第123話 0日目 台風設営日
『さて、気になる台風ですが、木曜日には関東を強風域に巻き込み、金曜日には千葉県に上陸する見込みです。そのため鉄道航空各社は運休や減便を計画しており……』
東京湾岸に吹き付ける風は強い。
台風の気配が日に日に濃くなって来ているのを実感する。
濃い雲は足早に空を駆け抜け、目まぐるしくその形を変える。
羽田に着陸するであろう飛行機がやってきているところを見ると、まだ大丈夫だろうか。
だが時間の問題であるとニュースは言っている。
東京ビッグサイト、エントランスホール。
いつもの夏コミよりやや薄暗いが、まだ雨が降っていないだけマシというものだろう。
あかねはその場所に立つと、集まりつつある一般参加者に目を向けた。
「……皆様、お疲れ様です」
誰に届けるわけでもなく、小さくつぶやく。
今日は平日のはずだが、夏休みであろう学生はともかく、社会人の参加者は休みを申請しているということなのだろうか。
ちらりと後ろに控える安威に目をやる。
ちなみに今日安威には給料が出る。
最終的にエントランスに集まった人数は二百人は越えているだろう。
測量のために先に入っている人たちを合わせるとかなりの規模だ。
この悪天候にも関わらず設営に参加する人たちからは、並々ならぬ熱意を感じる。
やがて設営部と呼ばれる蛍光ジャンパーを羽織ったスタッフの一団が現れる。
設営部は館内担当や企業対応部などの担当とは少し異なり、本来の自分の所属を持ちながら「設営部」を兼任しているという人たちだ。
「はーい、お疲れ様でーす! これから設営マニュアル配りますので!」
この設営日に配られる設営マニュアルは、話題になっているアニメやゲームのキャラが設営のやり方を漫画形式で教えてくれる二つ折りのペーパーである。その漫画も人気のサークルが描くことが多く密かに人気である。
配置図も乗っているので机の本数を確認するのにも役に立つ。
ちなみに今回の漫画は前回あかねがコスプレをした『獣っ子パーティ』のようだ。少し旬を外しているような気がするが、獣度合いが強めのイラストであることから、漫画作者の好みが反映されているものと思われた。
「マニュアルは手元に行き渡りましたか? はい、じゃあ説明に移りますね!」
設営部の代表者から設営に関しての注意が飛ぶ。
何より安全第一だ。
「あー、今ちょうどゲームのスピードランをやってると思いますが」
参加者が笑う。
こういったオタク単語が出てくる上に、理解している人が多いという雰囲気でコミマを実感する。
「この設営はスピードを競いません! ケガをしたら負け! いわゆるオワタ式ですので、常に安全策を取ってでお願いします!」
元気のいい返事がエントランスホールに響く。
あかねはオワタ式が何かは分からなかったが、笑っている人がいるということは何らかの用語なのだろう。
とにかくケガを避けなければならないことは理解した。
「それから」
笑いが収まるのを待ち、設営部の代表者が表情を引き締めた。
「今回のコミマでは、特別不審物チェックを実施することになってます。先んじてこの設営日でも不審物チェックを行いますので、設営に参加する皆さんも気を付けて見てもらえればと思います」
空気が締まる。
一瞬で雰囲気が変わった様子にあかねは感心する。
何より、この場にいる全員がきちんと耳を傾けている。
このオタクの規律は心から素晴らしいと思えた。
「質問ある方」
「さっきの『特別不審物チェック』って具体的に何かするんですか」
「はい、特別不審物チェックはですね、えー、会期中いつも一斉点検ありますよね。あれをやります。時間は昼の二時頃と聞いていますので、その前後でみなさんホール内に散ってもらって、チェックをお願いしようと思います」
設営がひと段落したあたりのタイミングだという。
通常の設営では終わったらすぐに反省会場へと移動するが、今回は設営に参加したホールで少し待機するよう付け加えられた。
「ぶっちゃけ何にもないはずなので、何かあったらすぐ分かりますよね。普段の不審物チェックより難易度低いと思うんで、ご協力お願いしますね」
「はい!」
何か不審物を見つけようとするというよりは、警戒していることをアピールする狙いがあるのだろうか。
少なくともこの設営に参加した人たちは、会期中も少し不審物を気にかけてくれるだろう。
「これから西と東に別れますので好きなほうでご参加ください!」
全員が立ち上がり、思い思いの表情を見せる。
記念すべき100回目のコミマ。その準備に直接関わることができる。
自分たちがこの場を文字通り「作る」という自負があるのだろう。
自信と誇りに満ちた表情は、こちらまで勇気をもらえるようだ。
「それでは今日一日、よろしくお願いします!」
「「「よろしくお願いします!」」」
それにしても目を見張る速さで机が並べられてゆく。
何時間か前までは何もないガランとしたホールだったはずなのに、今では東4と東6のほとんどの机を置き終わっている。
トラックの入場の関係から、東5はいつも最後になるらしい。
「急がなくていいからー! 周りを見て安全に運んでくださーい!」
東4と東6の両方から机の台車が運ばれてくる。
ぱっと見ただけでも余剰が出そうだ。
「瑞光寺お疲れ」
「お疲れ様です、和泉さん」
「設営ありがとう。本部用に机の確保をお願いしたんだが」
ホール長の和泉の指さす方向に、備品の箱だけが積まれた本部の場所があった。
数人のスタッフがケーブルを手に準備を進めている。
スタッフのLANか内線電話の準備だろう。
「休憩室も含めて28本お願いしたい」
「承知いたしましたわ」
その数なら参加者に手で運んでもらうより台車だろうか。
台車は要求数より多いはずなので、数えて調整する必要がありそうだ。
「椅子はいかがいたしましょう」
「椅子は60だったかな。台車丸ごとひとつ回してほしい」
「承知いたしましたわ」
和泉の背中を見送る。気のせいか会期中より生き生きしているように見える。
シャッターからちらりと見える空は重苦しい色だが、少なくともこのホールの中はそんな雰囲気はない。
心の中で気合を入れると、運ばれてきたばかりの台車に声をかけた。
「すみません! 机28本、東5ホール本部へお願いいたしますわ!」
気持ち大きめの声を出し、ホール本部の方を指さす。
「はいよ! この台車から出しますね!」
「28だ28。に、よん、ろく……」
「多いな……スタッフさん、残った机はあっちの方の設営で使ってもいいですか?」
「もちろんですわ」
少しの情報から、必要なことを理解して動いてくれる。何度見ても敬意を抱く光景だ。
重い台車が三人がかりで押され、ホール本部へと運ばれてゆく。
あとは本部スタッフに任せて良いだろう。
「お嬢様、この机の脚が曲がっているのですが」
「お嬢様はおやめなさい」
しっかり設営に参加している安威が、横から声をかけてきた。
「あの看板の下に持って行ってもらえるかしら。あのスタッフに『壊れ机です』と言えば分かるはずですわ」
「承知いたしました、お嬢様」
「お嬢様はおやめなさい」
融通が利かない。
だが手伝ってくれる安威の背中に心の中で感謝する。
雀田が別の仕事で来られないのは残念だが、やはり設営は男手が助かる。
最初はコミマにまでお目付け役がついてくることに辟易したが、今となっては信頼できる仲間を増やす結果になっているので良かったと思える。
そういえば神崎はそろそろ着いているだろうか。
今日もまた、印刷所の搬入作業のはずだ。
それぞれが役割を果たしながら、このコミマは動いている。




