第147話 3日目 運命の開場と混雑
あかねは開場直前の張りつめた空気を肌で感じていた。
隣に立つ椎名の声も少し緊張している。
「なんだかいつもより人が多いですねえ」
「これは先行入場者ですわね」
「先行入場者?」
外の運用はあまり聞いていなかったのだろうか。
確かに人員のやりくりに必死なハパブロックでは、手荷物確認の運用について気が回らなくても無理はない。
「手荷物確認の作業に協力いただいた準スタッフを、優先的に入場させたようですわ」
「それはまた荒れそうですねえ」
「緊急事態といえど、知り合いを贔屓したように見えますものね」
椎名の率直な感想に同意する。
一般参加者は、いかに早く入場するかにすべてを懸けている。
自分の欲しい本は、自分がそのスペースにたどり着くまで残っている保証はどこにもない。
どうしても欲しい本を入手する確率を少しでも上げようと、ルートを練り、情報を収集し、そして早朝の会場にたどり着く。
そんな中で優先して入場できる参加者が……それもスタッフの知り合いだからという断片的な情報が耳に届いたらどう思うだろうか。
実態は働いた対価なのだが、得てしてそういった情報はどこかでそぎ落とされる。
話を聞く限り、数百人、下手をすると千人ほどが朝の手荷物確認に従事し、三時間みっちり準スタッフとしてこき使われた上で館内に放り込まれたらしい。
らしいというのはそれすらも館内には確固たる情報が下りてこないからだ。
「そういえば手荷物確認の状況はどうなんでしょうね」
「現場まで情報は回って来ませんわね」
「より安全に開催できているのならいいんですけど」
「そうですわね」
貸出人員でブロックに残っている人数が少ない中、そこまで情報を拾っている余裕はなかった。
どうやら本部も同じらしい。最低限の人数で回しているように見える。
人の出し惜しみをしている場合ではない。
あかねは気持ちを新たに、ビッグサイトの床の感触を確かめる。
開場まで、あと一分。
自分がここに立つ理由を思い出し、心を落ち着かせるために深呼吸。
「では、お互い頑張りましょう」
「ええ、ではまた!」
頼れる隣人は輝く笑顔を見せ、自身の受け持つブロックへと身を翻した。
そして、定刻を迎える。
『ただいまより、コミックマート100夏、3日目を開催いたします!』
割れんばかりの拍手、同じく聞こえる歓声。
スタッフの心中はともかくとして、そこにはいつも通りの開場風景があった。
開場からしばらく経つとその状況も徐々に変わってくる。
とにかく入場してくる人が多い。
東456地区へは東5から一般入場が入っているが、中央縦通路を抜け、シャッターからトラックヤードへと出る。
多くの人が目当ての人気サークルはトラックヤードで列形成しており、沢山の人がそこへ並ぶ。
だが外の人気サークルは、その経験もあって頒布の速度がとても速い。
買い物を終えた一般参加者が次に向かうのは、ホール内壁外周のサークル、あるいは、ネノブロックやマミブロックといった偽壁となる。
定点で俯瞰する江口橋とあかねは、じわじわと人が増えつつあるホールを油断なく見ている。
「昨日はトラックヤード側の外周通路が混雑しましたわね」
「ああ、今日もそうなるだろう」
人の流れを考えれば当然の帰結だ。
今日も昨日と同じように推移するだろう。だからこそ朝日を外周専属で配置したのだから。
「少し見てまいりますわ」
「頼む」
施設のつくり上仕方ないのだが、ホールとホールの境目は少し狭い。
だから外周通路は直進できず、少し屈曲することになる。そこで人の流れが乱れ混雑が生じるのだが……
あかねがそこに立つだけで、不思議な秩序が生まれた。
我先にと焦っていた人はふと冷静になり、携帯を見ていた人は顔を上げ、あまりの暑さにぼんやりし始めた人の目に光が戻る。
「ヤバ、何あれ……」
「怖い……」
「コスプレのはずなのに……この圧は何」
あかねの長身は男性の多い参加者の中でも埋もれることはない。見下ろされるその視線は、ただ静かにその人の流れを見守る。
だが見られる方は背筋を伸ばし、波風立てぬようこの難所を通り過ぎることだけを考えている。
「おー、ネノも混んでるなあ」
「あら、雲雀さん、ごきげんよう」
「お疲れ、瑞光寺さん。相変わらずの存在感」
「恐縮ですわ」
存在感で言えば雲雀もなかなかのものだ。
しっかり手入れされた手足は肌の艶やかさも男性とは思えない。
以前はその身長と短髪だけが違和感だったが、あかねのアドバイスにより小物でカバーしている。
長身のあかねが並んでいることもあり、ぱっと見の性別判断は迷う程度までレベルが高い。
「順調に人が増えてるね。まだまだ一般入場は終わりそうにないらしいよ」
「すでにガレリア側の外周通路は少々息苦しくなっておりますわね」
「ああ、あとシブロックもね」
当たり前だが、人は減らない。
次々に入場してくる参加者に、まるで終わりがないかのような錯覚を覚える。
人ごみの中を抜け出した朝日が、少し離れた場所からあかねに手を振る。
「瑞光寺さん、ちょっとポジションこっちに寄せられるかな!」
朝日はあかねの存在がもたらす影響の範囲を熟知している。
その上で東6ホール側を指さしたということは、そちらで混雑が起こっているのだろう。
「承知いたしましたわ! では雲雀さん、また」
ここを離れるのは少し心配ではあったが、頼りがいのあるメイド服の雲雀が強気に笑う。
「ああ、こっちは任せといて」
「心強いですわ」
背中を預けられる安心感。
隣のブロックが椎名と雲雀で本当に良かった。
仲間が支えてくれることを感じながら、あかねは一歩、また一歩と東6側へと移動していった。
やがて朝日が合流すると、あかねの隣で大きく息を吐いた。
遠目には分からなかったが、大汗をかいている。
かなり体力を消耗しているようだ。
「お疲れ様、ありがとう」
「いえ」
なるほど、東6ホールの外周シブロックもかなり混雑している。
ここは男性向けジャンル。ただでさえ熱気が溢れるというのに、100回目の節目とあって熱狂とも言うべき雰囲気に包まれている。
そんな中、あかねから発せられる秩序は同心円状に広がり、ともすれば崩壊しそうだった東6の外周の混雑対応を何とか持ち直させた。
「うーん、やっぱりこの存在感は凄いな」
隣の朝日が笑う。そのさわやかな笑顔はあかねへの感謝が込められている。
精神的にはかなり余裕があるように見える。場数と経験なのだろうか。
「しいて言うなら、ヒールが履けないのは惜しい」
「危ないですもの。もし他の方を踏んでしまっては一大事ですわ」
「そうだよね」
朝日は短く答えると満足そうにうなずいた。
まるであかねがそう答えると分っていたかのようだ。
「いやー、5も6もシブロックが激重だね。非常口も使われてるし偽壁息苦しいなあ」
言葉とは裏腹に心底楽しそうだ。
「横通路でハパの方に流すしかなさそうですわね」
「それも限界があるしなあ……6ホール側は流しても良いんだっけ」
「朝日さんが判断されるのでしたらそうしてくださいませ。その時はわたくしから東6へ報告いたします」
「いいね」
そう言って不敵に笑う朝日。
何が良いのかわからず、あかねは首をかしげる。
「いや、そんな風にホールの垣根を感じていないのが凄く良い」
「そうなんですの?」
「責任者としての役割を理解してるし、その上でブロック員の好きにさせる……なかなかできないよ」
褒められたのだと思うが、どう答えていいか分からない。
言葉を探すあかねを面白そうに見ると、朝日は「よし」と小さく気合を入れた。
「安心して全力でやれるってこと。ありがとう」
その言葉だけを残して、朝日は混雑に消えていった。
本来の自分の担当である非常口周りを確認しに行ったのだろう。
『ありがとう』
朝日の言葉を胸の中で繰り返す。
自分も彼の背中を支えられているということだろうか。だと良いのだが。
うねるような人の流れを見守りながら、あかねは時計に目をやった。
まだ開場したばかりのように感じたが、実際は容赦なく時間は進む。
そして着実に、その時間に近づいている。




