プロローグ
初投稿となります。よろしくお願いします。
熱が顔を焼く。
悲鳴と怒声、激しい足音。
規則正しく並んだ机と、上に積まれた本が燃えていた。
同人誌が燃えていた。
記念すべき100回目を迎えた世界最大の同人誌即売会であるコミックマート、通称「コミマ」の会場。
それまでのお祭り騒ぎを一気に消し去って、未曽有の火災現場になっていた。
逃げなければいけないはずなのに、隣の人が膝をついた。他にも同じように、呆然と立ち尽くす人が何人もいる。
「終わりだ」
誰かの呟きが聞こえた。
避難を呼びかけるスタッフの声よりも、鮮明に聞こえた。
燃え盛る炎の中に幾人も倒れている人がいる。
「助けないと」
凛とした声が聞こえた。
ひとり立つ、黒髪の少女。
「でも……」
違う誰かの声がした。
どうやって。この炎の中を。
そして、多すぎる。
逃げまどい、あるいは立ちすくむ人々の中で、黒髪の少女は自分に言い聞かせた。
「ひとつの命を救うことは、無限の未来を救うこと……と、昔習いましたわ」
流れる涙と、汗を振り払い、少女は一歩前に進んだ。
これからコミマはどうなるんだろう。
もう、開かれなくなるかもしれない。
それは文化の死。
すなわち、自分の死に等しい仕打ちだった。
世間からどう見られているかなど関係ない。
燃え盛る炎の中に、誰かを救う本があるのに。
失われた。そして、失われる。
こんなことが、許されていいわけがない。
「わたくしが、救いますわ」
静かな決意を胸に、地獄の一歩を踏み出した。
目が覚めると、いつもの天井があった。
寝汗と涙で枕がジトジトしている。眠りながら泣いていたらしい。
「夢……」
混乱しているのか、息が荒い。
豊かな胸を上下させながら、瑞光寺あかねは枕元に置いた水差しで水分を補給する。
朝の光に照らされた見事な江戸切子は、光の色をエメラルドグリーンに変えて柔らかく広げて見せていた。
まだ手が震えている。
細心の注意を払って、もう一杯水を注ぐ。
時間をかけてゆっくり飲み干して、ようやく落ち着いてきたようだ。
「今日は……大学は休みでしたわね」
幸い時間をかけてゆっくり考えることができる。
時計を見るといつもより少し早い時間だった。
日に日に夜明けが早くなっていることを実感する。
元々地主の家系であり、二代前に商売が大成功してさらに大きくなった瑞光寺家。
その本家の長女である瑞光寺あかねは、この春から女子大生。幼少のころから両親が不在がちだったため、厳しい祖母に躾けられた。
逃避先は、漫画とアニメとゲーム。
オタクへと成長するために実に適した環境だったと言える。
ただ、同じような境遇だった弟と妹は全く別の趣味を持っており、あかねに適性があったという他ない。
自室にあるウォークインクローゼットは漫画と同人誌の書庫になっており、中学生の頃から買い集めた漫画と同人誌が合わせて五千冊程度収納されている。
そんなあかねに対して両親は何も言わず、またあかねとしても学校で好成績を保持している以上何かを言われる筋合いはないと思っている。
「なんてひどい夢……」
シーツと枕カバーを洗濯に出さないと。
自分で洗濯せずとも、昼前にやって来る家政婦に頼めば良い。
他に家の管理人が一人と警備員も兼ねる父の会社の人間が4人ほど、居住区域は区切られているが同居している。
あかねの家はその程度には裕福だった。
端の方とはいえ23区内にありながら、楽に10名が住まいさらに余裕があるほどの豪邸を構えている。
あかねはその豪邸の2階、日当たりの良い広い部屋を与えられている。
「あれはコミマ、でしたわね……」
整然と並んだ机椅子、そして積まれた同人誌。
あかねが中学生の頃から通っているコミックマート通称「コミマ」の光景そのものだ。
そのコミマが巻き込まれる事件。
肌にまとわりつくような、嫌なリアリティに覚えがあった。
「予知……」
瑞光寺あかねは、これまで何度か予知夢、というべき体験をしたことがある。
記憶にある最初は、小学1年の時に旅行先で遭遇した地震。
その次は4年生の時に家の目の前で起きる軽い交通事故を2ヶ月前に夢で見た。ここで予知夢のことを自覚し始める。
中学生の時に見たのは半年後に繁華街で事故に遭う予知夢だったが、その日の予定を変更し回避することができた。ニュースでは夢で見た光景がそのまま映っていて戦慄した。
それまであかねの夢の話に半信半疑だった家族も、事故が起きた場所、車の色、事故の内容が偶然とはいえない一致をすることで、次に同じような夢があったら軽々しく扱わないことを約束してくれた。
それから、回避できたものもあれば、避けられず遭遇してしまったものもある。
起きてしまったものもあれば、そもそも起こらなかったものもある。
「今回の夢は……起こしてはならないですわね」
毎回決まって前日から高熱を出し、寝覚めの気分は吐きそうなほど悪い。
そして、今回もまた、同じだった。
「夢は100回記念だったはず。だとすると、あと3年ありますわね」
ずいぶん先のように思える。こんな先の出来事を予知したのは初めてだった。
「もしかしたら、今から動けば間に合う、ということなのかもしれませんわ」
あの最悪の事件を、どうしたいか。そんなことは考えるまでもなかった。
あかねはすっかり熱の引いた体を起こして自室のパソコンを立ち上げると、早速行動を開始した。
そうして令嬢は、同人誌即売会スタッフとしての一歩を踏み出す。
この物語はフィクションです。
実在の人物・イベント・事件等とは一切関係がありません。