「……その点に関しては三山より瑞光寺さんが正しい」
「そう言っていただけて安心しました」
本部にいた江口橋に顛末を伝えると、江口橋はきちんとあかねのことを褒めた。
聞きたかった言葉をはっきり伝えてくれる人なのだとあかねは思った。
「何人なら良いとか、混雑してないなら良いとか、曖昧な線引きを各個人でしていたら準備会としての基準がバラバラということになる。示しがつかないだろう」
「基本的に立っていただく、ということでよろしいでしょうか」
「まあ、概ねそうだな。座っていると、避難するときにワンテンポ遅れることは明らかだ。ただまあ……今回に限って言うなら、代替の提示はしておくべきだったかもしれん」
「どういうことですの?」
「ただ座り込みを否定するのではなく、壁際の立ち止まり程度なら構わないことや、ホールの外のベンチでならゆっくり座れることも伝えた方がいい」
「なるほど、こちらの『してほしいこと』を提示するんですのね」
「そういうことだ。否定だけされてしまうと、誰でもいい気分はしない」
「難しいですわね」
「人間相手だからな」
対等な立場の人間に、何かしらの「お願い」をする。
思えばあかねにとって、あまり経験のないことだった。
自分だけではどうにもならない部分だ。誰かの所作を参考にするのが確実だろう。
考え込むあかねを見て、江口橋は励ますように声をかけた。
実は江口橋の中でもあかねの評価が急上昇中なのだが、なかなか言い出す機会が無い。しっかり行動しているし、教えたことの理解が早い。初日とは思えない働きぶりに見えた。
もしかしたら張り切りすぎてオーバーワークかもしれない。新人にたまに見られるパターンだ。
「まあ、そう難しく考えるな。弁当が届いたから休憩するといい。水分もしっかり取れよ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますわ」
「昼飯食ったら休憩時間にして、少し違うところを回って見てもいい」
「はい。そうさせていただきますわ」
C96夏は、まだ始まったばかり。