第6話 五百年ぶりの食事
朝日を浴びて、森のなかを少し歩いたところで、ぐう、とおれの腹が鳴った。
思わず、笑い出してしまう。
そんなおれを、アイシャが不思議そうに眺めた。
「おぬし、なぜ笑う。空腹のなにが、そんなにおかしいのか」
「おかしいさ。おれはこの五百年、いちども、なにも口にしていなかったんだぞ」
喉が渇いたことも、お腹が空いたことすらなかった。
アイシャザックの血をこの身に浴びてから、ずっとだ。
帝国軍に囚われ、過酷な取り調べを受けていたころ、そんなおれをみて、もはやこれはヒトではないのだと罵る声も聞いた。
それがいま、こんなにも空腹を訴えている。
こんなにおかしいことが、こんなに素晴らしいことがあるだろうか。
「竜は、大気の霊気を吸収することで生きる。おぬしもそういう存在となっていたのであろう。ヒトではない、というのは事実その通りであったのだ」
「きみが、そんなおれをもとのヒトに戻してくれたわけだ。ありがとうな」
「われにとっては、ただ貸したものを返して貰っただけのこと。礼をいわれる筋合いはない」
アイシャは、どこまでも傲岸不遜な態度であった。
白いドレスは少し薄汚れているが、その精神には一点の曇りもないと。
朝日を浴びて、燃えるように赤い髪が輝く。
紅蓮の瞳は、まっすぐに前をみつめている。
その様子に、おれはどうしても、ありし日のあのかたを重ねてしまい……。
心に、鈍い痛みを感じる。
思わず、視線をそらしてしまう。
彼女に悟られないよう、ちいさくため息をつく。
「飯は、監獄城の親切なやつらが用意してくれたわけだが、さて」
おれは気を取りなおし、耳を澄ます。
獣の気配を探るが……ふむ、せせらぎが聞こえる。
「川が、あっちにあるな。せっかくだ、川べりまでいって、食べるか」
おれは進行方向から少しずれた茂みの向こうを指さした。
ちなみに現在、おれたちふたりは近くの村に向かっている。
アイシャの知己が住んでいるとのことである。
この場合の知己、とはアイシャが記憶を取り戻す前、貴族の令嬢であったころの交友関係だ。
もとは彼女の屋敷の侍女で、その村の人間と結婚して屋敷を辞めたのだとか。
親しい間柄であったらしい。
「保存食だけじゃ味気ない。せっかくだ、魚をとろう。きみも腹が減ってないか」
「そこそこ、であるな。おぬしから霊気を返してもらったとはいえ、この身はまだ、竜よりずっとヒトに近いようだ。われもまた食事を所望するぞ」
「きみがヒトじゃなくなるには、ぜんぜん足りない、ってことか? おれにとっては充分でも」
彼女にも、そのあたりはよくわかっていないらしい。
だが現に、アイシャという少女は多少の空腹を覚えている。
歩き疲れてもいる、と少し恥ずかしそうに告白してきた。
「霊気をとりこみ、もう少しは頑健になるかと思ったが、いささか期待外れであるな」
「おれの歩くペースについてこられるだけでも、たいしたものじゃないか。なんの訓練も積んでいなかったんだろう?」
行軍訓練を受けた兵士ですらも音をあげるほどのペースで歩いていたつもりだ。
彼女が平気な顔でついてくるから、そういうものかと気にもしていなかった。
「魔術のほうも、思ったよりずっと制御が難しい。さきほどから魔術を試しているのだが、実戦では風の第三階梯がせいぜいであろう。ほかの属性は、子どもの遊戯程度であるな」
「へえ、魔術を使えるんだな。そりゃ頼もしい」
おれは詳しくないが、ひとくちに魔術といっても、扱う精霊の属性によって区分がある。
ヒトが行使できる精霊の属性は、五つ。
火、水、土、風、そして光だ。
ちなみにおれは、魔術がいっさい使えない。
風の第三階梯といえば、五百年前の帝国軍の魔術師部隊では精鋭の部類だろう。
それでも充分にすごいこと、と思うのは……しょせん、ヒトの身で測ってしまうからか。
「おぬしの仲間は、はるかに優れた風の魔術を行使しておったであろうに」
「ネハンのことか。あいつは、本物の天才だったからな」
かつての仲間を思い出す。
いま彼は、無事でいるのだろうか。
アイシャによれば、ミル以外の仲間の行方はさっぱりだというが……。
「ま、ないものねだりをしても仕方があるまい。ほかの奴等からも霊気を取り戻せば、もっと高位の魔術もコントロールできるようになろう。それまでは、そなたに苦労をかける」
「構わないさ。ミルがそれを望むなら、な」
ところで、とこの機会におれは訊ねる。
「城で隊長っぽいやつが使っていた魔剣術、ってあれはなんだ? 五百年前はみなかった技術なんだが」
「われは剣術などわからぬ。おぬしが知らぬというのなら、この五百年で発達したものであろう」
アイシャはぶっきらぼうに告げる。
やっぱり、そうなるか。
この時代のなにが昔と同じで、なにが昔と違うのか、もっとよく調べる必要があるな……。
せせらぎに導かれ、おれたちは小川にたどり着く。
いちばん深いところで、膝まで浸かるほどの川だった。
魚をとるのは、簡単だった。
川の中央に立ち、掌を水に漬けて、霊気を一気に送り込む。
水が、柱のようにぶわっと立ちのぼった。
巻き込まれた何匹もの魚が、陸に打ちあがる。
草の上で、腹をばたばたさせていた。
「雅の欠片もない魚釣りよな」
「腹が減ってるんだ。悠長に釣りなんてやってられるか」
火を起こすのは、アイシャの魔術に頼った。
着火の魔術は、どんな属性を使う魔術師にとって初歩も初歩で、アイシャいわく「子どもの遊戯」である。
魔術の苦手なおれにとっては、これ以上なく便利な技術に思えてならないのだが。
精霊に語りかけるためには、生来の才能が必要なのだ。
おれにはそれが、致命的に欠けていた。
この身にあるのは、練り上げた霊気と鍛えられた武術の腕だけである。
少女の掌から生まれた炎が、乾いた木の枝を燃焼させる。
焚き火は、遠くから目立たぬよう、木々の傘の下で行った。
背嚢からとりだした小鍋で水を沸騰させ、保存食の干し肉を投入する。
ついでに、魚を木の枝に刺して焼く。
ほどよく魚が焼けたあとで、かぶりつく。
「まずい」
それが、五百年ぶりの食事の、正直な感想だった。
痩せた川魚は、砂っぽくて、骨ばかりで、味もなにもあったものじゃない。
同じく魚にかぶりついたアイシャも、顔をしかめていた。
水で茹でた肉をかじる。
固くてぼそぼそしているが、強い塩味のおかげで口直しにはなる。
「ううむ、もう少しマシな料理ができればよかったのであるが」
「これはこれで。なにもかも揃った旅なんて贅沢、片手で数えるくらいしかしたことがない」
「記憶が戻る前のわれは、いちおうは貴族の娘であったゆえ、舌が肥えた」
アイシャは、そこそこ身綺麗にし、そこそこの教養を身につけ、そこそこの食事をしていたという。
そんな平和な家庭も、クーデターにより、一夜にして崩壊した。
生き残ったのは、彼女ひとりであった。
はたして、押し黙ったおれになにを感じたのか……。
アイシャは、「気にするでない」と笑いかける。
「すでに終わったことよ。無論、アイシャザックとしての記憶が戻るまでの人生が無益だったわけではないが、失われたものに拘泥して前を向けぬようでは時の精霊に笑われよう。あやつらは、未来をこそ尊ぶのだから」
「よくわからんが、それがきみの矜持なら、まあ承知した」
おれたちは、粗末な食事を強引に腹に収めたあと、焚き火の跡を消して出発する。
*
時折、休息を挟みつつも夕方までなにごともなく森の獣道を歩き続けた。
おれは旅に慣れていたし、アイシャは竜としての記憶がゆえか、その肉体が頑健になったおかげか、過酷な行軍にも文句ひとついわない。
正午を過ぎ、日が傾き始めたころ。
おれは、歩みをとめる。
すぐ後ろを歩いていたアイシャは、おれの背中に鼻をぶつけて「ぎゃん」と悲鳴をあげた。
「痛いぞ、コガネ。急に止まるな」
「囲まれている。樹上だ」
「ふむ」
おれがそういっても、アイシャは頭上を振り仰いだ気配がしない。
相手と目を合わせれば、その瞬間から戦闘が始まると理解しているからだ。
このあたりは、前世の経験があるゆえの思慮だろう。
「われが探ろう」
「魔術か」
「風の魔術の、初歩である。《囁け導きの声》」
少女が魔術を行使した。
第一階梯を半短縮詠唱している。
淡く暖かい風が、うなじを撫でた。
五百年前は、魔術に長けた者たちとともに行動していたからこそ、彼女がいまなにをしているのかすぐに理解できた。
風の魔術で周囲の空間を探ったのだ。
「ウォーモモンガが、前の樹に二体、後ろに三体、右と左に二体ずつ」
「ムササビの魔物、だったか」
「今世で手に入れた知識によると、猿ほどの体躯で宙を滑空し、集団で狩りをするらしい。森の凶暴な捕食者であるな。辺境の村を管理する場合、ウォーモモンガの群れの討伐は最優先事項であると。狩人殺し、という異名もある」
なるほど、森の行軍において、樹上から集団で襲われることの恐ろしさは骨身に沁みて理解している。
訓練された軍隊であっても、身動きのとりにくい場所で奇襲を受けては甚大な被害を出してしまう。
単独やペアで行動することが多い狩人ならば、なおさらだろう。
「われの魔術の腕を確かめるか?」
「いや、自衛だけでいい。おれも、いまの自分のちからを確認したい」
「了解した。われが足手まといにならねばよいがな」
一歩、無造作に前進する。
それを合図としてか、かん高い声をあげて、周囲の木々から一斉に黒い影が飛び出してきた。
これがただの狩人に対する奇襲であれば、ひとたまりもなかったことだろう。
だが、ここにいたのは、おれだった。
かつて邪竜を退治した勇者のひとり、当代最強の剣聖と謳われたコガネであった。
あいにくと、いまは満足な得物もない。
おれの手にあるのは、兵士たちから奪った、量産品で手入れの悪いなまくらの剣がひと振りだけ。
だが、仮にも武神の最後の弟子にとっては、一本の剣でも最強の武具たりえる。
前脚と後ろ脚をいっぱいに広げ、その間に張られた皮膜で風を受けて滑空する巨大なリスに似た魔物。
それが、頭上から迫る。
鋭く伸びた爪と凶暴に開かれた口から覗く牙が、おれを狙いすましている。
おれは、剣に軽く霊気を込めた。
硬化功、と呼ばれる霊気の使いかたである。
おれの顔面めがけてすっ飛んでくるウォーモモンガに対して、剣を正眼に打ち下ろす。
真っ二つに両断してみせた。
ウォーモモンガから噴き出た青い血が周囲に舞い散る。
そう、魔物の血は青い。
やつらはヒトのようにまっとうな生物ではない。
返す刀で、時間差で飛んできた一体を、下からすくい上げるように剣の腹で叩く。
ぎゃっ、と悲鳴をあげて、そのウォーモモンガは斜めに弾き飛ばされ、その身体が右手からきた一体に衝突する。
これで、合わせて三体。
左手から襲ってきていたウォーモモンガの体当たりを、おれは身を沈めて回避する。
低い姿勢で、右手からの残る一体に、横殴りの一撃。
これの首を刎ね飛ばす。
おれはそのまま、身をひねって後ろをみる。
「《猛き疾風、荒ぶる旋風、集い集い満ち満ち、生まれよ出でよ渦巻く刃》」
背後から襲ってきた三体のウォーモモンガが、突如として生じた竜巻に身を引き裂かれ、断末魔の声をあげる場面がそこに展開されていた。
アイシャの魔術、風の第三階梯ストーム・ウォールだろう。
かつての邪竜は、これよりはるかに巨大な竜巻を無詠唱で生み出していたものだが……これが、いまの彼女の限界か。
「ふむ。お互い、なかなかのものであるな」
「きみが足手まといになる気なんてさらさらなくて、安心したよ」
「正直、いまのわれは、己を知っているとはとてもいえぬ。どれほどのちからがあるのか理解しておらぬのだ」
そんな会話をしながら、残るウォーモモンガを確実に仕留めていく。
ほどなくして、九体の魔物が地面に叩きつけられ、そのすべてが絶命した。
おれにもアイシャにも、かすり傷ひとつない。
*
森のなかで襲いかかってきた魔物をすべて退治したあと。
アイシャは、さて、とナイフをとりだし、おれに手渡してきた。
「心臓の魔石を回収せよ。われがやってもいいが、おぬしのほうが得意であろう?」
「ま、そりゃな」
おれはウォーモモンガの胴をナイフでえぐった。
青い血をかきわけ、赤黒い石をとりだす。
赤子の拳くらいのサイズで、すべすべした球形の石だ。
これが、魔石である。
魔物の命の源にして、霊気の塊だ。
魔物とは、心臓に魔石と呼ばれるこの結晶をもつ生物のことである。
霊気の凝縮によって生まれ、他者の霊気を奪うことで成長していく。
おれたちを襲ったのも、ヒトの持つ霊気がまるで桃のようにかぐわしい匂いを放つからであるらしい。
そのあたり、学問的なことにおれは詳しくない。
おれはただ、魔物を狩ることで生きてきただけの、暴力が得意なヒトのひとりにすぎなかった。
その暴力装置の行きついた果てが、邪竜の討伐であったわけだが……。
「ちなみに、ウォーモモンガの爪や皮膜はそこそこの値段で売れるらしいが」
「面倒だし、いいだろ別に」
「いまのわれらは、無一文である」
金、か。
監獄城の兵士たちから、金も巻き上げるべきだったか……。
おれは少し考えたすえ、いや、と首を横に振った。
「ただ金を稼ぐだけなら、そう難しくはないだろう」
「そう、であるな。われらの持つちからは、少なくとも村の自警団程度では相手にもならぬほどのものだ」
「みたいだな。いまの水準ってのが、おれにはまだよくわからないが」
魔剣術といい、五百年という歳月で武術や魔術はどう変化したのだろう。
「現代において。魔術はともかく、武術については五百年前とは比較にならぬほど弱体となっておると聞いた」
「は? どういうことだ」
「帝国の時代、五林、と呼ばれる武術があったそうであるな。それらはことごとく、失伝したと聞く。戦乱はかくも知識を破壊すると、歴史の授業で習った」
五林とは、帝国で盛んだった武術の流派、そのなかでも特に人気だった五つのことだ。
かくいうおれも、そのうちの一林、風林の皆伝である。
霊気をまといその身を強化する、纏。
それは、この五林において共通の技術だったはずだが……そういえば、あの兵士たちも、魔剣技とかいうのを使っていた隊長も、纏すら使っていなかったな。
そうか、あいつらは、纏すら使えなかったのか。
かわりに、魔剣術とかいうのが台頭したのか?
「で、あるがゆえ、人類の領域は魔物に激しく侵食されておる。にもかかわらず、人類同士で争っているのだから……救いがないとは、このことよな。無論、対抗策を持つ国も多々あるのだが」
「なるほどなあ」
おれは唸った。
大陸の状況は、どうやら思った以上に混沌としているようだ。