第7話 侍女ノーラ
夕刻まで、歩き続けた。
たまにアイシャが、風の魔術で木々の上まで舞い上がり、方角を確認する。
いまの彼女の場合、ふたりまとめて空中を高速で移動するというのは「少しばかり骨が折れる」とのことであった。
魔術には、ただ霊気があればいいというものではない。
精霊に呼びかけて霊気を繊細に行使する能力、それを維持する能力も重要で、いまの彼女にはそれが決定的に欠けているのだという。
「例えるなら、旅琴を弾く楽師が、病で指先の微細な感覚を、美麗な音程を維持し続ける声の張り失ってしまったようなものだ。リハビリを続ければ、いずれもとに戻るかもしれん。しかしいまは、雑な音を奏で、雑な歌を唄うことしかできぬ。物語の面白さだけで、なんとか聴衆を集めているだけなのだ」
赤毛の少女は、寂しげに笑う。
それでは風の精霊たちも満足してはくれぬのだと。
実際のところ、現在の彼女は精霊という超自然の存在を感知することすら困難らしい。
失ったものを想い憂う横顔。
そんな姿は、ありし日のあのかたを思わせて……。
胸が、きゅっと痛む。
「竜の身ならぬ己には、もはや叶わぬ夢よな。竜であったころは、世界に無数の友がいた。大地そのものと会話することすらできた。いまは、木々とも空ともこの土とも、話のひとつすらできぬ。その記憶すら、断片しかないのだ」
それは、おれには想像もできない世界の話であった。
竜であったころの彼女のありかたとは、なんと壮大であるのだろう。
もっとも、その壮大に世界と対話していた竜は、ほかならぬこのおれたちが退治したのだけれど。
「恨んでは、おらぬよ。それもまた理のひとつ。われはヒトに挑み、そして破れ去ったのだ。次の生においてそのヒトに生まれ、なぜか竜としての記憶が蘇ってしまうとは、しかも因縁浅からぬおぬしとこうして旅をしようとは、なんと奇妙なことと思わぬでもないが」
「おれだって、そりゃ奇妙な気分さ。あの邪竜が、こうしてかわいらしい女の子になっちまっているんだから」
「ふむ。口説くのであれば夜にしてもらいたいものだな」
そういうんじゃねえよ。
アイシャは、呵々と笑う。
冗談なのだろう。
こいつめ。
あのかたと同じ顔になったかと思えば、絶対にあのかたがしないだろう、豪快な顔をみせやがる。
いったいどこまで、おれの心を乱すというのか……。
と、おれは後ろを歩く彼女に振り向き、仕草で静かにするよう促した。
アイシャは笑顔をひっこめ、真面目な顔になる。
おれは耳を澄ます。
声が、聞こえてきたような気がしたのだ。
ヒトの悲鳴……それも、女性の声が風に乗って届いたような……。
「あっちだ」
おれは、進行方向のやや右手を指さした。
走りだす。
アイシャがすぐ後を追って来るのが、足音でわかった。
全身に霊気をまとい、加速する。
風林の皆伝、纏速だ。
全盛期のおれよりも速いな、と考える。
少女に竜の霊気を奪われたとはいえ、五百年間、練りに練りあげたおれの霊気は、かつてのおれをはるかな高みに引き上げていた。
もっともそれは、ただ霊気の量だけの話だ。
武芸の衰えは否めないだろうし、かつて使っていた武器も防具も魔導具も失ってしまった。
総合的にみて、戦闘力は五百年前の半分程度だろうか。
それでも、かつては邪竜にも届いた高みの半分。
たいていの魔物を相手にするには不足とならないはずだが……。
「《吹き抜けよ疾風》」
だがアイシャは、全力で走るおれをあっという間に追い抜いた。
少女の背中が、淡く虹色に輝いている。
ウィンド・ステップ、風の第一階梯の魔術の半短縮詠唱だ。
「急ぐのであろう」
アイシャが手を差し出す。
おれは、そのたおやかな手をとった。
ちいさな手にちからが入る。
「《吹き抜けよ疾風》」
ふたたび、少女が魔術を行使する。
暴風が強烈に背を押してきて、おれは、思わず「うお」と声をあげた。
転ばないよう足にちからを入れ、地面を蹴る。
猛烈に加速する。
少女に並ぶ。
全力を出せばもっともっと速度を出せるような気がしたが……これ以上は、きっとおれ自身がおれの速度を制御できないだろう。
それに、風の魔術を行使する彼女のちかくで、彼女の制御を受け入れなければ、このちからはきっと十全に発揮できない。
それには、彼女と足並みをそろえる必要があった。
かつては、ネハンという仲間の魔術を受けて戦っていたおれだ、いわれずとも理解している。
ふたたび、女性の悲鳴が届いた。
こんどはアイシャにも聞こえたらしい。
その口もとが、きゅっと引き結ばれる。
「すぐ近くだ。いけっ」
「おうさ」
アイシャが手を放し、その手でとん、とおれの背を押した。
風の魔術が込められていたのだろう、おれはさらにひときわ加速する。
おれは地面を蹴り、おおきく宙を舞う。
茂みを飛び越え、木立を抜け、景色が高速で切り替わる。
邪魔な枝葉をまとめてへし折り、おれは空中でバランスを維持しながら矢のように飛ぶ。
木々の向こうに、ひとの背丈の倍近い、黒い巨大な影がみえた。
魔物だ。
おれは近くの大木を軽く蹴り、進路を変更、その巨大な影めがけて突進する。
剣に霊気を込め、ふりかぶる。
すれ違いざま、斬撃を見舞う。
巨大な影の、その首を一撃で刎ね飛ばす。
おれは反対側の茂みに飛び込む寸前、振り返って、それをみた。
首を失った巨大な猪の魔物が、青い血しぶきあげながらその身を地面に横たえるさまを。
その少し脇で、頭を抱えて悲鳴をあげる女の姿を。
どうやら、この猪の魔物に襲われて、女は逃げ続けていたようで……。
間一髪、助けることができたか。
そう思ったとき、おれの剣の刀身が微塵に砕け散った。
どうやら、いまの霊気を込めすぎた一撃に耐えられなかったようだ。
仕方がないか、なまくらにしてはよくやったさ。
そんなことを考えながら、おれは柄だけとなった剣の残骸を放り投げ……。
ついた勢いのまま、己の身を茂みの向こう側に投げ出した。
*
おれが倒した猪の魔物は、名をボールド・ボアというらしい。
助けた女性が教えてくれたことだ。
彼女の名は、ノーラ。
薬草をとりに村からひとり、この森のなかに分け入って……。
運悪くボールド・ボアに襲われたのだという。
「ノーラ! あなただったのね!」
「お嬢さま! どうしてここに!」
その女性は、遅れてやってきたアイシャと、ひしと抱き合っていた。
アイシャのかつての侍女にして、おれたちが目指していた村の知り合い。
それこそが、おれが助けたこの女なのであった。
これもまた、縁か。
おれは、ノーラという女を観察する。
三十台後半くらいの女性で、少し小太りながら、手足はがりがりに痩せて顔色も悪そうだった。
「会えてうれしいわ、ノーラ。わたし、ずっとノーラに会いたかったのよ」
「こちらこそ、心配しておりましたよ、お嬢さま。王都でぶっそうなことがあったって、村でも持ちきりだったんですから」
「そう、ね。いろいろ、あった。でもみての通り、わたしは、わたしだけは、こうして無事だったわ」
ところで、さっきからアイシャの口調が気持ち悪い。
なんだこのお嬢さま口調。
いや、これがアイシャザックの記憶を取り戻す前の口調なのはわかるのだけども。
アイシャは、ちらりとおれのほうをみて、わかっているなとばかりにうなずいた。
わかってるさ、おれだって少しは空気を読む。
ここでちゃちゃを入れたりはしないって。
アイシャは手短に、王都であったことを説明してみせた。
己の家族がどうなったかも。
ノーラは、天を仰ぎ、それから泣き出してしまった。
「おお、おお……旦那さまも奥方さまも……。なんて、なんてことでしょう」
「いいの。もういいのよ、ノーラ。すべては終わったことなのだから」
ああ、むずがゆい。
ツッコミを入れたい。
おれが背中を掻いていると、アイシャはノーラのみていないところで中指を立てておれを威嚇した。
「おいたわしや、お嬢さま。身一つ、使用人もこの男ひとりで逃げてきたのですね」
「ええ、そうなの。だいじょうぶ、コガネは信頼できる男よ。みてくれは、この通りだけど」
なにがこの通りなんですかね、お嬢さま。
たしかにいまのおれは、監獄城の兵士から奪った革鎧を着ているだけ。
どこかの三下と思われても仕方のない恰好だが……。
てめー、あとで覚えてろよ。
あと、侍女のみてないところでべーっ、と舌を出すのやめろ。
「ところで、ノーラ。どうして狩人でもないあなたが、ひとりで薬草探しなどしていたの」
「それが……お嬢さま、じつはいま村は、たいへんなことになっていまして。お嬢さまに頼られるのは嬉しいのですが、その、村には来られないほうが……」
「たいへんなこと? ノーラ、どうか話していただけるかしら」
アイシャが訊き出したところによると、いまノーラの住んでいるハイジャ村には、軍の一部隊が駐留しているらしい。
軍の部隊、といっても実際は王都の混乱から逃げ出した者たちの集まりで……。
統制を失った荒くれものたちが、じつに五十人あまり。
「やつらは野盗同然なのです」
数日前から村を占拠し、好き放題にしているという。
村の男たちは外に出ることを禁じられ、若い女たちは……まあ、ノーラが口を濁すようなことになっているらしい。
彼女自身は、機転を利かせた夫が、子ども数人とともに村の外の小屋に逃げるよう促したため難を逃れたようだ。
狩人が森を監視するためにつくられたその小屋で、ときおり村の様子を観察しながら子どもたちの面倒をみていたノーラだが……。
子どものひとりが、熱を出してしまったのだという。
ノーラは唯一の大人として、薬草を採集しに森の奥に向かい……しかし普段と違い狩人の案内もなく、迷ってしまっていまに至る、とのことだった。
「ちなみに、本来の小屋の持ち主でしょう村の狩人は?」
「まっさきに、殺されました。横暴な兵隊さんに抗議して、その……。やさしくて、勇敢なかたでしたよ、お嬢さま」
ノーラは、また泣き崩れてしまう。
アイシャと会って、気持ちが切れてしまったのかもしれない。
無理もないな、と内心でため息をつく。
「とにかく、ノーラ。薬草はもう採れたのね。じゃあ、はやくその小屋まで戻りましょう。もう日が暮れるわ。コガネは屈強な男だけど、夜は魔物の時間よ。子どもたちも待っているのでしょう?」
アイシャはノーラを促す。
いやあ、堂にいったお嬢さまっぷりだ。
おれは必死で笑いをこらえて……あ、こらアイシャ、おまえノーラがみてないところで膝に蹴りを入れるな。
「コガネおぬし、あとで覚えておくがいい」
小声でそういって、膨れっつらで、おれを睨む。
はいはい、ノーラがこっちを向くぞ。
ころっと態度を変えて、アイシャは「行きましょう、ノーラ」と小川の流れのように澄んだ声を出す。
おれの腹筋がやばい。
やばいが、いまはこらえるしかない。