第5話 五百年後の世界
森のなか、小高い丘の上。
おれと少女は、並んで朝日を見上げていた。
太陽の輝きがこれほど美しいとは、思ってもみなかったことだ。
「前世の記憶、というものをおぬしは信じるか」
遠くの山をみつめながら、少女がいう。
その長い赤髪は、陽光を浴びて炎のように揺らめいている。
「そういうおとぎ話は知っているし、救世主の生まれ変わりがどうのって説法くらいは聞いたことがあるが」
「つい先日のことである。われの身に、生まれる前の記憶が蘇った。子守唄として聞かされた英雄譚の敵役、邪竜アイシャザックとして、おぬしに首を刎ねられた記憶だ」
「それこそ、おとぎ話じゃないか」
アイシャザックと名乗った少女が、ふんと鼻で笑う。
ちらり、とルビーの瞳でおれをみた。
「コガネ、おぬしとの戦い、その行動は、視線の動きひとつひとつまで思い出せるぞ」
それから彼女が語った、邪竜と七人の勇者の戦い。
そのときのおれの動きは……。
信じられないことに、おれの記憶そのままだった。
それどころか、彼女はおれが知らないおれの細かい癖まで、いいあててみせた。
フェイクを入れる寸前に左肩を引くことなど、これまで誰ひとり指摘しなかったことである。
「そうか」
おれはため息をつく。
「邪竜の炎の壁で追い詰められた原因は、おまえがおれの下がるタイミングを見切っていたからなのか」
「信じたな、コガネよ」
「信じるしかないだろう。もしいまの世におれたちの英雄譚が伝わっていたとしても、そんな些細なところまで吟遊詩人が描写するとは思えない」
だいいち、とおれは少女の燃えるような瞳をみつめる。
その瞳の奥にある、真実の彼女を捉えようとする。
「その目の輝きは、おれが戦ったあの邪竜と同じだ」
「ふむ、そうか? それは鏡をみてもわからなんだ」
少女は腕組みして小首をかしげた。
「ま、よかろう。そういうわけで、記憶が蘇ったわれは、次にちからを求めた。かつておぬしたちに奪われたちからは、記憶をとりもどしても戻ってこなかったがゆえ。ただ、とりもどす方法はわかっていた。奪われたのなら、また奪い返せばよい。幸いにして、おぬしがあの監獄城の最上階で囚われたままであると、われは聞き知っていた。遠い祖先よりの言伝ゆえ、な」
言伝。
そのひとことで、おれは彼女の祖先が誰なのか、理解する。
同時に、おれが虜囚となってからどれだけの歳月が過ぎたのかも。
「ユーフェリアさま」
知らず、頬を涙が伝い落ちていた。
「なあ。五百年経っているって、本当なのか」
「うむ。真実、おぬしらとわれとの戦いから、五百年が経過しておる」
百年以上とは、思っていた。
二百年という数字すら、覚悟していた。
しかし、まさか五百年とは……。
おれは己の両手を、じっとみつめる。
身体に満ちた、あふれ出さんばかりの霊気を感じとる。
いまのおれは……かつてより、どれだけ強くなったのだろう。
「長き勤め、ごくろうだった」
「勤め、ねえ」
少女はおれをみあげ、「結果がすべてである。どれほどの歳月が経とうと、われとおぬしが出会った。それがすべてで、ゆえにすべて良しである」といって、呵々と笑う。
なんなんだ、こいつは……。
あの邪竜アイシャザックは、こんな性格だったのか。
いや、彼女はさっき「記憶が戻った」といっていた。
この少女のもともとの性格と邪竜の記憶が重なり、目の前の人物になったということだろうか。
おれはいちど顔をそむけ、腕と涙を拭くと、改めて少女に向き直る。
「記憶が戻る前のきみは、どんなだったんだ」
「ただの、貴族の小娘であったよ。この王国で、古の栄華にすがる、つまらぬ家に生まれた小娘である。ユーフェリアという先祖の言伝すら守れぬほど落ちぶれておった家の、な」
「やっぱり、ユーフェリアさまの子孫だったか」
彼女の容貌をみれば、ひとめでわかることだった。
おれの許嫁であった皇女、ユーフェリアの若きころ。
その生き写しともいうべき容姿であるのだから。
「きみは、さ」
「アイシャ、と呼ぶことを許す。親しみをこめて発言せよ」
「あー、じゃあ、アイシャ。きみの家族は、いまごろ困ってるんじゃないか」
アイシャと呼ばれた少女は、腕組みしたまま、ふむと鼻を鳴らした。
胸をそらし、青空をみあげる。
おれに視線を戻したときには、その紅の瞳に強い意志が宿っていた。
「家族は、もうおらぬ。皆、消えた」
「消えた?」
「ちょうど、われの記憶が戻った日のことだ。この国で、政変があってな。父も母も祖父も……兄も、妹も。使用人に至るまで、暴徒となった民に殺された」
家族全員、殺された。
そんな壮絶な体験を、少女は淡々と語る。
「われはたまたま、変装して街に繰り出していたゆえ助かったのだ。もっとも、そのことを知った衝撃でこの記憶が蘇ったのだから、なにが幸いするかわからぬもの」
少女は森をみおろす。
その森の彼方に、街があるという。
かつての帝都、いまは群雄割拠するこの大陸においては小勢力にすぎない王国の都が。
「あれはな。ザザ、という名のちっぽけな国である。いや、そうであった。王が亡くなる前に、後継者を指名しなかった。ただそれだけのことで、貴族が、民が、互いに殺し合うことになってしまった、いまは亡き国である」
「国がなくなった、のか」
「この数日でな」
さきほどアイシャが少し語っていたが、監獄城にいた兵士たちは、その政変の蚊帳の外に置かれていた。
城の下層と見張り塔のみが使用されていたという。
上層は、長く「凶暴な大罪人が囚われている」とのみいいつたえられ、誰も立ち入ることがなかったのだと。
そもそもザザと呼ばれた王国は、ただかつての帝都を領土としている以外、帝国とはなんの繋がりもないらしい。
監獄城の兵士たちには、少し悪いことをしたか。
あの帝国も、おれが想いを寄せた彼女も、もうとっくに存在しない。
ならば。
おれは、どうすればいい……?
「さて、コガネよ。おぬしはこれから、どうしたい」
「どう、って」
「おぬしはもう、自由だ。生きるも死ぬもな」
五百年、食事ひとつせずとも生き永らえた不老不死の身体だ。
そのはずだった。
なのに彼女は、いまなんといった……?
「おれが、死ねる?」
「すでにおぬしの不死性は消えている。われが、奪った。許せ。それはひとの身には過ぎたるちからだ」
「あ、ああ。それで、いい。うん、それは……嬉しいことだな」
唐突すぎる話に、おれは困惑した。
五百年、おれが囚われていたものは、本当はあの牢獄などではない。
おれは、邪竜の血を浴びて得た不老不死のちからそのものの虜囚であったのだから。
「そうか。おれは、死ねるのか」
「うむ」
「素晴らしいな」
その呟きは、皮肉でもなんでもなかった。
五百年という歳月は、ひとの身には長すぎたのだ。
帝国はとうに消え、かつて帝都があった地も騒乱の最中にあるという。
さきほどは、そんなこととも知らずに戦ったが……。
まあ、あの程度の相手では、わざと一撃を喰らうことでもしない限り、傷つくことはない。
この身体から、不死性はなくなった。
もう、生きることも死ぬことも自由だ。
どこへ旅をしてもいい、誰に仕えてもいい。
どうせ、この時代に、すでにおれを知るものは、目の前の少女だけ……。
「は、はは、ははは」
おれは天を仰ぎ、思わず笑い出していた。
アイシャが、おれを奇妙なものをみる目で眺める。
構わず、おれは笑い続ける。
「……いや」
ふと、われに返った。
そうではない。
五百年を経てもなお、ほかに知己がいる可能性に思い至ったのだ。
仲間たち。
五百年前の仲間たちは、いったいどうなったのかと。
おれはかたわらの少女をみる。
「あいつらは? 邪竜アイシャザックを倒しその血を浴びた、ほかのみんなは、どうなった」
「全員の行方を知っているわけではない。無論、いずれは残りの六人からも、われのちからを取り戻すつもりだがな」
「ってことは、みんな無事なのか」
あいつらのことを、思い返す。
あれだけの歳月が経過しても、おれはひとりひとりの顔を鮮明に思い出すことができた。
心配だった。
おれが、あんな目にあったのだ。
ほかの者たちは、はたしてどうなったのか。
いま、どうしているのか。
それを知りたくてたまらないのだが……。
アイシャは、首を横に振った。
「わからぬ。そもそも記憶が蘇るまでのわれは、あまりにも矮小な存在であった。この大陸が、いまどうなっているのかもよく知らぬのだ。五百年という時は、あまりにも長すぎた。おぬしらの存在が伝説として語り継がれ、おとぎ話のなかに封じられるほどに」
「それは、そうか」
「そんなわれであっても、シルダリの聖女の噂は耳にしたぞ」
どくん、と心臓が高鳴る音がした。
聖女。
コガネはそのふたつ名で呼ばれる人物に、ひとつだけ心当たりがあった。
「ミルか!」
「うむ。おぬしらのなかでもっともまぶしい、光の霊気の持ち主であったな。われがなんど炎の息を吐いても、それを受け止め続けた。いかなる魔物もひれ伏すわれの眼を正面からみつめ返し、笑いかけてすらみせたその豪胆、よく覚えておる」
「そう、か。ミルは、まだシルダリにいるのか」
聞けば、かつてのシルダリ辺境伯領は、いまシルダリ教国として繁栄を謳歌しているとのこと。
聖女ミルは、シルダリ教国の旗印としていまも現役、かの国の精神的な支柱として活躍しているらしい。
もっともそれらは、旅の商人や吟遊詩人の噂話として入ってくる、なかば与太話のようなもので……どこまで信頼がおけるかは、アイシャにも見当がつかないという。
「ミルに会わなきゃ。おれはシルダリに行く」
「ならば、目的地はわれと同じであるな」
そうか、とおれは気づく。
おれから邪竜のちからを取り戻したアイシャは、残るおれの仲間たちからも邪竜のちからを回収したいのだ。
「アイシャ、きみにひとつ聞きたい」
おれは、傲慢そのものの態度で胸を張っている少女をみおろす。
少女は、ふん、と顎をつきだしてみせた。
「なんであるか」
「きみは、ちからをとりもどしたあと、また人類の敵になるのか」
五百年前の邪竜戦役。
つまり、目の前の少女の前世が大暴れした災厄において。
彼女は数多くの魔物を従え、全人類の敵として立ちふさがった。
かの戦役のはじまりにおいて、アイシャザックはみっつの国を滅ぼし、そこに住む人々をことごとく殺戮してのけた。
人類は恐怖し、ひとつになった。
当時、最強を誇った帝国のもとに次々と下り、過去のしがらみを捨て、一丸となって戦った。
それからも、幾多の苦難を乗り越える物語があったのだが……。
最終的に、人類は七人の精鋭をアイシャザックの喉もとに送り込み、これを討伐してのける。
それが、おれたちだ。
大陸最強の七人。
邪竜殺しの勇者たち。
おれはそのなかでも、最強の剣聖と謳われていた。
「わからぬ!」
はたして邪竜の生まれ変わりを名乗る少女は、胸を張って勢いよく、そう返事をした。
「なにせ、あのときなぜ、われがおぬしら人類と戦ったのか、いまひとつよくわかっておらぬのだ」
「おいおい、それっていったい」
「記憶が、欠落しておる」
アイシャは唇を尖らせ、おれを睨んだ。
「もとより竜として生きた数千年の蓄積は、ヒトの器に収まりきらぬものかもしれぬが……。それにしても、覚えておらぬことが多すぎるのだ。先刻、おぬしからちからを取り戻した折、同時にいくらかの記憶も戻った。しかし、なぜ五百年前、われがおぬしたちと戦ったのか、その経緯についてはさっぱりである」
「それは……なんとも不安になる話だな。記憶が戻ったら、きみはヒトの敵にまわるかもしれないってことだろう」
「と申しても、いまのわれはヒトである。ヒトが竜の理に従い行動するべきだとは、思わぬよ」
さばさばした表情だった。
おれは首をかしげる。
「ヒトが、竜が、ってなにかが変わるものなのか」
「異なことを。おぬしは五百年前、ヒトの代表としてわれに立ち向かったのであろう?」
「それはおまえが、魔物を引きつれて攻めてきたからで……ああ、そういわれれば、そういうものなのか」
かつてのアイシャザックが魔物たちの守護者であったように、かつてのおれたちはヒトの守護者であった。
いまのアイシャは、ヒトのなかで生きて、己をヒトだと認識している。
ゆえに記憶が戻ったとしても、ふたたび魔物の側に立つことはないだろう、と……そう、いっているのだ。
「その記憶が戻っておらぬ以上、必ずこうである、と断言するのは誠実といえぬ。ゆえにこれは、いまのわれができる精一杯の返答と心得てもらいたい」
「なんつーか、生真面目なんだな」
「おぬしに対して嘘をつきたくない」
アイシャは、おれをまっすぐみつめた。
信じていい、とおれは直感する。
少なくとも、彼女はあとでだまし討ちをするような人物ではないと……そう、理解した。
「おぬしの仲間、かつての七人の勇者たち、その残り六人からちからを取り戻すのが、ひとまずわれの目的となる」
「彼女がきみにおとなしくちからを返すとは限らないぞ」
「そうであろうか?」
「おれと違って、あいつは責任感が強いからな。それが人々のためになるなら、きみから取り込んだ霊気をよりよく活用できると考えるなら……そのときは、どうする」
アイシャは、むむ、と腕組みして考え込む。
どうやらそんなことは、これっぽっちも想定していなかったようだ。
「それは、ありえぬと思うのだが……」
「そうなのか?」
「まあ、よい。そのときは、そのとき考えればよかろう。なに、悪いようにはせぬ。われを信じよ」
と、いわれてもなあ。
おれは後ろ頭を掻いた。
「きみが無闇に暴れないというなら、それでいいか」
「うむ。いまのわれのちからは全盛期にほど遠い。しかと、われを守るがよいぞ」