第1話 1日目 江口橋さん
第96回目のコミマ、通称夏コミ、あるいはC96夏。その1日目の朝。
整然と並んだ机の隙間に昨日の熱気と湿気が残る、早朝の東2ホール。アルファベットのMからZまでのブロックと外周のAブロックが、この東2ホールに配置されている。
東2ホール全体の朝礼を終えたスタッフは、ブロックごとの簡単な打ち合わせに分かれていた。
ひときわ目を引く艶やかな黒髪の高身長の女性、瑞光寺あかね。小さな顔には少し幼さが残るが、吊り上がった目と角度のきつい眉はあかねの第一印象を損ねていた。
『いかなる時も優雅たれ』
厳格な祖母の教えを実直に守り通した結果、彼女が纏う空気は常に緊張感を持っているように感じられる。
瑞光寺あかねの担当は、東2ホールの中央通路に面したUVブロックとなる。中央通路はTブロックとUブロックの間。ここを朝の一般入場が通り抜ける予定であり、朝一番の負荷がとても高いらしい。
そんなことを説明している無精ひげの目立つ男がここの副ブロック長であり、あかねの教育担当となるらしい。ブロック長はいないのかと疑問に思ったが、今日はどうしても仕事を休めず欠席となったらしい。社会人は大変だ。
それにしてもこの副ブロック長、夏の湿った空気の中でくたびれた薄手の長袖を羽織っているが、暑くはないのだろうか。
「UVブロック副ブロック長の江口橋だ」
「新人の瑞光寺と申します」
「基本新人はベテランと組んでもらうんだが、今回うちのブロックは少なくてな。悪いが俺と組んでもらうことになった」
「お世話になります」
江口橋も緊張しているのか、表情が硬い。
あかねはコミマに買いに来るだけの一般参加としてもう4年になるが、コミマスタッフというものはもっと明るく楽しく人懐っこい人なのだと想像していた。それとも、あれは一般参加者向けのサービスで、スタッフ同士ではこんなものなのだろうか。
あかねは少し安心していた。
実は愛想というものがよく分かっていない。笑顔を作るのが非常に下手であるとの家族からの評価。
無理に笑う必要が無いのであれば、そうさせてもらおう。
「江口橋さんは、何回目の参加でいらっしゃいますの?」
「35……いや36回目か」
「それは、凄いですわね。私が生まれた頃からだなんて」
「そういうのはベテラン勢に効くからやめてくれ」
思わぬところで江口橋にダメージを与えてしまったらしい。
しかし目に見えて表情が崩れた。大げさに額に手をやるそのしぐさを見て、思ったより気さくなのかもしれないとあかねは思うのだった。
※
江口橋誠司から見た瑞光寺あかねは、一言で表すと「やりにくい相手」となる。
思えばこれまでの36回のスタッフ参加で、新人の女性スタッフに何かを教える機会などなかった。18年もスタッフを続けて、である。
元々普段から女性と、さらに若者とも接する機会のない江口橋。
この若い女性スタッフは顔も良く背が高い。スタイルもいい。今まで相対したことのない人種であり、どう振舞えばいいのか全く分からないでいた。
「とりあえず、朝ご飯食べて、またここ……本部に集合で頼む」
「承知いたしましたわ」
接し方はともかくとしてまずは腹ごしらえである。
コミマで十分に活動するにあたり、カロリーの摂取は命題と言って良かった。
江口橋はそれが何十回目のスタッフ参加であっても、コミマの朝ご飯を抜くようなことは絶対にしない。
朝はいつもサンドイッチと小さめのエネルギー飲料。夏コミの場合はそれにスポーツドリンクを一本加える。
支給されたお弁当で手早く朝ご飯を済ませ、改めて本部で瑞光寺と合流する。
時間は7時を少し過ぎた頃。
ぽつぽつと今日のサークル参加者が入場し始めている。
遅れてやってきた瑞光寺を見る。
恐らく安物ではないワンピースと、キラキラと輝くストラップシューズ。スタッフ証と腕章と帽子がなければスタッフとは思えない格好だ。
ただしコミマにいないかというとそうでもなく、気合の入った女性サークルでは時々見かける。
「瑞光寺さん」
「どうかされまして。朝食は済ませましたわ」
「ああ、それはいいことだ。ところでその話し方は、素でそうなのか?」
「どういう意味でしょう」
「その、お嬢様言葉というか」
「ええ。これは普段からこの話し方ですわ」
「そうか……」
江口橋は眉間にしわを寄せた。
まさか、だ。
もちろん江口橋もオタクの端くれである。このような口調のキャラクターはこれまで何度も見てきたし、アニメやゲームのセリフとして話している声を聞いたことはいくらでもある。
しかし瑞光寺は次元が違う。一対一で向き合って話す相手がこんな口調だったことはこれまでに経験がなかった。
「それが、何か」
「優雅で上品だな」
「ありがとうございます」
言葉とは裏腹に表所が硬いままの瑞光寺を見て、江口橋は少し困惑した。
小さい笑みすらない。警戒、あるいは緊張しているのとも少し違う。
「厳しく躾けられましたの」
「そうか……いや。悪かったな」
「謝られることではございませんわ」
言葉の通り、瑞光寺は全く気にした様子はなかった。相変わらず表情は変わらない。
江口橋は改めて自戒すると、瑞光寺がこう言っている以上さらに言葉を重ねる必要はないと考えた。
それにしても自分の女性との会話の経験値が低すぎる。
ブロック長の君堂は女性なのだから、彼女が面倒を見ればよかったのだが……彼女自身の多忙さとブロック長の業務量を知っている身からするとそうも言えなかった。
今回のブロック員に適切な人材はおらず、やはり自分が面倒を見るしかない。
「サークル対応もそれでいくのか」
「ぎこちなく話すスタッフよりは、優雅で上品なスタッフの方がよろしいのではなくて?」
「それもそうか」
この話し方をされて「失礼だ」と思われることは少ないだろう。
逆にコミケだからこそのお祭り感があるかもしれない。
そこまで考えたところで、ようやく瑞光寺のことを「面白そうな人材だ」と思えるようになってきた。
とにかく礼儀正しい。その土台があるだけで新人スタッフの失敗事例へのリスクがかなり減る。
「瑞光寺さんは人気者になれるかもな」
「ええ、なりますわ。コミマのためにも」
唇の端を吊り上げる瑞光寺に、江口橋は一瞬たじろいだ。
一瞬『特撮番組の女幹部』という評が頭をよぎる。
大きな目も愛嬌というよりは圧力を感じる方が強い。
その奥にあるのは恐らく強い自信……
スタッフに必要な素養のうち『礼儀』と『自信』を備えているようだ、と江口橋は思うのだった。
※
ページをめくる手を止めた瑞光寺あかねは、小さく首をかしげた。
「このちんち」
「声に出さなくてもいい」
むしろ出してはいけなかったか。
数多くの机がまっすぐに並び、商店街のようにも見えるいわゆる島中。
中央通路に面した『U』ブロックで、あかねは江口橋とペアを組んで見本誌チェックをしていた。
しかしこの見本誌チェック、責任が重い。
ここコミマにおいてスタッフの見本誌チェックはサークルにとっての最後の関門であり、一歩間違えれば今日という日がすべて……それどころか、これまでの苦労が台無しになる危険性すらある。
しかしスタッフ側が甘くスルーしてしまうと、サークル側が罪に問われる可能性がある。お互いのために手を抜けない。
この日のジャンルは少し前のアニメの同人誌を作るサークルが配置されている。
その中には少なからず成年向けの本も混じっている。
「では改めて……このコマは、いかがかしら?」
「……大丈夫だ」
このジャンルでチェックしていて初めて、自分で判断できないコマが現れた。あかねは幾分小声になって、判断を仰ぐ。
江口橋は示されたコマを見てから、さりげなく印刷所を確認する。
「モザイクが少々細かいですわ」
「このぐらいなら許容範囲だな。カラーだと微妙だが、このページはモノクロだからな」
「そうですか。お待たせいたしました。問題はありませんでしたので、こちらで受付完了となりますわ」
続きのページをチェックし、若干不安そうにする男性の描き手に笑いかけた。
サークルの男性は一瞬目を見開いた後、ぎこちなくうなずいた。あかねからすると軽く笑いかけたように振舞ったつもりだが、サークル側から見ると一瞬首を狩られそうな笑みに見えた。
あかねが首から下げたスタッフ証には、新人を表す緑の葉っぱのシールが貼られている。
なるほど、新人スタッフのレクチャーのようなものだったのか。そしてこのぎこちない笑みは緊張か不慣れかとサークルの男性も納得する。二人は受付の内容をもう一度確認してからサークルに頭を下げた。
隣のサークルも同じように見本誌チェックと受付を完了し、その隣はまだ来ておらず、その隣は荷物を取りに行っているのか、人の姿はない。
さらにその隣で見本誌チェックと受付を行った。
江口橋がちらりと時計を見る。
「時間が迫って来たな……ここから単独で頼む」
「ええ、分かりましたわ」
江口橋の言葉にあかねは強くうなずいた。スタッフ初日で、いきなり単独でサークル受付を任されるらしい。つまり、登録カードを確認して回収し、見本誌のチェックをして回収する。
特に見本誌が多いと大変だが、今はすべてのサークルの受付を済ませるのが先決だった。