第8話 狩人の小屋
アイシャは、十五歳の誕生日に前世である邪竜アイシャザックの記憶が蘇ったという。
では、それまでの彼女は、いったいなんだったのか。
前世の記憶がなかったころの彼女は、消えてしまったのだろうか。
消えているわけではないのだ、と彼女はいう。
過去と現在の記憶が混ざり合い、新しいアイシャになっただけなのだと。
そもそも、記憶なんてものはアイシャという人格を構成する要素のひとつにすぎないのだと。
おれには、詳しいことはわからない。
ひとつたしかなこととして、彼女は「過去の自分」と「いまの自分」を使い分けることができるということだ。
いまこうして、ノーラを前に「おしとやかな貴族の令嬢」を演じているように。
最初におれと会ったときの態度、口調は、それが「ふさわしい」からそう演じたにすぎない、と彼女はいう。
尊大で、傲慢で、豪胆。
それこそが、邪竜アイシャザックの生まれ変わりとしてふさわしい態度であろうと。
それこそが、邪竜を退治した勇者のひとりに相対するにふさわしいのだと。
彼女は、そう信じ、おれの前で演じてみせた……らしい。
だから、なにがほんとうの自分なのか、というのは彼女にとってどうでもいいことなのだという。
どちらも、ほんとうの自分であることに疑いないのだから。
そう、おれに念を押して……。
彼女は、ノーラとの会話に戻っていく。
「小屋に食料はどれだけ残っているのかしら。ボールド・ボアの肉を持っていきましょう。コガネ、お願いするわね」
「へいへい、お嬢さま」
「へい、はいちどでいいの! まったく、もう。コガネは礼儀を知らないのだから」
おれは、アイシャのお嬢様口調に笑いをかみ殺しつつ、ボールド・ボアの解体を手際よく終わらせた。
魔物の血は青いが、肉に関しては動物となんら変わりがない。
むしろボールド・ボアの肉は、飼育し品種改良した上等な牛肉よりおいしいと評判なほどである。
魔石も回収しておく。
ウォーモモンガの魔石と違い、大人の拳くらいはある大型の魔石で、鈍色に輝いていた。
「きっと、子どもたちも喜びます。昨日から、ほとんどなにも食べるものがなくて」
「それはたいへんだったわね。だいじょうぶよ、コガネは狩人としても優秀だから。きっと、全員を養ってあげられるわ」
なにいってやがる、とおれは心のなかで考える。
風の魔術を得意とするいまのアイシャは、ただ動物を狩って肉を得るだけなら、おれなんかよりよほど優秀に違いないのだ。
彼女が竜としての能力を隠そうとすることじたいは、間違ってないと思うのだが。
単純に、いまノーラを警戒させても話が面倒になるだけだからだ。
ひとまずは状況を掴み、これからの指針を立てることを優先している。
おれも、その方針に異存はない。
おれたちは、ノーラの案内で村の近くの小屋まで赴いた。
森のはずれ近いところにあるものの、巧妙に隠蔽された狩人の小屋に。
ノーラの声を聞いたのか、痩せた子どもたちが泣いて出てきた。
*
小屋にいた子どもたちの年齢は、おおよそ五歳から十歳。
男の子がふたり、女の子が三人で、そのうち臥せっていた男の子はノーラが調合した薬を飲んだあと安らかな寝息をたてはじめる。
この様子なら命に別状はないだろう、というのが彼女の見立てであった。
残りの面々で、鍋を囲んだ。
もちろん、主食はボールド・ボアの肉だ。
子どもたちは、競い合うようにガツガツと肉をむさぼった。
「慌てなくても、いっぱいあるから」
ノーラが苦笑いしているが、これまでの食糧事情を考えれば子どもたちの気持ちは理解できる。
なにより、おれもかなり腹が減っていた。
子どもたちに負けず、肉をむさぼり……アイシャに「恥ずかしい従者ですね」と笑われてしまった。
仕方がなかったのだ。
なにせ、さきほどいちど魚を食べたとはいえ、空腹という感覚そのものが五百年ぶりだったのだから。
それはあまりにも強烈な欲求で、そしてそれを満たすことは想像を超えて甘美だった。
幸いにして、ノーラがいう通り、肉はたっぷりとあった。
なにせ普通の猪よりはるかに巨大なボールド・ボアの肉である。
さすがに全部は持ちきれなかったのだが、もしすべての肉があれば、一日の村ひとつぶんの食料を賄えるほど、といわれるくらいだ。
もっとも、味に関してはたいしたことがないらしいのだが……。
空腹は、最高の調味料。
そういう言葉もある通り、おれたちは競うように肉を喰らいまくり、アイシャを呆れさせた。
子どもたちは、食事のあと、糸が切れたように寝てしまう。
空腹を抱え、ノーラを待って不安なときを過ごしていたのだろう。
無理もない。
「さて、ノーラ。村のこと、村を占拠したものたちのこと、詳しいことを教えていただけるかしら」
アイシャは、これからは大人の時間だとばかりに、かつて侍女だった女に訊ねた。
ノーラは「お嬢さまを巻き込むことなどできません。明日の朝、すぐにここを去ったほうがよろしいのです」といってきかなかったが、その気遣いを断固として拒否しての質問である。
「ですが、お嬢さま」
「ボールド・ボアを一撃で倒したコガネのちから、信じられませんか」
アイシャの言葉に、ノーラがおれをみる。
お嬢さまのご命令だ、おれは、せいぜい頼もしくみえるよう、不敵に笑ってみせた。
「で、ですが。相手は、訓練を受けた兵士が五十人以上ですよ」
「数は問題にならないわ、ノーラ。それに……驚かないで、よく聞いて欲しいの。じつは、わたし、魔術が使えるようになったのよ」
アイシャは、簡単な風の魔術を行使してみせた。
ノーラは目を丸くして、「いったいどうやって」と首をかしげている。
彼女が仕えていたころのお嬢さまには魔術の才能など欠片もなかったのだろう。
そう、魔術は才能によるところがおおきい。
使えない人間は、どれだけ努力しても使えない。
たとえ、どれほど強大な霊気があってもだ。
逆に、才能さえあれば幼くとも少しの訓練で第一階梯、第二階梯の魔術を操ることができる。
さすがに、第三階梯の魔術には、相応の修行が必要らしいが……。
おれはそのあたり、詳しくない。
魔術の才能など、これっぽっちもなかったのだ。
もし才能がみつかっていれば、たとえ孤児院の出でも貴族に拾い上げられ、もっと楽な子ども時代を過ごしたかもしれない。
まあその場合、邪竜を退治した勇者のひとりになることもなく、貴族の私兵として使いつぶされる人生だっただろう。
「いまはみせてあげることができないけど、わたし、空を飛ぶこともできるのよ。このちからとコガネのちからを組み合わせれば、きっと兵隊たちを追い払うことができるわ」
「そ、そうでしょうか、お嬢さま」
「だから、お願い、ノーラ。あなたが知る限りのことを教えてちょうだい」
お嬢さまの言葉を、どこまで信じたのだろう。
はたしてノーラは、迷ったすえ、彼女が知る限りの村の情報を開示してくれた。
兵士たちについて、みたこと聞いたこともすべて。
幸いにして、村を占拠したものたちに高度な魔術の使い手はいないようだ。
せいぜい、火や水、風、土の第一階梯が使える程度で……この程度なら日常生活には便利だが戦闘では問題にならない。
いまのおれを包む霊気を破ってこの身に傷をつけるなら、せめて第三階梯の魔術は必要である。
彼らの装備も、ぼろぼろのようだった。
軍馬は一頭たりともなく、ほとんどの兵士が長槍を持っていないようだ。
これでは、まともな軍隊としての行動など不可能だろう。
いや、違うのか。
まともな軍隊ではなくなったからこそ、こうして近くの村まで逃げ延びたのか。
彼らは、きっと……王都の騒乱で負けたものたち、敗残兵なのだろう。
そして彼らは、この村のひとびとを搾取している。
より弱いものたちを踏みにじっている。
おそらくあと十日もすれば、食料もなくなり、彼らはこの村から出ていかざるを得なくなるだろうが……。
そのとき、村のひとびとはもう、再起するちからすら失っているに違いなかった。
いま、ここでおれたちが立ち上がらなければ、きっとそうなってしまうだろう。
「手伝うのか」
おれは、ノーラが用を足しに小屋を出た隙に、小声で訊ねる。
「うむ。村を解放する」
ノーラの目がなくなったからか、アイシャは傲岸不遜な口調に戻り、そう断言してみせた。
瞳を炎のように燃え上がらせ、にやりとしてみせる。
「ノーラは、われにとって大切な者である。助けることにためらいはない。コガネ、おぬしには手伝う理由がなかろうが……」
「やるさ。いばりくさった傲慢な兵士なんて、おれが二番目に嫌いなものだからな」
「すまぬな、コガネ。……いや、ここは感謝の言葉をかけるべきであろう」
ところで、とアイシャは首をかしげる。
「今後のために聞いておこう。おぬしがいちばん嫌いなものとは、いったいなんだ?」
「そりゃ、いばりくさった生意気な貴族さ」
「それは誰のことであるか」
咎めるように下唇を突き出すアイシャをみて、おれは笑う。
*
翌日、早朝。
不安そうなノーラと子どもたちを小屋に置いて、おれとアイシャは村の様子が一望できる丘の上に立っていた。
粗末な柵が、四、五十戸の村をぐるっと囲っている。
柵の内側に、弓を手にして、ぽつりぽつりと立つ兵士たちの姿がある。
その鎧は傷つき、ほころび、ぼろぼろだった。
あまり真面目に見張りをしているわけではないようで、柵によりかかり、居眠りしている者も多い。
「やれやれ。早朝の奇襲なんて、見張りがいちばん警戒するべきじゃないか」
「敵の気が緩んでおるのはよいことであろう、コガネよ」
「ま、そりゃそうだ」
最初は、おれが正面から乗り込もうと思ったのだが。
それはアイシャに止められた。
相手が村人を人質にした場合、厄介だからだ。
とはいえこの様子ならば、あまり凝った作戦を弄する必要もないだろう。
おれとアイシャはうなずきあう。
「《優しき螺旋の風、彷徨う大気の精、集い満ち巡り舞い、われらが身に纏う翼となれ》」
アイシャが風の第三階梯を行使する。
おれと少女の身体が、ふわりと宙に浮きあがった。
鳥のように宙を自在に飛ぶことができる魔術、フライングである。
ただしこの魔術、霊気の消費が激しいとのこと。
アイシャがギリギリまで霊気を絞り出しても、ふたりで飛行して、ゆっくりと二百を数えるくらいしか保たない。
しかもそのあと、彼女は疲れ果てて、なんの魔術も使えなくなってしまう。
今回は、村までさしたる距離がないため、充分に霊気が保つだろうと判断した。
空中から強襲できるメリットのほうが、ずっとおおきい。
おれとアイシャは天高く舞いあがり、村へ近づく。
幸いにして、兵士たちは地上ばかりみて、おれたちの接近に気づいていない様子だった。
よし……いくぞ!
おれたちふたりは、村の柵を越えたあたりで急降下する。