第30話 1日目 反省時間
「ありがとうございました、江口橋さん」
「ああ。すぐ二列にしたのはいい判断だったな。パケットは任せても大丈夫か」
「ええ、できますわ。この間のオンリーでもできましたもの」
「それは頼もしいな。じゃあここは任せる。ロブロックからたまに見るから、列はいくらでも伸ばしていい。後ろは気にするな。先にこっちが落ち着いたらロブロックに来てくれてもいい」
「承知いたしました」
それからあかねは、パケットの業務に専念した。
『春日文化祭』では一列だったが、今日は二列。
だがそれほど難しくはなかった。
前の列の区切りを守ることが第一。
後ろの列の先頭を動かすときは制御できる人数で、対象を明確に伝えること。
先頭の二人ずつのパケットを、順に前に送る。
頒布は早くはないが、後ろの列はそれほど伸びず八人から十人程度。長さは隣のレブロックを少し超えたあたりでとどまっている。
業務の間に、あかねはさっきのことを振り返っていた。
開場から数秒で列ができてしまった。
これほど早いと思わなかったが、予兆はあったはず。自分の油断だ。
速やかに二列にできたのは、一般参加者の協力あってのことだ。あれがなかったらどうアナウンスするべきか考えて、ワンテンポ遅くなっていただろう。
しかし、その後が良くなかった。列を折る方向に迷ってしまった。
せっかくの一般参加者のサポートで生み出してくれた時間を浪費してしまった。
「それでは、先頭のお二人だけ、こちらにお進みくださいませ!」
あの場合どうすればよかっただろう。早めに列を切って……いや、そうなると切ったところを守るスタッフがいないから間違って並ばれてしまう。
切った部分の前の人に、言づける?
そもそもどこまで行ってターンすればいいか、分からない。
「経験が、足りませんわ……」
小さくつぶやく。
自分の経験不足を痛感していた。
やがて後ろの列が六人、四人と減っていく。
江口橋の姿が見えた。外周からこちらへ様子を見に来たのだろう。
「瑞光寺さん」
「江口橋さん、お疲れ様です」
「ああ。お疲れ様。順調そうだが、後ろの列をくっつけるのはギリギリまで待った方がいい。売り子が一人だと、一万円が出てきたらすぐ列が伸びることもあるからな」
「承知いたしました」
あかねがうなずくのを確認すると、江口橋は再び外周へと消えていった。相変わらず人が多い。
残りふたりになったとき、前の列が進まなくなった。
サークルの方を見ると、『スパークリング緑茶』の売り子がお釣りのお札を数えている。なるほど、一万円での買い物とはこういうことか。
確かに新刊一冊五百円で五百円玉を渡した場合、やり取りはほんの数秒で終わるが、一万円を出されてしまうとたっぷり一分はかかる。
続いても一万円が出されていた。
お釣りは足りているようだが、計算の桁も増えるし大変だろう。
対応する時間が何倍もかかってしまっている。油断できない。
気が付けばまた後ろの列に十人ほどが並んでいた。
江口橋が言っていたことはこういうことだったのかと納得した。
「頒布物の価格をアナウンスすれば良かったかしら」
スムーズな頒布のために、スタッフとしてもやれることがあったのではないか。
あかねにとって、反省することが多い時間となった。
やがて列も解消し、ル15b『スパークリング緑茶』のスペースには二、三人の人がいるだけになった。
ロブロックに向かってもよかったが、あかねはもう少しここで様子を見ておいた方がいいと判断した。
「お疲れ様、瑞光寺さん」
「江口橋さん、お疲れ様です」
江口橋も周辺の様子を見て安心したようだ。
人の流れはまだまだあるが、どこかで列ができて詰まっている様子はない。
「だいぶ落ち着いたな。ここは離れても大丈夫だろう」
「そう、ですか」
江口橋の言う通り『スパークリング緑茶』に列ができる気配はなくなっていた。
サークルも、知り合いらしき参加者と談笑している。
「あー、瑞光寺さん。落ち込んでいるところ申し訳ないが、もうひと仕事あるんだ」
「ひと仕事、ですか」
「そうだ。向かいのサークルに謝らないとな」
その言葉に、あかねはお腹のあたりが重くなるのを感じた。
確かに迷惑をかけてしまった相手だ。謝らないわけにはいかない。
あかねは覚悟を決めると、顔を上げた。
「お疲れ様です」
江口橋はル16の机の前に立つと、少し大きめの声であいさつをした。
aとb両方のサークルが、一体どうしたのかと江口橋を見る。
「副ブロック長の江口橋と申します。朝一に向かいの列が伸びてしまって、こちらのスペースの前をふさぐ形になってしまいました。こちらの対応が遅れてしまい申し訳ありませんでした」
江口橋が頭を下げる。
あかねも倣って頭を下げた。
自分が謝るものだと思っていたので、ワンテンポ遅れてしまった。
サークルはつられるようにして、ぎこちなく頭を下げている。
「混雑しましたが、机や頒布物は大丈夫でしたか」
「ええ、特に問題はなかったです。お気になさらないでください」
ル16aの眼鏡をかけた女性サークルが、手を横に振りながらフォローする。
それを見た隣のル16bの男性も、同じように手を振った。
「こちらも特に。大変でしたね、スタッフお疲れ様です……ああ、こちら良かったら」
あかねにそっと差し出されたふたつの飴玉。
男性はまっすぐあかねのことを見ていた。
責めるような雰囲気は一切なく、むしろ労わってくれていのが伝わってきた。
あかねは目の奥が熱くなるのを感じた。
本当にこの場所は、感情が振り回されてしまう。
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします」
あかねは飴玉を受け取ると、改めて頭を下げた。
二人は外周を回って本部へと向かう。
「お優しいサークルさんで良かったですわ」
「そうだな。だからといって甘えていいわけでもない」
江口橋の言う通りだ。大クレームになってもおかしくはない状態だった。
お昼を前に人混みは少し落ち着きを見せ始めていた。
二人で並んで歩くのに支障はない。
「瑞光寺さん、サークルさんは決して安くない参加費を払ってここにいる。決められた時間に頒布できるという約束があるから、ルールを守ってくれるし、こちらのお願いも聞いてくれる」
「はい」
「頒布時間はサークルさんとの約束だ。その時間を奪ってしまったことは覚えておけ。もしかしたら出会いを奪ってしまった可能性があるからな」
「肝に銘じます……」
サークルの頒布時間を制限することは、前回の一般入場でもあった。安全のため、一般入場が終わるまで中央通路に面したサークルの頒布をやめてもらっていたのだ。
ただその時は事前に菊田が頭を下げ、サークルの理解を求めていた。
今回は予告なしに起こってしまった出来事であり、少し性質が違う。
「江口橋さん厳しすぎー。もっと褒めて伸ばさないと」
桐宮の明るい声が、後ろから聞こえてきた。
混雑対応が楽しかったのか、満足げな表情をしている。
「ブロック長と副ブロック長がお願いしたことなんだから、最終的な責任はこっちが取らないと!」
「そうだな」
「だから瑞光寺さんは気にしなくていいよ」
「いえ、わたくしも実力不足を痛感いたしました。これからしっかり精進いたしますわ」
「前向き! まぶしい!」
明るい笑い声を残して、桐宮はまたふらふらと外周へと去って行った。
前向き。そうだ。前向きであるべきだ。後ろ向きで悲痛なスタッフの姿など、参加者には不安しか与えられない。この場所は、もっと楽しい明るい場所なのだ。
「良い方ですわね」
「ああ、そうだな」
「江口橋さんも、いろいろと教えていただいて感謝いたします」
江口橋は少し意外そうにあかねを見たが、小さく口元を緩めた。
あかねの言葉は力強く、失敗に心を捕らわれるのではなく、自分の糧にしていることが伝わってくる。
「まだ1日目の午前中だ。今日はもうそんなに混まないだろうが、明日からもどんどん任せていくからな」
「望むところですわ」




