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同人誌即売会と悪役顔令嬢  作者: 狐坂いづみ
C100夏編
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第142話 3日目 運命の朝

 前日よく眠れないかもしれないと思っていたが、全くの杞憂だった。

 精神的には落ち着いていないことは確かだったが、夏コミの2日目ともなれば蓄積した疲労があっという間に眠りへと引きずり込む。

 夜の九時ごろにはベッドに入ったはずが、気づけば目覚ましが小さく鳴り、早朝であることを知らせていた。

 少し疲れの残る夏コミの最終日。

 夢に見た日。

 窓から見える空には、うっすら朝の気配がする。

 

 本音を言えば、今日を迎えるのが怖くて仕方がなかった。

 初めて夢に見たのは2年半前だっただろうか。

 C96夏のスタッフ登録をしてから、あっという間だったような気がする。

 

「姉さま」

「あら、すみれ」


 薄暗い廊下で、妹から声をかけられた。

 今回のコミマには来る予定はなかったし、普段まだまだ起きるような時間ではない。


「起こしてしまったかしら」

「ああ、うん……ちょっと起きちゃって」

「そうですの。ごめんなさいね」

「ううん。あの……えっと、雀田から聞いたんだけど」


 どこか思いつめたような表情を見せる。

 何を聞いたかは分からない。すみれの言葉を待つ。

 

「今日は姉さまの大事な日だって」

「ええ。そうね。いつも大事だけれども……今日は特別かもしれないわね」


 節目となる100回目のコミマ。

 普段から混雑する夏コミの、最終日。

 多くのオタクにとって特別な日と言っていい。

 社会人はお盆休みに合わせ、学生も夏休みの真っ最中。今年の夏の、大事な思い出になるはずだ。

 あかねの言葉を聞いても、すみれの表情は晴れない。


「……無事に、戻ってきてね」


 その言葉に、即答できなかった。

 雀田はどこまで話したのだろう。

 余計な心配をかけさせてしまっているかもしれない。

 言ってしまってから、泣きそうな顔になっているすみれに目の高さを合わせる。

 

「ふふっ、なんて顔。またきちんと寝られるかしら」

「どうだろ……」


 きっと、心配でよく眠れなかったのだろう。

 妹に心理的な負担をかけてしまったことを申し訳なく思いながら、そっとその体を抱きしめた。


「あっ……」

「やっぱり昔みたいに手を握って寝ないとだめかしら」

 

 冗談めかして言うが、すみれが小さくうなずくのが分かった。

 あかねの背中に手を回し、ぎゅっと力をこめる。

 応えるように、あかねもすみれを抱きしめた。

 

 少し蒸し暑い瑞光寺家の廊下。

 どちらからともなく体を離すと、少し汗ばんだ感触があった。

 すみれは姉の目をじっと見つめて、硬い表情のまま口を開いた。


「姉さま……気を付けて」

「ええ、行ってきます」


 後ろ髪を引かれる思いはあったが、自分にはやるべきことがある。

 また夜に、笑って迎えてもらえますように。

 

 


 玄関を開けると、より湿り気を帯びた空気が体にまとわりつく。

 昨日の熱気はまだ街のあちこちに残っていて、今日の暑さを予感させた。

 あかねは落ち着いて深呼吸する。

 足と肩のあたりに違和感がある。

 痛みとだるさの間あたりにある、疲れの主張。

 かなり歩いたのもあるが、無意識に力んでいたのかもしれない。

 門の前で待っていた安威は、微動だにせずこちらを見ている。

 

「安威、手間をかけますわね」

「いえ。お気遣いなく」


 この始発の駅までの送迎も、もはや恒例といっていい。


「本日も改札まででよろしいですか」

「ええ。そうね」

「お疲れなのではないですか。お車の方が」

「いえ。歩きたいの」

「失礼いたしました」


 あかねにとって始発の電車が大切だということを理解してくれている。

 心の中で安威にお礼を言うと、駅へと並んで歩き始めた。

 

 見慣れた町はうっすらと明るく、夏の一日の始まりを迎えている。

 少し向こうのバス通りを走る車の音以外、届く音もない。

 初めこそ新鮮だったが、この二年のうちにすっかり見慣れた景色になっていることに気が付いた。

 

「始発前の街を見慣れるなんて、おかしいかしら」

「いえ。お嬢様がこの街の色々な表情を知るのは良いことです」

「……そうね」


 これまでこの街で育ち、それこそ端から端まで街並みを知っている。

 いつか、この街のことを同人誌にしてもいいかもしれない。

 そういったものが許される、自由な世界だ。


「安威はサークル入場に合わせてですわね」

「はい。お邪魔にならないようにいたします」

「心強いわ」


 紛れもない本心だ。

 即売会というものを知っていて、スタッフのような目で秩序の維持に専念してもらえる。

 休憩や補給を自主的に行いつつ自身で判断して動いてもらえる協力者は得難いものだ。

 ちゃんと給料を出してくれるところは社長である父に感謝しておこう。

 

 駅に到着した頃、ちょうどコンコースのシャッターが開くところだった。

 待ちは現時点で七人ほど。半分はコミマ参加の若い男性に見える。

 

「それでは後程会場で」

「ええ」


 安威と短く言葉を交わすと、あかねは改札を通り抜けた。



 

 ひとりで佇むホーム。

 分かっている物足りなさは、最終日まで埋まらなかった。


「お元気なら、良いけれど」


 きっと、再会はテレビ越しなのだろう。

 元気に活躍する彼を見て、これまでイベント会場や東英で一緒に過ごした時間を思い出すのだろう。

 それでもいいか、とあかねは思う。

 この二年が夢のような時間だった。

 しばらくしたら大学を卒業し、恐らく大学院に進み、社会に出る。

 ずっとこんな風にコミマにいられるとは思わない。

 

 始発電車がゆっくりと近づいてくる。

 ひとつ前が始発駅のはずだが、乗客はそれなりに多い。

 きっと目的地は同じ人が多いだろう。

 電車に乗り込むとき、ふと振り返る。

 誰もいないホーム。

 まだ何かを期待している自分に驚いたが、目の前の光景だけが現実。

 始発列車はいつものように、あかねたちを運んでいく。

 


 

 地下鉄になると混雑の度合いはさらに激しくなってきた。

 編成の真ん中あたりの車両は市ヶ谷から当たり前のように積み残し始め、あかねの座る一番後ろの車両すら満員となった。


「ねえ、なんか人が多くない?」

「確かにいつもより多いね」


 あちこちから声が聞こえてくる。

 ほとんどの人がコミマの参加者なのだろう。

 一部、早朝の市場へ行く人もいるというが、この混雑をどう思うのだろうか。


「企業で今日限定のグッズとか鬼畜だよな」

「人の心とか無いんか」

「西の四階は遠すぎる」


 仲間で参加する人たちは今日の期待を口にし、ひとりで参加する人はじっと音楽を聴いている。

 地図を見ている人もいれば、体力の温存の為か目を閉じて寝ている人もいる。

 早朝五時台。普段からこの時間に起きている人は、このうちの何人もいないだろう。

 

「今回コスプレもレベル高いらしいよ」

「あー、SNSで見た。昨日からネタ系の人たちもめっちゃ張り切ってるって」

「1日目が大雨だったもんね」


 スタッフであるあかねは、あまりコスプレ広場まで見に行く余裕はなかった。

 今回の1日目が例外のようなものだ。

 近くの東7でさえ、混雑対応に追われた昨日は見に行けていない。

 

「正統派のコスプレも凄いんだって。アンタルヤ戦記のキャラの大規模併せがあって……」

「今日は防災公園でメドパのコス併せがあるらしいよ」

「あ、見た見た。午後見に行けるかなあ」


 やはりSNSを通じて情報を取り入れているのだろうか。

 あまり発信していなかったあかねだが、もし今回を無事に乗り越えられたら、心に余裕をもってコミマに臨めるのだろうか。

 雀田の策略でコスプレを始め、Chikiと再会し、コスプレを通じた知り合いも多くできた。

 二年前にはまったく予想していなかったが、ただ目的にはより近づけた気がする。

 コミマを救うという、大きくて困難な目的に。

 

 目を閉じて心を落ち着かせる。

 まずは今日。今日を乗り越えなければ、先のことなど考えられない。

 しかし、小さく息を吐いたところに思わぬ言葉が飛び込んできた。

 

「コスプレと言えば、昨日特撮のコスプレも本人が来てたって」

「へえー、すごいね。最近声優とかも本人来るし、コミマもすっかりメジャーになったねえ」


 特撮。本人。

 どうしても高村トシヤのことを思い出す。

 彼が出演している番組は、今月末で最終回のはずだ。

 ちゃんと、見届けられるだろうか。

 いや、見届けなければ。

 仲間の活躍する姿を。

 


 目的地に近づくにつれ、混雑度合いがこれまで体験したことがないほど増していく。

 

「……安威の車に乗せてもらった方が良かったかしら」

 

 社内にこもる熱に、誰もが我慢の表情を浮かべる。

 終点までの乗車がこれほど長く感じるとは思わなかった。


(ひとりが寂しいと思うなんて)

 

 以前なら、お目付け役がいない解放感をずっと味わっていられたのに。

 なのに。

 満員の地下鉄の中で孤独感を抱きながら、あかねはひとり目を閉じた。

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