第2話 1日目 出会い
初日からひとりで見本誌回収を任されるあかね。
これがスタッフというものかと感心する。
「特に問題は無いですわね。これで受付は完了です」
「何か困ったことがありましたら、巡回しているスタッフに声かけてくださいませ」
「では今日一日、よろしくお願いいたしますわ」
どんどん重くなる見本誌のカバン。いつもの一般参加していた頃を思い出す。
時間が経つほどにカバンの中の本が増えていき、どんどん重くなってゆく。そうして自身の幸せが増えていくことを実感していたのだった。
そしてスタッフからすれば、順調に受付が進んでいる証拠だった。
受け付けるサークルの表情が緊張気味に見えたが、新人スタッフに対応されることに不安があるのかもしれない。早く経験を積まなければと思うあかねだった。
「次はUの60……これで最後」
Uブロックの見本誌回収も、最後のスペースまでたどり着いた。
U60aのサークルはどうやらまだ来場していないらしい。しかし椅子の上に置かれたチラシは整えて重ねられている。
あかねが首をかしげていると、隣のサークルから声を掛けられた。
「ああ、ちょっと散らかっていたので。余計なことでしたか?」
「いえ。とても助かりますわ」
「良かった」
「ああ、それでは改めて受付をいたしますわね。おはようございます。こちらの担当になっております、瑞光寺です。参加登録カードと、見本誌の回収に参りました」
綺麗な人。
サークルの人を見たあかねの感想はそれだった。
すらっとした鼻筋と、口元のほくろが印象的だ。
背中までのまっすぐな黒髪と、それに合わせたかのような真っ黒のシャツとレッグパンツ。机の敷物まで黒で統一している。黒にこだわりがあるのだろうか。
その黒いサークルスペースの中で、黄色い表紙の文庫本が輝いて見えた。
このサークル『玉の宿』は小説サークルのようだ。今回新刊はただ一冊だけらしい。
同人誌がパンパンに詰まった見本誌バッグを担ぎ直す。なんとか表情に出さないが、やはりとても重い。
「では中身を確認いたしますわね」
と断って、パラパラとページをめくる。
あかねも知るキャラクターの名前がちらりと目に入った。ああ、これは『重なる夏の物語』だ。あかねが小学生の頃見ていたアニメ。当時かなりの人気で、背景のモデルになった街には未だにそれ目当ての旅行者がいるとも聞く。しかし、さすがに放映から十年も経つと二次創作しているサークルも数えるほどしかない。
確か今日の配置でも、この『玉の宿』とまだ来ていない隣のサークルだけだったはずだ。
あかねはキャラクターの名前を見ただけで、昔の気持ちを思い出して懐かしくなった。
……気を取り直して中身のチェック。
通常は文章を読むわけではない。小説本の文章を読んでいたらとてもチェックは終わらない。表紙絵と、挿絵、奥付と見本誌シールのみチェックする。通常は。
この本に挿絵はなく、表紙もイラストではない。
もう一度、挿絵が無いかページをめくる。文章自体をチェックしなくても良いのだが、しかしどういうわけか、ふと一節が目に留まった。
「……えっ」
文章読もうと思っていたわけではない。
ただ、めくるページの中で、目がその一節をとらえたに過ぎなかった。なのに……
「まあ……」
その一文は、あかねの目の前に森を作り出し、濃い緑の匂いを生み出した。
いるはずのない鳥の鳴き声と、感じるはずのない湿気。
これは間違いなく、アニメ内でキャラクター達が過ごした山間の町の空気そのもの。
幼少のあかねがテレビの向こう側に見た景色そのものだった。
本を持つ手にじんわりと汗がにじむのを感じて、思わず顔を上げた。
その先には、机を挟んでじっとあかねを見るサークルの女性の姿があった。やはり綺麗な人だ。年のころは四十ぐらいだろうか。急に顔を上げたあかねのことを、不思議そうな表情で見ている。
「……あの、何か?」
「素晴らしい文章ですわ」
「あら、ありがとうございます」
あかねのまっすぐな言葉に、女性は艶のある笑みを浮かべる。
あかねはもう一度手に持った本を見る。
黄一色の表紙に明朝体で「絶空の先へ」とタイトルだけが黒抜きされている。
ストイック、とでもいうのだろうか。
今日これまで見てきた色彩豊かな本とは明らかに違っていた。
あかねは気を取り直して最終ページまでチェックを終える。やはり挿絵はない。
「ああ、シールに書く『発行日』は奥付と同じで、今日の日付をご記入くださいませ」
「あら、書き忘れていたのね。ごめんなさい」
「いえ」
努めて冷静にやりとりをしているが、あかねの胸はまだ高鳴っていた。
手の平に感じる汗の感覚が、まだ残っている。
ストーリーの詳細はうろ覚えだが、初めて『重なる夏の物語』を視聴した時のことを思い出していた。
「コミマ、初めてだから勝手が分からなくて」
「あら、意外ですわね」
「うふふ、そうなの。この年になって、新しい場所に飛び込んでみたくって」
「尊敬いたしますわ。初めての本がこのように素晴らしいなんて」
「本は初めてってわけじゃないのだけどね。うふふ」
意味を図りかねたあかねは曖昧にうなずいて見せると、受付完了のチェックを入れた。
これで、今来ているサークルの受付は完了……まだ遅刻サークルが残っているとはいえ、ひとまずの達成感があった。
このブロックのサークルが、胸を張って頒布を開始できる状況になったのだ。
「わたくしも『かさなつ』が大好きで、何度も何度も録画を見ていました」
「あら、若いのに意外ね。スタッフさんが同志だなんて、初参加で心強いわ」
「わたくしも初参加ですので、同輩になりますわね」
あかねは謙遜して見せたが、すぐに思い直した。
サークルにとっては、新米だろうとベテランだろうと、等しくスタッフなのだ。
改めて姿勢を正すと、あかねは机の本に目をやった。
「あとで必ず買いに参りますわ」
「あら、今でも良いですけど」
「さすがにそういうわけにはまいりませんの……」
「そうね。お仕事中ですものね」
「改めて、これで受付は完了でございます。また何かあったらお声がけくださいませ」
「ええ、よろしくお願いします」
終わった。
『U』ブロックの約半数。約60サークルの受付を完了出来た。
まだ来ていないサークルもいるようだが、ひとまずあかねの仕事はひと段落したと言えそうだ。
別行動だった江口橋が青い紙を持って歩いてきた。
額に汗を浮かべながらも長袖シャツを羽織っている姿は少し面白い。
「重そうだな。大丈夫か」
「持っていただけると、とても嬉しいですのですが」
「残りは?」
「今来られているところは、全部終わりました」
「じゃあ自分で置いてきてくれ」
思いがけない言葉に、あかねは内心驚いた。
「あら、それは手厳しいですわね」
「俺はこれから青紙発行なんだ」
青紙発行……つまり遅刻者対応ということだ。どうやらブロック長か副ブロック長の役割らしい。
江口橋はこれからまた『U』『V』ブロックを一巡し、まだ来ている様子が無ければ青紙を発行して遅刻扱いとして、もし入場していれば、受付が終わっていないということなので本部受付を案内する。
「本部にいる誰かにブロック名を伝えてカバンごと渡してくればいい」
「ええ、承知いたしましたわ」
ちらりと肩から下げた見本誌カバンを見る。
大きさも厚さも様々な本。今日の『U』ブロックのサークルの見本誌たち。
「ふう」
肩に食い込む重さは大変だが、この重みがすべて同人誌だと思うと胸が高鳴る。
この中の一冊一冊が、誰かを幸せにする力を持っている。