成長というものは評価が難しい。
駄文で短いのは保証します
人間的に“成長“という言葉は、あくまで個人的な価値判断だが、嫌いだ。
なぜなら成長の過程で得たものの裏で時間や労力と言ったコストを無視しているから。
失ったものを勘定に入れずに得たものだけを考えているから。
両者の天秤が最初から傾いているからだ。
天秤という考え方をするなら変容、もしくは変化、が一番ニュートラルな良い言い表し方だと言える。
成長で得られた変化はその効果全体が現れる人生全体で評価する必要があるのでそれこそ人生最期の瞬間に評価するしかないからだ。塞翁が馬とあるようにそこまでの途中経過において否定も肯定もあるべきではない。
もっと言うと、退化があくまでも進化の一種であり、必要ないものにかけるコストを惜しんだ結果であるように、進むことがいいことだとは一概には言えないし、人生の全容を見ていない人間が評価すると『てめえに何がわかる』となるわけで評価も本人、もしくはいるとすれば本人の背後霊、または先祖の霊的なものしかできないと言うことになる。
つまり、赤の他人でなくとも、なまじっかその為人を知っているからか口出ししやすい家族ですらも、その人生、変化した人柄を評価し本人に告げることはタブーに近いと考えられる。
その瞬間の評価で人生に変化が加えられると言う言い方にすればその重大性が明確かもしれない。
結論。自分も他人も知らないのだからお互い人の人生に口出しすんじゃないよ、お里が知れるぜ。鬱の人とかも評価するのやめようぜ。思考停止万歳(絶賛思考停止中)。