第29話 1日目 油断からの失敗
「おはようございます。今日はおひとりですか」
「ええ、売り子が風邪引いちゃって」
「そうですか。大変だと思いますが頑張ってください」
「ありがとうございます。ちょっとご迷惑をおかけするかもしれないですが」
「いえ、お気になさらず。良い一日にしてください」
江口橋がサークルとそんな話をしている。ル15b『スパークリング緑茶』の売り子は女性が一人。段ボールの数はそこそこあるので、列ができて頒布が始まっても進みが遅いかもしれない。
もしここに列ができると対応が難しいかもしれない。
ホールを真横に突っ切る通路に面したお誕生日席ではあるが、外周に面した通路に比べると狭い。
すぐに列を折らなければならないだろう。
「どうしておひとりか確認したんですの」
「ここは列ができる。もうここを狙っている人が遠巻きにこちらを見ているからな。売り子が一人と二人では列の進み方に大きな違いがあるんだ」
「そういうことですのね。おひとりということは少々時間がかかりそうですわね」
確かに数メートル先に、こちらの様子をうかがっている人が何人か見える。
今日の本は三種類。買う方も選ぶ時間ができてしまうし、計算も複雑になる。
神妙な顔をする江口橋だったが、後ろでブロック長の桐宮の笑い声がした。
「いやあ、大変だなあ」
「どうして笑っているのですか」
「楽しくなってきたからね。瑞光寺さんも胸躍らないか」
「わたくしは、ずっと楽しいですわ」
「あはは。それは何よりだ」
「桐宮もそうだが、スタッフは混雑すればするほど元気になる人種もいるんだ。まああまり気にしないでくれ」
ニコニコしている桐宮は、うんうんうなずいている。江口橋の言う通り、そういう人種のようだ。
和やかに話していた桐宮だったが、スッと表情が消えた。
「ところで『スパークリング緑茶』さんの部数は」
「新刊が500部、あと既刊は二種で200ずつあるかないか程度らしい」
「三種かあ、ちょっと時間かかりそう。せめて売り子さんがもう一人いれば」
「そうだな。無い物ねだりしても仕方ないが」
あかねにはいきなり桐宮の雰囲気が変わったように見えた。
列の延ばす方向を考えているようだが、混雑しそうなロブロックのことを気にしているのかチラチラと外周側を見ている。
「瑞光寺さんは貸し出し業務はなかったな。これも縁だ。ル15の『スパークリング緑茶』さんの列の面倒を見ろ。初動はできるか?」
「知識としては知っていますが、やったことはないです」
正直にそう伝えると、江口橋は少し考える。
「……桐宮と一緒に当たってくれ。幸い入場の導線からも外れているから、失敗してもまあ何とかなる」
「江口橋さんは?」
「開場直後はロブロックが危なそうなんでな……」
他のブロック員も全員出払うらしい。開場直後は総力戦だ。
「じゃあ、瑞光寺さん。よろしく」
「桐宮さんよろしくお願いします」
「迷う配置だねえ……中央通路に伸ばすべきか、ロブロック側に伸ばすべきか」
「中央を切るわけにいかないですしね」
ここルブロックは混雑するロブロックに近く、また反対側のリブロックもたくさんの種類のキーホルダーを展示しているサークルがある。人だかりができることが予想された。ラブロックも列ができそうなのか、ラリブロック担当のスタッフが少し緊張した面持ちで三人ほど集まっている。
「あっ、頒布物の値段見ておくの忘れてた」
「新刊五百円と既刊二種類は両方三百円でしたわ」
「なるほど。見たの?」
「ネットの事前告知を確認いたしましたの」
「おー、優秀だなあ」
「新刊だけなら流れはそこそこかもしれないけど、三種か……頒布の速さに期待するしかないのが歯がゆいなあ」
「楽しそうですのね」
「つい笑っちゃうよね。こういうの。スタッフはシュラバスキーが多いから」
初めて聞く言葉だったが、何となく意味は分かった。
ただ、気楽に構えている桐宮を見ると、どこか安心感があった。
あかねの表情に不安が混じったのを感じ取ったのか、桐宮は「スタッフはどんと構えておくことだよ」と笑った。
「桐宮! ロの40aで人が集まっている。シブロックも手が回ってないから内壁も含めてそのあたりを頼む!」
「おっとそれは大変。外周の流れが悪くなると危険だからなあ。瑞光寺さん、ここ頼むね」
「えっ」
あかねの声と、開場のアナウンスが重なった。
「さあ、来るぞ」
桐宮はあかねの返事を待たず、外周へと姿を消す。
その、ほんの数秒の遅れが、致命的だった。
気が付いた時にはもう遅かった。
開場を知らせるチャイムの一音目から一気に人が動き始め、ル15b『スパークリング緑茶』の列はあっという間に伸びて向かいのサークルにまで達していた。
スパークリング緑茶の売り子も、焦ったようにこちらを見ながら頒布を開始する。
(しまった。出遅れましたわ)
向かいのサークルにぶつかった列は伸びる先を失い、人ごみになりつつある。
落ち着け。まずは自分が落ち着け。
この間の『春日文化祭』を思い出す。まず圧縮からやってみるべきだ。
いや、後ろがあふれてしまっている今、圧縮でどうにかなるものではない。
列の状態を整える。それは先頭から対応しないといけない。
サークルスペースに目を向けたあかねは『スパークリング緑茶』に一列で並ぶ人たちを見た。
先頭はもちろん一人。机のスペースの左右に少し余裕がある。
そうだ、二列にすれば、列の長さは半分になる。
「列を二列にいたしますが、よろしいですか」
「おっ、お願いします」
「了解ですわ」
そのやり取りを聞いていた列の二番目の男性が、スッと横にずれた。
あかねは何も言わずに伝わったことに驚くとともに、素直に感謝を伝える。
「まあ、素晴らしいですわ。ありがとうございます」
先頭になった男性はチラリとあかねの方を見ると、口元だけで笑った。
この男性のサポートを無駄にしないためにも、やるべきことをやらなければ。
あかねは改めて顔を上げると、列に向かって声を上げる。
「こちら、ル15b『スパークリング緑茶』さんにお並びの方は、二列でお願いいたします」
あかねの声を聞いた列の人たちは、心得たと言わんばかりに二列になる。
前から順番に二列になり、後ろの人だかりも解消してくる。
しかし、まだ向かいのサークルを圧迫していた。
通路をほぼ埋めてしまっているため通り抜けもできず、横切ろうとする参加者が列を割ってしまい並んでいる人が顔をしかめている。
圧縮……いや、列を折らなくてはいけない。
でも、どっちに。
背後のロブロックも、前のリブロックも小さな列や人混みが見えている。
視線を感じる。
列に並んでいる人の視線。
皆が混雑を認識しながら列に並び、あかねの指示を待っている。
どちらに、列を折る?
「瑞光寺さん、大丈夫か?」
江口橋の落ち着いた声が、背中で聞こえた。
同時にあかねの視界がぱっと開けた感じがした。
「大丈夫ではありませんでした。力及ばず申し訳ございません」
「いい返事だ。列を折らないといけないな」
さっと列を眺めた江口橋は、さっそく並んでいる人に向かってアナウンスを始めた。
その様子を見ているあかねの後ろから、また声がした。
「うわー、こっちの方が混んだかー。読みが外れたな、ごめん」
「桐宮さん、面目ないです」
「いやー、こっちの指示ミスだから! あ、江口橋さんがいるならいいか……すみません、江口橋さん。やっぱシブロックの内壁、手が回ってないんで対応してきます」
「わかった。ここが落ち着いたら俺もロの方に回る」
「ごめん、たぶん列の途中札がいると思うけど、手持ちに無いからしばらく札無しで頑張って」
桐宮はあかねに向かって手を合わせて謝るようなポーズをすると、そのまま外周へと急ぎ足で去って行った。
ロブロックの密度は目に見えて高く、あちこちで列ができているようだった。
一方、『スパークリング緑茶』の列へのアナウンスを終えた江口橋は、列を折る体制に入る。
「瑞光寺さん、ここから列を切るからこの切った前を守ってくれ」
返事を待たず、江口橋は列の横で手を上げた。
「すみません! 通路を埋めてしまったので、ここから後ろの方少し移動します! 手を上げて、前の人に続いてゆっくり付いてきてください……では、ここで一旦切ります。前を歩きますのでそのままついてきてください。瑞光寺さんは、ここに並ぼうとする人がいたら誘導を」
「承知いたしました」
江口橋は満足そうにうなずくと、さっと右手を列に入れて列を切った。
後ろに並ぶ人がうなずいたのを確認すると、列を切った手をそのまま上にあげ、後ろに並ぶ人にも声をかける。
「では動きます。手を上げてついてきてください!」
あかねがその様子を見逃すまいと、目を見開いて見ていた。もちろん切られた前の列に人が並ばないように守りながら。
直角に引き出された列は、二列を保ったままで蛇のようにゆっくり動き始めた。
もう江口橋の姿は見えないが、後ろに続いていく手を上げた人たちの流れが、まるで蛇のようにずるずるとロブロック方面へと動き出した。
列の先頭が外周通路の手前あたりまで達すると、Uターンしてこちらへ戻ってくる。
あっという間にL字に折れた二列が完成した。




