戦争嫌いなお姫様と戦争帰りの勇者様
「婚約者に裏切られた私は熊より強くなりました」
に登場した影の薄い第一王女さんの話です。
孤高と孤独の違いは、どこにあるんでしょう。
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小さい頃から、戦争が…戦いが嫌いだった。
戦えば死ぬ。戦争をすればいっぱい人が死ぬ。
死んだ人たちはもう生き返らない。
母上のように病で死ぬこともあるのに、わざわざ殺し合う気持ちがわからなかった。
そして、生き残った人達は殺した側の生き残りを憎む。
大切な人を殺された憎しみが、別の大切な人を殺すことを正当化する。
そんなことをしてたら世界から人間はいなくなる。
愛する妹も、父上もいなくなってしまう。
だから私は、戦いが嫌いだった。
嫌いだから知りたくなかった。
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「私と勇者様が結婚…ですか?」
それは勇者様が出発する少し前の、突然の縁談だった。
いきなり何を言い出すのだ父上。
「うむ。勇者様は平民の生まれながら広い戦術眼を持っている。特に後方支援、補給線を重視する考え方は魔王討伐後の戦後処理でも大いに役立つだろう。お前の隣に立つに相応しい男だ。」
そうだろうか。私は戦争上手の妻は御免被りたい。
何より彼は平民ではないか。身分差はどうするのか。
「もちろん、彼には爵位と準王族の地位を与える。お前が女王を目指すにあたって枷にはならぬ。」
…まるで私の頭を見たかのような説明だ。
だが一理ある。
彼は魔王討伐の行軍に際し、随行人数の圧縮と補給関係の増強を進言したらしい。平民なのに戦争上手なのかと僅かに嫌悪を覚えたが、より確実に聖女たちを守るためだと知ってからは、人命に重きを置く考え方ならばと好ましく思っていた。
誰にせよ、人は死なせないに限る。
「街と前線を結ぶ地点の、比較的安全な地帯への臨時病院建設を提案したとお聞きしました。」
何よりもこの提案が好ましかった。
そういう考えは今までもあっておかしくなかったはずだが、意外なことにこれまで議論はされてこなかった。
これまで重視されていたのは前線に設置した野戦病院の防衛強化だ。
前線にほど近い位置で応急手当の場として設置し、怪我をした戦士を速やかに治療し、軽傷ならばもう一度戦場に向かわせ、重症ならば後送、つまり街に帰す。
そして助からない者は"退院"させてベッドを空ける。
それはある意味効率的ではあったが、同時に浪費的な考え方だった。人命を極限にまで数字化した考え方で、私は一番嫌いだった。それに重症者を送るにしても街までの距離が長いことが殆どで、運送の最中に死亡する例が頻発していた。そしてそれが今の戦場の常識となっていた。
「街と前線を結ぶ位置に置けば薬の補給も受けやすく、かつ比較的早期に高レベルな治癒を受けられますから、薬も設備も、そして聖女も不足しがちな野戦病院よりも確実に多く助けられますね。何より安全地帯からなら街にも帰しやすい。良い考えです。」
「うむ。それに怪我をしたときに十分な治療を期待できるという環境は、兵士の士気を高めるだろうな。私も兵站の大事さを再勉強させられたよ。」
この点は本当に素晴らしく、かつ今後も採用して頂きたいやり方だ。最も、そんなことが起こらない事が一番だが。
「それと娼婦の手配、それも娼館設置の件だな。魔王との戦いを前によくぞこの冷静かつ寛容な手配を思いついたものだ。勇者様の意見を尊重して小隊規模としたが、中隊規模を任せてもうまく行軍できたかも知れん。」
娼婦と聞いて顔をしかめた。こちらは私には全く理解できない。
嫌悪感で冷静でなくなり、口が滑った。
「勇者様はなぜ娼婦の手配まで進言してきたのですか?不潔です。戦争をしながら女を抱きたいと言うことですか?」
「………控えろ、クリスティーヌ。」
大きな声ではない。むしろ今までで一番静かな声だった。
にも関わらず、部屋の温度が急激に下がり、空気がビリビリと音を立てた。静かな怒りを湛えた父上が、魔獣も怯むとされる威圧の欠片を私にぶつけてきたのだ。
いや、欠片をぶつけてすらいないのかもしれない。以前叱責をまともに食らった騎士は、その場で跪いたまま失神していた。
つまり怒りを覚えた…たったそれだけのことで、私は呼吸すら不規則になっていた。私が最後に父上に怒られたのは、いつだったろう。
「娼館は、行軍中の強姦や性的略奪を予防する重要な兵站物資だ。そして行軍中の矛先は、民衆や敵だけではなく、最も手近にいる味方にも伸びる。今日死ぬかもしれない人間は、平時では思いもよらぬ事を起こす。そうすれば望まぬ妊娠や性病によって士気が落ち、その後の人生が陰るのだ。若き聖女たちが随行する騎士や冒険者の餌食にならぬよう、本来我々が考えねばならぬ下世話なことまで考えてくださったのだと、何故わからない。」
そこまで言われて、自分の発言が失言だったことを認めざるを得なかった。過去敵軍によって女子供が陵辱されて敵国との混生児を大量に出産させられたり、またその子供たちが虐待され、奴隷として売買されてきた歴史は確かにあった。
だがここ100年は侵略戦争はおろか、国を跨いでの長距離行軍すらまともに無かった。だからその歴史を忘れていたわけではないが、直近の事例として頭に思い浮かばなかった。
まさかそこまで彼は考えて、娼婦を手配したというのか。味方の士気だけでなく、行軍先の民衆の未来まで見据えて。
…大きい。器が大きすぎる。
「………申し訳ありません、父上。私が不勉強だったことを認めます。勇者様の名誉のためにも、発言を撤回させてください。」
「…よかろう。」
その一言で、再び部屋に暖かみが戻った。
侍女たちの一部がそのあまりの温度差にめまいを起こしている。
「だが、今日来たのはお前に戦争学の中等講義をする為ではない。あくまで、勇者様との結婚のことを話したいのだ。」
そう、それだ。私はそんな男と結婚をすることになるらしい。
「お断りすることは?」
「できる。」
父上は意外にも即答した。しかし。
「だが勇者様の事を知ろうともせず"嫌だから"という理由でこの結婚を拒否すると言うのなら、お前に王の資格は無いと知れ。」
………なるほど。それは正論だ。暴論でもあるが。
恐らく「勇者様の事を知った上でなら良いのか」と重ねた場合も、私は王位継承争いから外されるだろう。
つまり、応じるしかないと言う事か。なら仕方あるまい。
「わかりました。私、勇者様と結婚します。」
「…うむ。」
ただし、仮面夫婦となったとしても、私の責任ではない。
こうして私と勇者様は、育めるほどの愛も無いまま結婚することになってしまった。
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勇者様一行は、はじめ比較的順調だったらしい。
私は父上が受け取っていた定時報告を読ませて頂いていた。
少しでも勇者様の足跡を辿って、彼を知ろうとした。
今日はどこまで行った。食料を確保した。しばらくはここを拠点にする。
はじめはそういった無難な内容だった。
だが、旅に出て数カ月以降、その記録は凄惨で、私の価値観を打ち砕く内容へと変化していった。
"魔王軍"という名称など記号に過ぎず、私が抱いていた戦争観などあまりにも幼稚で、現実を知らなかったものだと思い知らされた。
100を下らない数のクレイジーウルフ達に襲撃され、騎士3名と冒険者5名、聖女1名が生きたまま食われたこと。その聖女がまだ13歳だったこと。
村がメタルエレファントの群れに住民ごと家屋を踏み潰されて生存者がいないどころか、死亡者の数さえ曖昧で数えられなかったこと。
キラーレイヴンの群れに襲撃され、冒険者と聖女の中に完全失明者が3名出たこと。
最後の騎士が行軍中に発狂し、勇者様が介錯を行ったこと。そして事切れる寸前に正気を取り戻して礼を残したこと。
魔王と対峙する10日前には、既に3名しか残っていなかったこと。
これらは一度の報告辺りほんの2,3行ほどで書かれた非常に簡素な内容だったが、城にいた私ですら腹を拗じられ、頭をぐちゃぐちゃにかき回されるような気分になった。
なぜ私は彼らが出発する前、このような怪物共を相手に和平交渉をしようなどと夢見たことを考えていたのだろう。
自分の考えが現実とあまりに乖離している事実に恐怖した。
拠点で待機していた聖女たちに戦略クラスの攻撃魔法が直撃した話を読んだときは、アフタヌーンティーを全て吐き出してしまった。外での交戦経験を持った騎士の中にすら、報告書を読んで気分を悪くする者が多かった。
週報を読んだ日は眠れず、眠れた日には夢に見た。
どこかで週報の内容には誤りや誇張があって、何人かは生き残りがいるんじゃないかと夢想した。だが、帰ってきた勇者一行は、やはり3人だけだった。残っていたのは勇者様と、行軍の途中で正式にその呼称を認められた剣聖と聖女だけだ。
報告書を読み続けてきた私には、無事に帰ってきたこと以上に彼らが正気を保っていることの方がよほど奇跡に見えた。私は文字で見ただけで吐いたのだ。では、目の前で見て、聞いて、嗅いできた彼らは?
地獄という言葉すら安易な表現に思える現実の中を戦い、それでも生きて帰ってきてくれた彼らのことを、もはや戦争上手と嗤うことは出来なくなっていた。
私にはもう、勇者様にどう接したらいいかわからなくなっていた。私が知っている勇者様と言えば、戦術に優れた一面を見せたことと、謁見の間で演説したあの姿、そして定時連絡の週報だけだ。
何が好きで嫌いなのか。私との結婚をどう思ってるのか。そして、なぜ戦えたのか。
父上の言葉など関係なく、私自身が、彼を知りたいと思った。
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「私の話をしたい…ですか?」
「はい。勇者様が帰ってくるまでの間、私はそればかり考えていたんです。床を共にする前に、お互いのお話をさせてください。」
第一王女クリスティーヌとの結婚を迎えた初夜。
俺はネグリジェ姿のお姫様に突然そんなことを言われて困惑した。
「私の話と言っても…特に話せることなどありませんよ?」
王家に提出した身元調査書に偽りは書いていない。
家族構成や、いつ冒険者になり、いつ光の力に目覚めたかは、身元調査書に過不足なく書かれているはずだ。これ以上何を知りたいのだろう?
「いいえ、勇者様。私達はお互いの事を何も知りません。私が何を好み、何が嫌いで、どうしてこうしてあなたと話したいと思ったのか。勇者様は何も知らないではありませんか。」
「お互いに、ですか。私も姫様のことを、姫様も私のことを…なるほど。」
そういうことか。確かにそれはそうかも知れない。
出発前は結婚してから向き合おうと楽観的に考えていたが、そもそも彼女は愛を抜きにして初日から子供を作らねばならない立場にある。
そして目の前にいるのは、婚約して以降一度も同じ時間を過ごさずに結婚した、ほぼ初対面の男だ。当然俺にとっても、彼女は初対面のようなもの。
どういう経緯にせよ、俺と姫様は夫婦となるのだ。
契を交わす前にお互いを知るのは、確かに大事…というより、普通はその順序で進めるものだ。
むしろ現在の状況は色々飛躍している。一度気持ちを整理する意味でも必要かもしれない。
「面白いですね。是非話し合いましょう。」
「ありがとうございます。では、ルールを決めてお互いに質問し合うことにしませんか?」
「ルール、ですか…?」
なんだ?ゲームでもするのか?
「お互いに交互に質問して、その質問には可能な限り誠実に答えるようにしましょう。一度に質問するのは一つまで。答えたくない場合は、答えたくないと言っていいものとします。」
「ですが、それでは一方的になることもありえませんか?片方が答えたくないと言い続けることもありえましょう。」
「それならその程度の夫婦関係だということです。2回連続で答えなかったら、そこでお終いにしましょう。」
ほう、なかなか言うじゃないか。面白い。
こういうところはちょっとジュリアに似てるなと思いかけたが、ネグリジェ姿のあいつを想像しかけて、自己嫌悪に苛まれた。今ならあいつに処刑されても文句言えないな…。
「…同じ質問もできますか?」
「一度他の質問を挟んだあとなら良いとしましょう。」
妥当だな。
「…わかりました。では、お姫様からどうぞ。」
密かに処刑を覚悟した俺は、目の前の美少女に向き合い、ゲームを開始した。
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聞きたいことは山程ある。だけど、一方的に聞くだけじゃ聴取にしかならない。彼が知りたいことに私も答えないといけないと思った。私達には圧倒的に対話が足りなかった。
だからこそ、このルールを提案した。ほぼ初対面の私達が、いきなり踏み込んだ話をすることは難しいだろう。だが一問ずつ答えて聞けば、彼の核心に近づけるかもしれない。彼にも、私の核心に触れてもらえるかもしれない。
乗ってくれるかは賭けだったが、まずはよかった。
さあここからが問題だ。何から聞こう?
私はとりあえず、軽いところから聞いてみることにした。
「勇者様は、娼婦を利用されたことがありますか?」
「…はい!?」
……あれ、なんだろうこの反応。
そんなにおかしなことを聞いただろうか。
「確か、行軍する前に、娼婦の手配を指示されたとお話を聞きましたもので、ご自分でも利用されたのかなと思いまして。」
「…………え、あ、本当にそれ聞きたいんですか!?冗談とかでなく!?」
「ご経験があるなら、今晩も安心しておまかせ出来るかなと思いまして。」
私なりにちゃんと考えての質問なのだ。誠実に答えてもらおう。
「………な、ない。というより俺…じゃない、私は童貞です。」
「童貞…とは?ああ、それはいいのですが、何故使わなかったのですか?」
「ま、待って!それはともかく私の番です!はい!質問します!」
彼は心底慌てたように右手を天に伸ばした。
え、な、なんか良くない質問をしただろうか?
大事なことだと思ったんだけど…。
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いきなり娼婦を使ったのか聞いてくるとか、なんなんだこの子!?一応今日は新婚初夜だぞ!?
かなり知的な雰囲気を醸し出していたのに、急に残念な子に見えてきた。…やはり、あの妹にしてこの姉ありってところなのか?
「あの、ご質問は?」
ど、どうする…正直、この子のことがわからなくなってきた。
何を聞けば良いのか皆目見当もつかない…。
……うわ、すっごいキラキラした目で見てくる。
仕方ない…えーっと。
「私が魔王討伐に行ってる間は、何をされてましたか?」
無難な質問を選んだつもりだったが、その直後、彼女の表情が固まった。答えあぐねたようで、目線が泳いでいる。
普通に政務に励んでいたとでも答えるかと思っていたんだが…何かあったのか?浮気…ではなかろう。それはあの国王が許すまい。
「………ごめんなさい。」
「答えたくありませんか?」
「いえ、お答えします。でも、もう少し後にさせてください。多分、今お答えしても、ちゃんと伝わらない気がしますから。どうぞ、もう一つご質問ください。」
…まあいいか。俺もそんなに重要とは思っていない。
世間話の域を出ない質問だ。ありがたく質問を重ねよう。
「では、お姫様の好きなものを教えてください。何個でも良いですよ。」
「えっと、私が好きなものは読書と、お茶会です。特に色んな人といっぱいお話するのが好きなんです。私はお城から出ることがあまりありませんから、色んな人の経験談を聞くのが楽しいんです。あ、でも夜会はちょっと苦手です。お酒に酔った人とかに変な目で見られることがあって…。」
お、お姫様だなぁ…。
ちょっとどころではない住む世界の違いに慄きつつ、相槌を打ってみせる。これから俺が住む世界は、そんな彼女の隣だ。慣れないとな。
「なるほど、社交的な方ですね。少し羨ましいです。私はどちらかと言えば、内向的で、村にいたときも友達らしい友達は一人しかいませんでしたから。」
「そのお友達とは今も仲良しなのですか?」
「正確には仲直りしたというべきですね。エド…剣聖と結婚した彼女がそうです。彼女とは魔王討伐の旅に出る直前に喧嘩別れしたんですが、魔王討伐後の凱旋中にどうも俺の勘違いだったことがわかりまして。また友達になってくれることになりました。」
「お幸せですね。」
会話が弾んでいく。少し俺も楽しいと感じ始めていた。
だから油断したまま質問をしてしまった。
「ええ、全くです。姫様にはお友達はいますか?」
これも世間話のつもりだった。
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「姫様に友達はいますか?」
その質問は、私の胸を突いた。
「……姫様?」
「友達とは…何をもって友達なんでしょう。」
友達…私に友達なんていただろうか。
私はいつも争いを嫌った。誰かと何かを比べるのも負ける子が出てくるから嫌った。討論も、論破すれば相手が負けるから好きじゃなかった。
私はいつも一人で自分を磨いてきたと思う。
でも、誰かが横にいたことがあっただろうか。
「私…友達なんていたのかな…。」
ううん、きっといなかった。
人はいずれ死ぬ。母上のように。
死ななくたって、嫌われたらいなくなる。
世界中から嫌われたら、きっと私は生きていけない。
失うのが怖かった私は、友達を作ろうとしなかったんだ。
そう考えたらなんだかとても寂しくなってきてしまった。
視界が暗く、そして滲んでいった。
「…隣にいて嫌じゃない相手なら、きっとその人とは友達になれますよ。」
その優しい声に、はっと顔を上げた。
視界が明るくなっていく。
「姫様、もし失礼でなければ、私と友達になりませんか。ああ、夫婦だから友達になるというのも変か…?」
この人は、何を言ってるんだろう。
「そうだ!夫婦の契を交わすまでの間は、友達でいましょう!私も、姫様のことはクリスと呼びます。良いですか?」
馬鹿みたいだ。
とっくに夫婦で、お互いに半裸みたいなものなのに。
馬鹿馬鹿しい。顔まで真っ赤にさせて。
…馬鹿馬鹿しいのに…私の胸がポカポカと温かくなった。
ああ…そうか。
「はい…お願いします、勇者様。」
「シャルルです。」
「…はい、シャルル。」
私は結婚初夜になって、初めて友達ができたんだ。
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「えっと…どっちが質問するんでしたっけ?なんか、ごちゃごちゃになっちゃいましたね。」
「ふふふっ、そうですね。」
この子、こんなふうに笑えたのか。俺は内心ひどく驚いていた。
花のように笑う彼女が美しいと思えた。
出会った時は堅苦しくやや幼い印象だった彼女だけど、目の前にいる彼女は…クリスは美しかった。
まるで、固かった蕾がほぐれて咲いたばかりの花のように。
「あの…そろそろあの質問にお答えします。その…と、友達に隠し事はできませんから。」
そう言った彼女の頬は桜色に染まっていた。俺を直視できないのか、やや斜め下を見てモジモジしている。
しかも今更になって少し肌を隠そうとし始めた。
くそ、なんだこの生き物は。かわいすぎる。尊すぎるぞ。
こんなに可愛い人が嫁でいいのか!?
すまんセイラ!お前のことは割と早く過去にしてしまいそうだ!
間違いなくこの時の俺は、幸せすぎて夢見心地だったと思う。
だが、次の言葉は俺を夢から覚ますのに十分だった。
「…シャルルからの定時報告を読んでいました。」
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「俺…からの…それって」
紅潮してた彼の顔が、一気に青褪めていく。
「はい。魔王討伐に向かうまでの定時報告です。」
「………そうだったんですね。」
彼はきっと、旅を思い出しているのだろう。
その目はあまりにもたくさんの感情が溢れていて、私の両手では汲みきれない。
「そっか…クリスも読んでくれてたんだ。」
怒り、悲しみ、憎しみ、慚愧、後悔、そして………郷愁。
暗い暗い負の感情の中の、ほんの僅かな思い出が、彼の口の端を持ち上げていたようだった。
「あなたの…シャルルのことを知りたくて…シャルルの旅を共有したくて、父上からお許しを得て読んでいました。」
「……あの人も食えないな。それで、どうだった?王女様にはきつい内容だっただろう。俺が書いていたものは、楽しい旅行日記ではなかったと記憶しているけど。」
はい。時々胃の中のものが空っぽになるくらい吐いてました。
夢にも見ました。
でも読むのをやめませんでした。
だって、知ってしまったから。
「私、勇者様の事をずっと誤解していたんです。」
「誤解…とは?」
そう、私は誤解していた。
「私、勇者様は戦争が得意な人だと思ってたんです。戦争のことを考えるのが好きだから、行軍の前にたくさん、準備のことを考えてたんだって。戦争が怖くないから戦争に行けるんだって、そう誤解してたんです。」
「…誤解ではないよ。きっと俺は、戦争が割と上手な人だ。いや、戦争が好きなのかもしれない。」
彼は努めて露悪的に話しているように見えた。
口の端を強引に持ち上げて、歯を見せて笑ってみせている。
まるで自分こそが魔王であるかのように。
「自分が立てた作戦が上手く行ったとき、嬉しかったんだ。俺の作戦で敵はいっぱい死んだのに。仲間が二人死んだ時も、たった二人で済んだって安堵してたこともある。クレイジーウルフに13歳の子が生きたまま噛じられてた時だって、一瞬だけ、俺じゃなくて良かったって思ったんだ。これで旅をまだ続けられるって、安心したんだ。」
それは後悔と呼ぶのも躊躇われる、重くて冷たい、罪悪感の塊だった。
暗く嗤いながら話している姿は、もはや魔王というより死神だ。
「きっと俺は、世界で一番汚い男だよ。」
確信を持った、否定を許さない声。でも、そんなはずない。
「…それは違います。」
彼の頬にそっと手を当てた。
「…だったら、じゃあ、どうして、泣いてるんですか。」
その頬は濡れていた。
仲間の死を、そんな顔で悲しめる人が、汚いはずない。
なんて優しい人なんだろう。
勇者だからと魔王のもとに送り込んだのは、私達だ。
あなたに魔王と戦える力があるから、あなたを頼った。
私達に魔王と戦える力がないからって、あなたに任せた。
それなのにあなたは、誰かを責めるんじゃなくて自分を責めて、自分のせいで死んだんだって信じてるんだ。
なんて、なんて尊い人なんだろう。
あなたよりも高潔な人を私は知らない。
あなたのことをもっと知りたい。
あなたの名前をもっと呼びたい。
ああ、ハッキリとわかった。
私は、今、この人に恋をしたんだ。
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泣いてることに彼は本当に気付いてなかったらしい。
慌てて目を擦って、慌てすぎたのかベッドのシーツで涙を拭っていた。
「す、すみません!あの、あの、俺…俺…ああ、すみません。」
混乱しているのか、言葉になっていない。
ごめんなさい、シャルル。でも、これだけは聞かないと。
「…あと一つだけ、私から質問させてください。私、ずっとシャルルに…勇者様に聞いてみたかったことがあるんです。」
今夜、この質問を聞けたら、私のすべてをあなたにあげてもいい。
「戦うのは…怖いですか?」
彼は驚愕のあまり、完全に動けなくなったようだった。
今までの話を聞いて、私は確信してた。
彼はきっと、すごく臆病なんだと思った。
だって、あの人は出発式の時だって。
『打倒せよ!!魔王軍!!輝きし光の奔流は我らとともにある!!勝利は我々の手に!!』
彼は予定にない演説をして、部隊の皆を鼓舞してた。
だけど、一番近くにいた私は、彼の手が、足が、震えているのが見えていた。
あの時は見間違いだと思ってた。勇者様ともあろう人が、きっと武者震いだろうって。
でも、違ったんだ。
あの時、勇者様は、シャルルは、ただ怖くて震えてたんだ。
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それは、俺の根っこの部分に対する質問だった。
そうか、この子は。クリスは。
俺のことをそこまで考えてくれてたのか。
俺は君を知るのは結婚した後でいいなんて、そんな適当なことしか考えてなかったのに。
参った。
俺、この子に惚れてる。完全に惚れちまった。
この子を心から愛したいって思ってる。
だから、ちゃんと答えなきゃ。
俺の気持ち。俺の心を。俺の、傷を。
「戦うのは…怖いよ。」
その言葉に、クリスは目を見開いてみせた。
きれいな瞳だ。その瞳を見ていれば、その先を答える勇気が湧いてくる気がした。
「今でも戦うのは怖いんだ。ソードラビットに腕を斬られるかもしれない。オウルベアーの爪に裂かれるかもしれない。ソルジャーボアの牙に串刺しにされるかもしれない。目の前の魔獣を見ると、そういう事が一瞬で全部頭の中を流れるんだ。笑えるだろ。ウサギを見ただけで、俺は死ぬほど怖いんだ。」
手の震えが大きくなる。体全体が震えだした。
みっともねぇ…カッコワリぃ…恥ずかしい…。
でも、クリスは黙って聞いてくれていた。
俺に勇気をくれる大きな瞳を真っ直ぐに向けて。
「でもさ…一番怖いのは人を斬る時なんだ…。」
遂に、声まで震えだした。喉が痛い。頭が痛い。目の前が滲む。揺れる。きっと涙も流れてる。
彼女の瞳だけが俺の意識をとどめていた。
「今でも…人を斬った夜は眠れないんだ…。斬った山賊が夢に出て、お前のせいだって叫ぶんだ…!俺以外の皆は、山賊をやった後もぐーぐー寝てるのに…俺だけが怖くて…ガタガタと震えながら寝袋の中で縮こまってた…!怖かった…!!すごく怖かったんだよぉ…!!!」
目の前がぐちゃぐちゃで何も見えなかった。
「なんで俺が勇者だったんだって、毎日呪ってた…!!魔王だって人かもしれないのに…なんで殺しに行かなきゃいけないんだ!!人を殺す勇気なんていらない!!それが勇者だってんなら、俺、俺、勇者になんてなりたくなかった!!人を殺すくらいなら!!俺は魔王に殺されたほうがずっと良かったのに!!」
それは、俺が今までずっと叫びたかった、心の傷だった。
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目の前が…真っ暗になった。
意識を失ったからじゃない。何かで顔が覆われたんだ。
きっと顔はぐちゃぐちゃで不細工になってる。
クリスに嫌われちゃったかもしれない。
そんな顔なら隠してくれたなにかに感謝したかった。
顔を覆ってたものが、ブルブルと震えてるのがわかった。
首筋に冷たいものがいくつも落ちてきた。
俺はこれを知ってる。
これは…涙だ。
「ありがとう…ございます…!全部話してくれて…ありがとう…シャルル…!!」
クリスは泣き叫ぶ俺を抱いてくれていた。
「怖かったね…つらかったね…!!ありがとう…!いっぱい我慢してくれて…ありがとう…!!」
そして俺と一緒にクリスも泣いてくれていた。
「シャルルは…やっぱり勇者だよ…!怖いのに…すごく怖かったのに…自分がやらなきゃって立ち上がって…戦って…勝って…!すごいよ…シャルル…!シャルルが…シャルルが勇者様じゃなかったら…私…もうきっと死んじゃってた…!!」
「そっか……俺……魔王から君を守れたんだ…。」
ああ、今日はなんて幸せな日なんだ。
俺、勇者だから絶対泣いちゃいけないって、そう思って。
怖いのとか全部隠して戦って、褒めてもらえればそれでよかったのに。
俺は、もう、誰かの前で泣いてもいいのか。
「俺…勇者になれて…良かった…!!」
俺たちは泣いた。泣き続けた。
シーツは涙で濡れて、わけわかんないくらいぐちゃぐちゃに泣いて。
いつの間にか二人で抱き合いながら、泥のように眠ってた。
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「恐らくお前のことだから、勇者様のことがある程度わかったら離縁の相談でもするかと思ってな。そろそろかと思い呼びつけたわけだが。」
父上は、私をわざわざ客間に呼んで、その答えを聞いてきた。
「それで、勇者様のことを知ることはできたか?」
「…少しだけですが、彼に触れることができました。」
「そうか。」
父上は、それがなんでもないかのような態度で、紅茶に入れたミルクを混ぜている。
父上、ありがとうございます。
私はこんなにも愛されていたのですね。
「勇者様と話してたら、私、自分のことにも色々気付けたんです。」
「…何に気付いた?」
「私は逃げてました。」
ミルクを混ぜる手が止まった。
「立派で、戦争をしない国にしようとして、いっぱい勉強していました。でも、それなのに私は友達を作ることもせず、誰にとって幸せな国を目指しているのか、まるで考えていなかったんです。誰かと比べることをしなかったから、戦争を嫌う人達が皆私と同じような人間だと思いこんでました。」
戦争をしない国が幸せなんだと思ってた。
今でもそれは間違ってはいないと思ってる。
けど、私は今まで戦争をする必要のない国にしようとは考えてなかった。
豊かな国がなんなのかを私はちゃんと考えていなかった。
だから私は、もっとこの国のために考えたい。
この国のためになることを、あの人と一緒に見つけていきたい。
そのためには、私はあなたの隣にいたいの、シャルル。
「彼のおかげで、戦いたくないのに戦っていた人もいたことに気付けました。彼は、それでも戦ってくれていたんです。」
「……それに気付けたのなら、よい。これからも――」
「いいえ、父上。私はもう決めました。」
「……。」
あなたの上には、いたくないの。
「王位継承権を、放棄します。」
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第一王女クリスティーヌの王位継承権放棄については、その時はまだ保留されていた。
魔王討伐直後かつ第一王女と勇者の結婚という朗報が周知された直後であり、民衆が沸き、戦後の財政赤字解消に向けた景気回復に大きな期待がかかっていたというのがある意味一番の理由だった。
魔王との戦争は、通常の戦争と異なり戦後賠償請求が発生しない。戦争責任の所在が国ではなく魔王個人にあるため、魔王討伐にかかった費用はそのまま赤字となり、国を蝕んでいく。
まさか消滅した魔王に賠償請求などできない。
故に、戦後の財政赤字は経済活動によってのみ回復させていくしかない。
そういった事情もあり、実際に王位継承権放棄が発表されたのは、私がジュリアの専属護衛に任命されて2年後のことだった。
つまりどういうことかと言うと。
「………御父上が結婚式翌日にそのまま発表してくださっていれば、アンリは第一王女派から命を狙われる心配はなかったわけですわね。」
そういうことである。
この事実が判明してしばらくの間、国王は愛するジュリアから非常に冷たい目線を浴び続け、大いに胃が荒れたという。
なお、私としてはジュリアの側にいられるようになったのだから、結果オーライだったわけだが。
クリスティーヌさん、見事にやらかしてくれてました。
若さゆえ仕方ないのです。