忙しい時ほど火急の用事が飛び込んでくるよね
下界と呼ばれる世界に、大きな大きな大陸があることが人類に知られて百数十年。
大陸のほぼ中央を南北に縦断する大山脈、テンリャン山脈がある。
世界随一の高さを誇る山へと連なる峻厳な山ばかりのそこは、魔力を用いて狩りをする獣つまり魔獣が跳梁跋扈するテンリャン大森林に取り囲まれている。
そんなテンリャン山脈の西側にはドムス帝国があり、その隣には「嘆きの大渓谷」を隔ててパルダリウム公国。そして、大陸の南東の海には諸島群が連なっている。
ここまでは、割とどこの国の首脳陣でも知っている時代になった。
百年ほど前まではドムス帝国内が多くの国に分かれていたのだが、色々あって一つの大国となった歴史がある。
色々あった中には、戦争も含まれるわけで。
帝国に含まれるを良しとせずテンリャン大森林を抜けてテンリャン山脈を踏破して、テンリャン山脈の向こう側に新しい国を建てた人たちがいる。
その末裔たちが細々と暮らしている国、それがフラウ王国。
魔獣達が弱肉強食の世界を形成していた場所を切り開いて建国した初代国王は、英雄王としてフラウ王国内では非常に高く評価されているそうだ。
彼の名言としてよく知られる言葉がある。
「もう二度と奴隷を産みはしない。王の名において誓おう。我が国において職業に貴賤は無い。王は民のために命を懸けて戦い続けるものとする」
実に立派だと思う。
そりゃあ、命がけの開拓についていっちゃうくらい心酔する人たちが出るわ。
ただ、フラウ王国建国史という、フラウ王国建国時の大臣がまとめた本をパラパラとめくって、私が抱いた感想は一つ。
「国王自ら魔獣討伐をしながら山を越えて差別のない国を造ったはずなのに。百年たったら、魔獣討伐を騎士だけにさせて王族は城にこもりきり。下級神官を神殿ごと焼き討ちして。貴族が平民に横暴なまねをするようになって。ヒトの価値観の変遷って不思議よね」
私は、神殿の図書室の片づけがてら適当に開いた古い歴史書を本棚に戻した。
「ルル。フラウ王国建国史考なんて開いてどうしたのさ」
背後から声をかけられて振り向けば、明るくきらめく金色の巻き毛の美少年、トルペがすぐ後ろにいた。
母方の親族ブテオ一族の族長の養子で、跡取り修業のために多種多様な仕事をこなしている頑張り屋さんだ。
今は、フラウ王国のブテオ男爵家に従僕として期間派遣されている。
すんなりと伸びた手指を器用に動かし、すらりとした足で音もなく素早く移動するため、手入れの行き届いた猫のようだと気位の高いフラウ王国貴族からもよく褒められている、らしい。
お手入れをかかさないピンクのぷるぷるな唇を尖らせて言っていたから、愚痴か自慢か判断しかねたのはよく覚えている。
なにはともあれ、トルペは有能なのは間違いない。
悔しいけれど、今も声を掛けられるまで気づけなかった。
私は物心つく前から、ヒトの気配には敏くなるよう訓練しているはずなのだけれど、トルペにはどうにも適わない。
私がじっと見ていたら、トルペが春空を思わせる澄んだ水色の瞳をキョトンと瞬いた。
くるんと上向いた長い睫毛が風を起こさないのが不思議でならない。
「なに? 俺の顔に何かついている」
ちょっと気づかわしげな声に、慌てて首を振る。
「ううん。元気そうで良かったと思って」
「そっか。ルルも元気そうでよかったよ。ここのところルル一人きりになることが多かったから、心配していたんだ」
はい、私の適当な誤魔化しに、瞳をキラキラさせた愛嬌のある笑顔をいただきましたー。
正直に言おう。
顔の造作の完成度も、身長の高さも、心根の美しさも、私はかなわない。くやしい。
できる美少年トルペは仕事ぶりも合わせて方々で評判らしく、フラウ王国貴族たちから色々な意味で引っ張りだこなのだそうだ。
中には露骨に愛人や性的愛玩動物として求めてくる連中もいるとか。
そんな連中を穏便にもてなす事も仕事に含まれいて、なおかつ私よりはるかに仕事量があるのだから、投げ出したいと思わないのか、無理しすぎではないのか心配なのだけれども。
いつだってトルペはひょうひょうとして仕事をこなしている。
「トルペも、働きすぎないでね。そろそろ配置換えできないの? こちらの方がトルペにかかる負担は少ないでしょう」
これ、私が寂しいからだけでない。
元々、ブテオ一族の族長は天空神殿か、天空神殿に繋がるテンリャン山脈山頂付近にある「テンリャン山本神殿」で暮らすことが多いのだ。
ブテオ男爵の家では従僕に過ぎないけれど、テンリャン山本神殿に戻れば次期族長として上げ膳据え膳で丁重に扱われる立場である。
「うん。もう少しブテオ男爵の街屋敷で働く必要があるんだ。頑張るよ。まぁ、そんなことより、ルルが読んでいる本の方が気になるかな」
露骨に話題をそらされた気がするけれど……。
働き者なトルペに仕事中に仕事に関係のない本をチラリとはいえ読んでいるところを視られてしまった事実に、なんとも後ろめたい気持ちになってくる。
「ここの片付け、これが最後の一冊だったのよ。ヴィクトール様からよく聞いたフラウ王国英雄王の当時の資料をまともに読んだことがなかったなぁとおもって」
私が茶色いお下げ髪をいじりながら、ごにょごにょと言い訳をしたら、トルペがぷっと息を噴き出して笑った。
「あはは。ルルはやっぱり気持ちの基準がヴィクトール様なんだね」
図星を指された私としては、ぐっと言葉に詰まるしかない。
トルペをにらんでやろうとして、話題をそらす方法に気づいた。
今日は肩まで伸びた髪を黒いベルベットのリボンで結んでいて、おそろいのリボンをつかったタイに、黒ベストとズボンに黒革靴それと白シャツという、ブテオ男爵家の従僕の公式お出かけスタイルである。
「わ、私のことはどうでも良いのよ。トルペこそ、忙しいんでしょう? 従僕の格好のままってことは、どこかへのお使いの途中じゃないの? 」
すると、トルペは胸を張って自慢げな笑みを浮かべた。
「今日は普通のお使いじゃない。なんと、族長から頼まれて天空神殿とドムス帝国にある開拓村の神殿へ手紙を届けに来たんだ。ブテオ男爵公認で、街屋敷にある風と情報の神様の泉を使わせてもらったんだ」
「えぇっ。相当重要な仕事じゃないの。届け先は私の父さんたちのところ? それとも、風と情報の神様のところかしら」
私は軽くのけぞった。
世界中の「風と情報の神様の泉」は、テンリャン山脈最高峰のテンリャン山の頂上近くにあるカルデラ湖を繋ぐ「瞬間移動」の奇跡を神官にもたらす場所である。
その中でも、ブテオ男爵が街屋敷の地下に隠されている風と情報の神様の泉は男爵様の許可が必要なこともあり、使われるのは特別な急ぎの用事がある時だけである。
そう、本当に重要で急ぎの用事があるときだけ。
どんな重要な用事なのかソワソワと体を揺らしながら私が訊ねようとしたら、トルペがニンマリと悪戯を思いついたような顔で笑った。
「あと、もう一つ」
もったいぶって右人差し指を立てて見せるトルペに、私は思わず身を乗り出した。
「なに、あと一つあるの? 」
ドキドキと好奇心に心臓を高鳴らせていたら、トルペの立てたままの右人差し指と中指の間に、ぱっと封蝋の押された上質な白封筒が現れた。
「ルル。君が最高に幸せになる贈り物だよ。ヴィクトール様からの直筆の手紙。この間の討伐に神官として現場で補佐してくれたことへのお礼状だって」
両手に持ち替えて恭しく差し出された封筒のあて名と署名に、私の目はくぎ付けになった。
震える手で受取り、目を皿のように丸くして、私は封筒を隅から隅まで観察する。
「えぇぇぇぇぇぇっ。ほ、本当? あぁ、本物だわ。これはヴィクトール様が御当主様から贈られた懐刀の柄を使った封蝋。それに、この流麗だけれど力強い、最後の一文字だけ少し角ばる署名。間違いなくヴィクトール様の署名だわ。ヴィクトール様が丁寧に私の名前を書いてくださっている。この封筒をいただけただけで私は果報者よ」
高く高く封筒を掲げながら、私は心の中でヴィクトール様に何度も頭を下げた。
銀色の髪を腰まで伸ばし、銀色の金属鎧を身に着けた白皙の美青年。氷のような白銀色から青色へのグラデーションの瞳。
目を閉じれば瞼の裏にくっきりと思い出せるご尊顔に、私はうっとりと見とれた。
「えぇぇ。なんだか変態じみた感想だなぁ。あ、変態は今さらか」
さらっとトルペが吐いた毒に、思わず私の眦が跳ね上がる。
「何ですって」
刺々しい声で詰め寄る私に、トルペは軽く肩をすくめて見せた。
「だって、変態じゃなきゃ片思いしているだけの相手のために命がけの仕事はしないよ。オーガキングが率いていた群れの討伐なんて、普通の神官はいかないからね。ましてや女の子は苗床にされやすいから、まず拒否するよ。というか、拒否しなきゃダメだから」
「そ、そうかしら」
あまりにも冷静に指摘されて、私は思わず動揺してしまった。
そこにトルペは追い打ちをかけてくる。
「そうだよ。無事に帰ってきたから、あえて苦言を呈する人がいないだけだから」
さも当然のように言ってきたけれど、私はなんとか反論の余地を探す。
「そ、そんなことないわよ。ほら、あの、友情のために命を懸ける人だって世の中にはいるんだから」
閃いた! とばかりにまくし立ててみたけれど、トルペの顔は白けたままだ。
「まぁ、いいや。本当はさ、ヴィクトール様は手紙をとある商人に預けるつもりだったんだって。でもね、どうも商人見習いが商品を持ったまま出奔しちゃったらしくて。どうにも信用ならない。代わりに、下級神殿と付き合いが深いブテオ男爵様を頼ってこられて、僕にこの手紙を託されたんだ」
「なるほどー。って、今までだったら、地走りトカゲ便で、御実家のベールクト辺境伯を通じて送ってきてくださったのに」
ふんふんと頷こうとして、私は腕を組んで小首をかしげた。
トルペと鏡写しの姿勢になっていたことに今さら気づいたけれど、気にしない。
「しかも、返事はいらないって伝言までつけられたんだ。変だよね」
「変ね」
二人で小首をかしげたまま頷きあって、姿勢を正す。
トルペが眉尻を落としたのに、私は引っかかった。
「トルペも変よ。気がかりなことをそのままにしておくなんて」
「気になるけれど、こっちはこっちで忙しいから探りを入れる余裕もなくてさ」
嘆息交じりの言葉にトルペの落ち込み具合が感じられて、私は動揺してしまった。
「どうしたの? 何があったの」
うかがうように訊ねると、物憂げに首肯された。
「ブテオ男爵が営んでいる人材派遣会社から王城に派遣されていた従僕が、貴族に切られた」
そう言って、トルペはうつむいて握りこぶしに力を込めた。
「フラウ王国の貴族から目つきが気に食わないと言われて取り押さえられ、躾けと称して懐剣で足の腱を切られたんだ。不幸中の幸いで、ブテオ男爵が出席しているお茶会の席でのことだったから、ブテオ男爵の手配ですぐにテンリャン本神殿へ運ぶことができた。命に別状はない。ただ、心と体の消耗が激しくて。治療にあたってくれた医神様の精霊曰く、時間をかけて正しい訓練をすれば機能も取り戻せるだろうって」
トルペが苦虫をかみつぶしたような顔で吐き出したのは、聞きたくなかったレベルの悪い知らせだった。
医神から頼まれた「怪我人をかくまう準備」は、このためだったようだ。
「ひどい。……でも、助け出されたなら良かったわ。こちらで機能訓練をすれば良いのね。こちらの精霊たちに頼んでおくわ」
私は医神様の精霊たちに機能訓練を頼む手はずを頭に組み立てながら確りと請け負った。
すると、トルペが更なる爆弾を放り込んできた。
「あぁ。それなんだけれど、大規模なお引越しになりそうなんだ」