第12話 2日目 それぞれの思い
女を押さえつけるあかねと藤崎には、ただ見ているしかできなかった。
大きな音を立て、机が倒される。
「なんだよ、おい」
「スタッフ呼んでこい!」
周囲の参加者の驚いた声が、またホールに響く。
あかねは再び女を抑え込み、今度は藤崎も強く体重をかけて女を確保した。
二人分の体重を受けた女は、荒い息をぜえぜえと立てながら口の中で何か言っていた。
そこへやっと、待っていた人の姿が見えた。
「瑞光寺さん! 藤崎!」
「江口橋さん……」
「遅れてすまない。後は本部に任せろ」
江口橋と一緒に駆けつけた同じホールの男性スタッフ三人が、犯人を連行していく。屈強な男性スタッフに両脇を固められた女はとうとう観念したのか、大人しく両腕を掴まれていた。
そのまま地区本部へ連行し、警察へと引き渡すらしい。
倒された机を見た江口橋と三山は、一足遅かったことに強く奥歯を嚙みしめる。
「三山は一旦野次馬を散らしてくれ。通路に立ち止まらないでください、でいい。その後机とイスを戻すのを頼む。瑞光寺さん、藤崎、怪我はないか」
「はぁっ、はぁ……」
「瑞光寺さん?」
あかねは必死に気持ちを落ち着かせようとしていた。
無残に床に散らばった本。
チリアと、ミズナラと、どんぐりが、自分の時間を割いてこの世に生み出した同人誌。
このように乱暴に扱っていいものでは、決してない。
「大事な、本が……」
声が震えて、言葉が続かなかった。
『いかなる時も優雅たれ』
心の中で唱えても、収まらない。
一筋、涙が流れた。
※
見てはいけないものを見た、と三山は思った。
決してふざけた意味ではない。このお嬢様もそんな姿を見せたくはなかったはずだ。
天を仰いで強く目を瞑る。
少なからず三山も責任を感じているのだが、とりあえず後悔は後だ。
「瑞光寺さん」
「……」
「早く元に戻そう。まだ、閉会まで時間が残ってる」
「……そう、ですわね」
藤崎とも協力して机を元に戻し、ストッパーを確認する。
あと20秒早ければ、こんな無残な光景にはならなかったかもしれない。
三山は重い気持ちを引きずりながら、手を動かす。
今日に限って「大根サラダ」とかいうふざけたシャツを着ているのが恥ずかしくなる。
戻って来たサークルの三人も、少しぎこちない動きで散らばった同人誌を拾い集める。そして、周囲のサークルも協力して片付けに協力してくれ、中には励ますような声をかけている人もいた。
江口橋は話を聞くために瑞光寺と藤崎と共にホール本部へ向かい、本部のスタッフが野次馬に立ち止まらないよう移動を促していた。
つまりここにいるUVブロックのスタッフは三山だけ、ということになる。
「あの、『てんぺすとガーデン』さん」
三山にとっても、もちろんこんな事態は初めてだった。
スタッフとして、何を言えばいいのか分からなかった。
「俺の……」
せいで。
そう続けそうになるが、目の前に立つサークルさんに今必要な言葉はそれではないと思い直した。
「犯人は確保されています。後で警察とお話していただくことになると思いますが、また決まったらホール本部からお知らせします」
「……はい」
チリアが力なく返事をする。
うまく言葉を出せない自分が恨めしい。
「まだ不安だと思いますので、俺がすぐそこの通路にずっと立っています。閉会まで。だから」
残酷だろうか。
でも、ここでやめてしまったら、それこそ犯人の目的を達成させることになる。
「可能な限り、その本を、頒布してください。負けないで」
チリアは三山の言葉に目を見開くと、言葉なく小さくうなずいた。
※
「こんなものはかすり傷ですわ」
「傷なんてないだろう。丈夫なお嬢さん」
「一度言ってみたかったんですの」
あかねは無理やりに笑って見せるが、いつも以上に上手くいかなかった。
ホール本部でスポーツドリンクを飲んだ後、改めて自分に怪我が……それこそかすり傷ひとつないことを確認した。それでも、心に負った傷は間違いなくあった。
藤崎は少し肩を痛めたらしく、念のため救護室で見てもらうことにしたらしい。
「あとはこっちに任せて、瑞光寺さんは上のスタッフ控室で休んでいろ」
「でも……」
「お前たちはサークルさんを守った。よくやった」
経緯は江口橋もほぼ把握できた。あとは三山に事情聴取するだけだが、瑞光寺を付き合わせる必要はない。それに瑞光寺は明らかに動揺していて、スタッフ業務どころではないことは明らかだ。
「今は休むことが必要だ。昨日も言ったが、スタッフが休むのは義務だ。まさか明日もあることを忘れてないだろうな」
「いえ……そうですわね。お気遣い感謝いたします」
弱い足取りでスタッフの休憩室に向かうあかねを見送ると、江口橋は気持ちを切り替えて自分のやるべきことに取り掛かった。
二日目の午後、控室には居眠りしているスタッフも何人かいる。
あかねは壁際の椅子に座ると、深呼吸した。
『よくやった』
江口橋の一言で、今日のことは救われた気がする。
最悪の結果を回避することはできたのだと、自分に言い聞かせる。
それにしても、スタッフとはこんなにも責任の重いものだったのか。
浮かれている場合ではなかった。
自分の少しの油断で、何日もかけた本が地面にまき散らされてしまった。
悔しい。
でも何より、チリアたちに申し訳が無かった。
「わたくしは、何のためにここにいるの……」
小さくつぶやいて、控室の小さな窓から会場を見下ろした。
数えきれない人たちが思い思いに歩き、読み、買い、知り合いと話し、心からこの場を楽しんでいる。
そう、これを守るためにここへ来た。
あかねは豊かな胸に手を当てて、夢の光景を思い出す。
炎を上げる本、倒れた人、悲鳴。
そんな未来を回避するために、今自分はここにいる。
コミマスタッフになると決意した、あの時の初心を取り戻す。
「……逃げませんわ」
ここで逃げてしまったら、二年後の夏に起こる大惨事を避けられない。
あかねには、こんなところでくじけている暇はない。
スポーツドリンクを一気に飲み干して、あかねは再び会場へと舞い戻った。
※
閉会のアナウンスに合わせて、拍手が会場を包む。
少しぼんやりしていた三山は、ハッとして遅れて拍手に参加した。
四年間のスタッフ人生でも一番の波乱の日だった。間違いない。
どっと気疲れしているのを自覚しながら、今日は早めに切り上げようと考えていた。
「あの、スタッフさん」
声に振り返ると『てんぺすとガーデン』のチリアが立っていた。
『不可思議樫木』の二人もいる。
「先ほどは、どうもありがとうございました」
「いや……その、大変なことになってしまって」
「いえ、ちゃんと見ていてくださったおかげで、本だけで済みましたから。そうじゃなかったらきっと、兄もチリアさんも怪我してました」
「三人で話してたんです。スタッフさんたちがいなかったらどうなってたか分からないって。あの女性スタッフさんから聞きました。すぐに駆けつけられたのは、大根サラダのシャツの……あなたの指示だったって」
「……」
瑞光寺が手柄を譲ったのだろうか。
いや、そもそも新人のお嬢様にそういう意図はなさそうだ。本当にそう思い込んでいるんだろう。
三山は自分が過大評価されているような気分になって、どうも居心地が悪い。
「それで、スタッフさんに閉会まで頒布してって言われて……正直そんな気分になれないと思ったんですけど、あれから何人も買いに来てくれて、イスに座って見える視界に常にスタッフさんがいてくれましたし」
「あれから周りのサークルさんも凄い気にかけてくれて。僕がもっとしっかりしていれば良かったのに」
「そうだよ兄ぃ。反省してよね」
「してるってば。うるさいな」
「お二人も付いてくださるので、残りの色々も頑張ろうと思います」
カラ元気のようにも見えるが、言葉だけでも前向きになっている三人を見て背筋が伸びた。
今日の経験を、ただの失敗で終わらせるわけにはいかない。
「すぐは難しいかもしれませんが、またサークル参加してください」
綺麗ごとだと分かっていても、そう言いたかった。
チリアは三山の言葉に目を細めると、三山に向かって深く頭を下げた。
「お帰りになりましたのね」
三人の背中を見送っていると、お嬢様の声がした。
いつもの覇気が感じられないのは、疲れのせいか事件のせいか。おそらく後者だろう。お嬢様はしばらく休憩していたと聞いている。
「ああ、閉会まできっちり頒布できたそうだ」
「……ところで三山さん、ひとつお聞きしたいことがありますの」
「何?」
「どうして今日のシャツは『大根サラダ』ですの?」
「この状況でそれ聞くのかよ」
多分お嬢様なりに暗くならないように気を遣ったに違いない。
カートを引きながらホールを出る三人の背中を見送りながら、三山は苦笑いした。
「昨日は『ラーメン』だったから、栄養バランスが大事だと思ったんだよ。つまんないだろ?」
「いいえ。着るものに意味を持たせるなんて、それもまた立派なファッションですわ」
「ファッションか……瑞光寺さんが言うと説得力あるな」
「でも、ラーメンとサラダですと、困りましたわね」
「何が?」
「明日の服は何を選ぶべきなのか」
遠回しに『明日のことを考えろ』と言っているのだろうか。
言われて、まだ最終日が残っていることに気が付いた。
ずいぶん厳しいお嬢様だ。
三山は目を閉じて天を仰ぐと、湿度の高いホールの空気を胸いっぱいに吸って、ゆっくり吐いた。




