第16話 3日目 変態入場
東2ホール本部からの視線を感じながら、藤崎慎吾はただ前だけを向いていた。
「よくやった瑞光寺さん、藤崎。もう少し頑張ってくれ」
「江口橋さん」
列曲げを入口のスタッフに任せ、三山にアナウンスを任せた江口橋が、列の先頭に追い付いた。
三人で並び、片手を上げながら片手を横に広げ、進むべきはこちらだと全身で示す。
江口橋は遅すぎず、早すぎず、先頭で誘導する速さを調節する。
「完璧だ。そのままでいい」
誰もいない外周の通路を、少し早足に進む。
瑞光寺がちらりと後ろを振り返った。
藤崎と江口橋もつられて後ろを確認する。
はやる気持ちを抑えながら、自分たちの後をついてくる一般参加者。
自分たちの後ろに、十万人が続いているのを実感する。
この、止めてはいけない流れの先頭を、預かっている。
三人はそのまま、東2ホールから東3ホールへと歩みを進めた。
「よし……そのままのペースを維持して3ホールの中央通路に持って来い。俺は3ホールに話をつけてくる」
「はい」
「スタッフを追い越さないように歩いてください!」
江口橋は振り返って、一般入場の群れにアナウンスした。
先頭集団の何人かがうなずくのを見て、江口橋は先頭を離れて東3ホールの本部へ急いだ。
さすがにサポートなしで、東3ホールの中央通路へと右折するのは難しいだろう。応援が必要だ。
※
瑞光寺あかねは、努めて優雅に歩を進めていた。
江口橋の意図を薄っすら汲み取ったあかねは、右手を上げたまま歩く速さを少し調節する。
少し後ろを振り返り、声を上げる。
「このまま3ホールの中央通路を右に曲がりますわよ!」
「はーい」
野太い男の返事が、あちこちから聞こえた。
あかねはうなずいて答えると、改めて前を向き自分の曲がるべき場所を確認する。
少し先のエブロックとオブロックの間が中央通路だ。そこで右折する必要がある。
今は東2ホールと東3ホールの間、Zブロック、そしてアブロックを通り過ぎた。
イブロックを横目に確認し、前を見る。すると、目標となるエブロック外周通路に3ホールのスタッフらしき人が何人も集まっているのが見えた。
その中から四人が飛び出し、あかねに向かって笑顔で手を振りながら近づいて来た。
残ったスタッフたちも陣形を整えるのが見える。
「お疲れ! こっから任せとけ!」
「先頭のおふたり、ごめん、コーナリングの面倒見ながらエブロックの角のサークルさんを守ってくれ!」
「承知いたしましたわ!」
援軍の四人はまるでリレーのバトンのように、自然な速度を維持しながら、あかねから一般入場の先頭を受け取った。
その数秒後に、入場列は東3ホールの中央縦通路へと直角に曲がる。
後に『C96夏の変態入場』と呼ばれる伝説が完成した。
あかねは言われた通り、エブロックの端であるお誕生日席に向かい、藤崎はその手前のウブロックに付いた。
コーナーとなるエブロックでは、江口橋が待ち構えていた。
「藤崎、瑞光寺さん、よくやった」
「江口橋さん、ありがとうございます」
「入場列が横からはみ出さないよう注意を」
「承知いたしましたわ! みなさま、前の方に続いて進んでくださませ!」
挨拶もそこそこに、幾分勢いを増した一般入場の誘導にあたる。
「前の方に続いてください!」
藤崎も大きな声でアナウンスをしている。
なるほど。入場の列は先へ追い越さんと横に広がりがちで、その先にあるのはサークルの机。これは確かに守らなければ危ない。
強い流れのせいで頒布を開始できないお誕生日席のサークルに、あかねが会釈をする。
「もう少しお待ちくださいませ。お守りいたします」
「は、はい。スタッフさんも頑張ってください」
「ええ、ありがとうございます」
あかねの胸が高鳴った。
ずっとサークルを応援してきた自分が、サークルから応援される立場になっている。
自分のこれまでの感謝と喜びを、ようやく返すことができる。
「ここで右に曲がっています! サークルさんの机に当たらないように!」
「前見て前!」
「列は広がらないで!!」
あちこちから流れを誘導する声が聞こえる。
東3ホールのスタッフであろう声に混じって、ウブロックのお誕生日席でサークルを守っている藤崎の声もよく聞こえた。
そんな周囲の声に応えるかのように、自分も声を張り上げる。
わたくしは今、全力で、エブロックのサークルを守っています。と、そう伝えるように。
少し人の流れがまばらになった後、完全に入場の流れが途切れた。
まだ入場者のいる東2ホールの方を注視しながら、江口橋が近づいてきた。
藤崎はひと段落ついたところで江口橋に東2ホールに戻るよう指示されている。
「東2ホールは正常に戻ったのでしょうか?」
「多分な」
同じ様子を見ていた東3ホールのスタッフも、十人程度入口シャッター近辺に集まってくる。
江口橋はあかねを連れてその集まりに近づくと、3ホールのスタッフ達に向かって頭を下げた。
「3ホールの皆さんすみません、ありがとうございました」
江口橋がそう言うと、東3ホールスタッフの視線がひとりに集まった。
少し小太りのメガネの男性で、美少女キャラが大きくプリントされたシャツを着ている。
ずいぶんステロタイプなオタクである、というのがあかねから見た第一印象だったが、江口橋に向ける人懐っこい笑顔には好感が持てた。
「いやいや。普段一般入場を触らないから、今回はいい経験させてもらったので。お久しぶり、江口橋さん」
「ああ、二宮か……とにかく助かった。この件は上も問題にすると思うが、2ホールのせいにしてもらっても構わない」
どうやら二宮と呼ばれたメガネの男性は、江口橋の知り合いらしい。
そういえば東2ホールの本部は何をしていたのだろう。
あかねは不思議に思って東2ホール本部の方を振り返ってみたが、誰かが向かってくる気配はなかった。
改めて目の前の二宮に向き合う。
「あー、まあうちらはありのままを言うだけなので。ついでに言うと2ホールが詰まってるのも見たけど、英断だったと思いますので。あのタイミングで対応できなかったら入場列全部が死んでたので……おっ、そちらは新人さんか。凄い働きだったので」
「恐縮ですわ」
二宮はあかねのスタッフ証にある若葉マークを確認して、少し驚いたようだった。
語尾が若干気にはなったが、あかねは優雅に頭を下げて謝意を示す。
「こちらこそ、助けていただいて感謝いたします。申し遅れました、UVブロックの瑞光寺です」
「東3ホールの副ホール長の二宮ですので。もし2ホールに居づらくなったら江口橋さんと3ホールにおいでね」
「どさくさに紛れて勧誘しないでくれ」
「でも実際こういうイレギュラーってすごく嫌がりそうなので。最近の東2って」
「それは……」
江口橋ははっきり答えなかったが、UVブロックの立場があまり良い状況でもないらしいことはあかねにも察せられた。
思い返せば、1日目のゴミ集め、2日目のサークルへの事件、そして今日。すべてUVブロックでの出来事だ。別に誰のせいでもない偶然だが、ホール本部がそう思うかどうかは怪しいように思えた。
場内の賑わいが少し大きくなってきた。
東3ホールスタッフは二宮の指示でそれぞれの持ち場へと戻って行く。
「じゃあそろそろ本来の業務に戻りますので。お互い最終日、踏ん張りましょう」
二宮はそう言って、手のひらを江口橋に向ける。
「ああ、じゃあまた」
江口橋が答えと同時にハイタッチをすると、二宮は満足げにうなずいて3ホールの本部へと戻って行った。
その様子を見ていたあかねも江口橋に向きあうと、黙って手のひらを見せる。
「……」
江口橋は一瞬戸惑ったが、そっと息を吐いて口元を緩めた。
東3ホールの片隅で、小さくて軽やかなハイタッチの音が鳴った。