第144話 3日目 着替えと朝礼
更衣室の前で雀田が待っていた。
特に不安も焦りもなく、いつもの仕事で見せる冷静な雀田の顔だ。
「今日は早かったのね、雀田」
「少し急ぎました」
「待たせてしまったかしら」
「いえ」
短い返事。
予定では今ぐらいに到着していたはずだ。
雀田も今日という日を特別に考えているのかもしれない。
「早速着替えましょう。朝礼に間に合うかしら」
「私の着替えは朝礼後にしますので。お嬢様を優先します」
「そう。分かったわ」
スタッフ用に割り当てられた女子更衣室を使う人は少ない。
そもそも女性スタッフが少ないし、さらに言えばコスプレをするのは少数派だ。
コスプレをする女性スタッフが何人もいるネノブロックが、特異な存在感が浮き彫りになっている。
結果的に偽壁ブロックに秩序をもたらしているので、分からないものだ。
化粧をしながら、雀田が真剣な表情を見せる。
いつもより表情が硬い。
「お嬢様」
「どうかなさいまして、雀田『さん』」
「万が一のことがあった場合、私は命に代えてもお嬢様を守ります」
それとなく指摘をしたつもりだが、雀田は呼び方を改めない。
今日は遊びではなく、仕事の延長だと思っているのかもしれない。
「……万が一が起こらないように、わたくしたちがいますのよ」
「はい。それでも不測の事態は起こりえます。その時はご自身の安全を優先してください」
「承知しかねるわね。どんな状況か分からないんですもの」
雀田が手を止め、あかねの顔を見る。
お互いに真剣な表情を崩さない。
あかねには雀田の言いたいことは分かる。だが、無責任な約束はできない。
もちろんスタッフの原則で「まず自分の身を守る」というのはある。
だが、リスクが全くない状態などありえない。ましてや、大勢の人の命に係わる事態だとしたら。
雀田も、あかねの考えていることは分かる。
この二年間一番近くで見てきた、この日のために積み重ねてきたと言っても過言ではない。
犠牲……とまではいかなくても滅私奉公のスタッフにあって、自分だけを守るということはできない。
そもそも人として、目の前に救うべき対象がいる状態で自分の安全を確保しろと言われてできるかどうか分からない。
何より、雀田自身があかねのためなら身を挺しても良いと思っているのだから。
どのくらい見つめ合っていただろう。
小さく息を吐いたのは、雀田の方だった。
「お嬢様にもしものことがあれば、私は失職ですからね」
「それは大変だわ。わたくしも困りますわね」
雀田はその言葉を聞いて口元を緩めると、再び手を動かし始めた。
密かに「お嬢様は自分が守ればいい」と心に秘めながら。
夏コミの暑さに負けない化粧。とにかく手早く、何より見栄え良く。
すっかり鍛えられた雀田の腕は、今日も冴えていた。
仕上げの小物も問題なく装着。
「できた……今日も『瑞光寺さん』のお姿は素晴らしいです」
「相変わらずとても速いわね、『雀田さん』」
「恐縮です」
「これなら朝礼に間に合いますわね。さすが雀田さん」
スタッフ仲間に戻ったふたりが、ふっと笑い合う。
まるで先程までの緊張はなかったかのように。
だが、お互いの心の内は薄々分かっている。
その上で、これからに臨む覚悟を決めたのだった。
ホール朝礼に集まるスタッフは、いつもより明らかに少ない。
和泉はその様子をぐるりと見回し、よく通る声で挨拶をした。
「おはよう!」
「「「おはようございます!」」」
「3日目、最終日だ。いない人も多いが、理由は聞いていると思う。今日『仮貸し出しA』の人員がサークル入口の補助に回ったからだ。大まかに説明すると、参加者全員に対する手荷物確認を実施することが決まった。当然サークルにも行うために館内からかなり人を出している。その後、一般参加者への手荷物確認にも回ってもらう予定だ。昼まで帰って来られないと思ってくれ」
ネノブロックからは春日野と神月が立候補してくれた。
今日はそのふたりを欠くことになる。ネノブロックの重要な戦力だが、コミマ全体の運営に関わる貸出だ。仕方がない。
「このところ、爆竹が持ち込まれて会期中に鳴らされていたのは知っていると思う。今回、最も混雑すると思われる今日に、同じことが起こるとパニックになる可能性が高い。ということで『警察から強く要請された』と聞いている。人数が減って大変だと思うが、相手は国家権力だ。納得してもらいたい」
少し冗談めかして言うが、遠回しに『聞かれたらそう説明しろ』と言っているのだろう。
ホールのスタッフに不満が出ている様子はない。そもそも『仮貸し出しA』が決まった時点で想定されていたことだし、当初はすべての日で貸し出される可能性すらあった。最終日だけで済んで良かったと思っているスタッフも多いだろう。
「今日も巨大みなし館内は継続。シブロックは心してかかってくれ。今日も気温が上がる予報だ。休憩と水分補給は常に心掛けるように」
「「「はい!」」」
シブロックが力強く答える。
昨日もとても広いエリアで混雑対応をしたであろう彼らだが、まだ十分に体力は残っているようだ。
今回の鍵は、どれだけみなし館内……つまり屋外に人を留めるかだ。
ホールで何かが起こった時、逃げる先は防災公園や道路上になる。
つまり先にその場所に人がいるならば、わざわざ避難する手間が省け、リスクも減ってくる。
いつもの数倍の一般参加者の相手をするシブロックだが、なぜか楽しそうに笑っているブロック員ばかりのようだ。
「フプヘペ、今日の中央縦通路の圧力は相当なものになるはずだ。今日一番重い456の安定運用は、中央縦通路をどれだけスムーズに流せるかにかかっている。よろしく頼む」
「「「はい!」」」
中央縦通路の一般入場。
今日の参加者が何人になるのか想像もつかないが、その先頭の勢いは凄まじいだろう。
うまく制御していかなければ、その時点で事故が起きてしまう。そして、一般入場を止めた先にあるのは大混乱だ。
C96夏の変態入場はその呼び方で揶揄こそされてはいるが、一般入場を止めなかったことはあちこちから褒められた。
そのぐらい大事なことだ。
ベテラン保谷が抜けた穴は小さくないだろうが、本部もサポートしながら一般入場を死守する使命感に燃えている。
「ハパ、ヒピ、ホポは隣接ブロックの支援が多いと思う。今日の『仮貸し出しA』にも多く人を割いてもらって申し訳ない。かなり耐える時間が長くなると思うが、ブロック間での調整を上手くやってくれ」
「「「はい!」」」
ひときわよく聞こえたのは、お隣ハパブロック長の椎名の声だ。
副ブロック長雲雀の声もそろって聞こえた。
先にメイド服に身を包んだふたりは、ハパブロックの象徴のように笑っている。
椎名はいつもの通りくりくりの目を輝かせ他ブロックの『支援』に燃える。
雲雀は言葉少なく見守りながら椎名の『支援』に徹する。
あかねは隣のブロックに見知ったふたりがいる心強さを感じていた。
そして……
「ネノ、マミの偽壁は今日も重い。サークルの配置は前回と同じぐらいの規模だが、とにかく今日は参加者の絶対数が多い。きつい時間もあると思うが、サークルや赤い紐のスタッフ補助とも協力して凌いでほしい」
「「「はい!」」」
自分のブロックだと思って聞くと、なかなかの無茶ぶりだ。
だが、和泉の声には確かな信頼が感じられる。
これまでになく混雑し、これまでになくスタッフが少ない。だが今日のメンバーなら乗り切れるだろう、と。
思わずそれに応えたくなる。
これが「士気が上がる」ということなのだろう。
「今日はこれまでのスタッフ人生で一番大変な日になると思う。だが、節目のC100夏を無事に終えられるかは俺たちの働きにかかっている。ただ体調がおかしいと感じた時はすぐ休むように。今日も炎天下だ、無理だけはするな。以上。ブロック別に移ってくれ。あー、今日一日、よろしくお願いします!」
「「「「よろしくお願いします!!」」」」
早朝の東456地区に、東5ホールの声が響き渡った。




