幕間 すみれのお話
最近の瑞光寺すみれには、常に頭の片隅で引っかかっていることがあった。
姉のあかねが息抜きに読むよう勧めていった一冊の小説。
その本「絶空の先へ」の端々に、見覚え、この場合は読み覚えと言うべきかそういった感覚があった。
題材は、昔のアニメ『重なる夏の物語』の二次創作らしい。
そのタイトルに覚えがあるような気がするが、何しろ十年前の作品である。自分が小学校に上がる前に見ていたアニメのことは、それほど覚えていない。
うっすらとキャラクターは覚えているような気がするが、すみれの感じているものはそういうものではない。
文体、とでも表されるのだろうか。
以前に読んだことがあるのではないか、と何度も首をかしげていた。
もちろん自分の本棚にある本を片っ端から読み返したし、姉のあかねの書庫にもお邪魔して一通り確認した。学校の図書館でも、借りた覚えのあるような本を一通り確認したが見つからない。
でも。
すみれは、読めば読むほど確信する。
私は、この本を書いた人の作品を読んだことがある。
それも、何度も。
勉強する手も止まりがちになり、そのたびに「絶空の先へ」を手に取る。
夏の暑さや風の音、空気の匂いすら感じる文章。
するすると進むストーリーと、生き生きとした登場人物。
すみれは小説を読むのが嫌いではなかったが、この本をきっかけにして本好きになってもおかしくはないなと思っていた。
「姉さま」
「あら、すみれ。今日も書庫かしら」
姉の自室に訪れたすみれが見たものは、珍しく勉強している姉の姿だった。
さすがに大学生ともなると、家でもしっかり勉強しなければならないらしい。
調子に乗って授業を多く履修しすぎて課題が大変だとぼやいていた。
「それはそうなんだけど、それよりも姉さまのお勧めの本がないかと思って」
「そう。どういった本が好みかしら」
「この間の『絶空の先へ』はとても面白かったから、同じ作者の人の本が読みたい」
「それは良かったわ。高村さんも喜ぶでしょう。でも、その一冊だけなの」
「えっ」
「初めての参加だとおっしゃっていたわ」
「姉さまは、書いた方を知っているの?」
少し興奮しているすみれのことを、あかねは意外そうに見た。
それほど気に入ったのだろうか。
好きなものが増えるということは良いことだ。
自分の紹介したものを気に入ってもらえて、あかねは素直に嬉しかった。
「もちろん、その方から直接買ったもの」
「ええっ」
思わず声を上げるすみれに、むしろあかねの方が驚いた。
「どうしましたの、すみれ。声が大きくてよ」
「ご、ごめんなさい姉さま……あの、直接ってどういう」
「コミマではそれが普通よ。その作品を作った人が、売りに来ますの」
「こ、こんな凄い方でも?」
「どんな方でも、大体そうね。もちろん都合が悪くて売り子さんにお任せしたりする方もいらっしゃるでしょうけど」
「へえ……」
すみれにはあまり想像ができない世界だった。
サイン会などで作者が公の場に現れることがあるが、集団でそれを行っているようなものだろうか。
姉はあまり自分の行くイベントについて語ったりはしなかった。
「姉さま、高校に合格したら私も行ってみてもいいかな」
「もちろん。わたくしがすみれの年齢の頃には、もう通っていましたもの」
「そういえばそうだったね」
すみれはその頃のことを思い出していた。
当時中学三年生の姉はあまり家で勉強している様子はなく、休日は何かイベントに行っていた。
成績上位をキープしているらしいということは聞いていたが、いつ勉強しているのか不思議でならなかった。
すみれは習い事は多かったが、勉強についてはそこまでうるさく言われた覚えはない。
両親ともに多忙であまり家には寄り付いていなかったが、姉は優しく勉強を教えてくれるし、またそれが分かりやすかった。
たまにゲームに誘われたが、すみれはそれほどゲームが得意ではなく、そこまで楽しくはなかった。
姉もそれを察したのか、いつしかゲームには誘われなくなった。
代わりにお勧めの漫画や小説が積まれたが、残念ながらすべてを消化する余裕はなかった。
小学校高学年ともなれば勉強が本格化してくるし、習い事もおろそかにできない。
ただすべては読めないまでも、姉から勧められた本は確かに面白く、お陰で読書が習慣付いた。それに活字を追うスピードは、同世代の中でもかなり速いのではないかと自負している。
国語の現代文読解の回答スピードはクラスで一番だ。
その頃から自分でもお気に入りの本を探し、お小遣いで買うこともあった。
書庫を作った姉ほどではないが、大切な本が何冊も……
「あ」
そこまで思い出して、すみれは固まった。
何かが繋がったような感触。まるで推理小説の謎解きのような高揚感。
「すみれ?」
「姉さま、私、思い出したかも……」
「思い出した?」
「本のこと!」
よく分からない言葉を残して、自分の部屋に走って行ったすみれ。
遠ざかるその足音を聞きながら、あかねは小さく笑った。
「よく分からないけれど良かったわね、すみれ」
すみれの部屋に、小さな本棚があった。
小さいといってもすみれの身長程度の高さがある。
ただ姉の書庫の規模と比べると、この程度は小さな本棚に見える。
その小さな本棚に対峙して、どこに仕舞ったかを思い出そうとする。
「ここじゃないかも」
すみれは小さくつぶやいた。
この本棚にある本は定期的に読み返している。その中にはないような気がする。
あれは小学校の頃。
だからここにはない。
「押し入れだ……」
思い当たったすみれの行動は早かった。
今まで勉強が手に付かないとぐずぐずしていた自分が嘘のようだった。
「あった……」
押し入れの段ボール箱の中で眠っていた本を引っ張り出す。数冊の本の中から、思い入れのある表紙をすぐに見つけた。
さっそくページを開くと「絶空の先へ」と同じ文体……いや、少し違っているが、それは普通の小説と同人誌との違いということなんだろう。
読み進めていくごとに、確信が強くなってくる。
ああ、そうだ。私はこの雰囲気を読んでいた。
姉さまに、この本と作者が同じだと伝えたら驚くだろうか。
明日、教えてあげよう。そして、この本を貸してあげよう。
本のページをめくるごとに、五年生の頃を思い出す。
そして、同時に自分がやりたかったことを思い出した。
「そうだ、姉さまを助けたかったんだ」
姉が珍しく病気で熱を出していた。
原因が分からないまま一週間もうなされていた。
大好きな姉が苦しむ姿を見て、治してあげたいと強く願ったのだった。
そしていつか、病気に苦しむ人を治す医者になろうと決めた。
当時は医学部に入ることの大変さを少しも知らなかったけど……
「五年生の私に、胸を張れるようにしないと」
ぱたんと本を閉じると、すみれはそれを机の端に置く。
小さく気合を入れ、静かに問題集と向き合うのだった。




