第33話 デズモの魔物
アイシャは、遭難していた。
山歩きなど楽なもの、いざとなれば飛べばいいのだと軽装で分け入った山脈のどこか。
どこまでも深い森に覆われた山の中腹で、いま彼女は腹ぺこになってバテていた。
「うぬう、なんという不覚。完璧なるわれに唯一、方向感覚がないとは思いもよらなんだ」
これまでの旅では、コガネやミルが先導役となってくれていた。
アイシャは彼らの指示に従い、難所で適宜、魔術を使っていればよかった。
今回は、見栄を張って自分ひとりですべてこなす、と覚悟を決め……結果、よくわからぬ地へたどり着いてしまった。
「だいたい、この地の霊脈がめちゃくちゃなのだ! すべて霊脈が悪い!」
ばんばんと近くの岩を叩く。
岩陰に隠れていたムカデが慌てて飛び出し、逃げていった。
少しすまないことをしたな、と口のなかでモゴモゴ謝る。
と……その霊脈の蠢きを感知した。
慌てて立ち上がる。
山ひとつ向こうの一点に、霊気が収束していく。
鳥が一斉に羽ばたき、木々が揺れる。
リスなどの小動物が山の反対側を目指して駆け出した。
「これは……儀式が行われておるな。はたして誰が、何のために、このような大がかりな儀式を……。ひとつ覗いてみるとしよう」
アイシャは飛行魔法をかけて飛び上がる。
時刻は太陽が南中するころ、地上の様子はよく観察できた。
周囲でもひときわ高い山の中腹に十数人が集まり、そこに霊気が集まっていく様子が手にとるようにわかる。
幸いにして、彼らは儀式に集中していて、アイシャの接近に気づいていない。
「ふむ、封じられた霊気の束を解き放つ儀式か」
この山になにか強大な魔物が封印されているのは、知っていた。
珍しい話ではない。
これまでの旅でも、大陸各地に封じられていた魔物を何体か退治している。
とはいえ、ここに封じられている存在は、これまでアイシャたちが相手にした魔物よりさらに巨大な霊気の持ち主と思われた。
こんなものを解き放てば、里にどれほどの被害が広がるか、ちょっと見当もつかない。
「それほどに、追い詰められておるのか。しばらく遭難しているうちに、なにか事件があったのかもしれぬな」
事情はわからないが、連中を止めるべきだとは判断できる。
問題は、彼女の行動が間に合うかどうかで……。
「いささか遅きに逸したか」
儀式はすでに完成しようとしていた。
儀式を行っている人々を風の魔術で吹き飛ばそうとも、すでにまわりはじめている歯車は止まらない。
できるのは、儀式を不完全にすることくらいか。
「ええい、面倒な。されど、いたしかたがあるまい」
アイシャは即座に決意を固めると、儀式集団から少し離れた地面に降り立ち、地面に手をついた。
かつて邪竜と呼ばれていたころに掴んだコツで、地面に流れる霊気を感じとり、これに己の霊気をあらん限りぶつける。
「ぐ……ぬうっ」
ちからが抜けていく。
額を汗がしたたり落ちる。
ヒトの身で大地を通じて霊脈に干渉することの困難さは、すでにそれを何度か試みて理解していたはずではあったが……今回ほどの過酷さは初めての経験であった。
やがて、アイシャは地面に倒れ伏す。
やれるだけのことは、やった。
あとは……。
地面が揺れる。
いや、山全体が震えていた。
なにか巨大で得体の知れぬものが、いま、長き眠りから目覚めようとしている。
かろうじて顔を起こすと、山の頂上がぐらぐらと蠢いていた。
いや、そこに存在していたなにかが動き出そうとしているのだ。
「コガネ、ミル。あとは……頼む」
アイシャは意識を失った。
最後にみたのは、儀式を行っていた者たちがその蠢き出したなにかに喰われてあげる断末魔の声だった。
*
おれとミルは、デズモの町がみえる丘までたどり着いたところで、その光景をみた。
デズモの町が、巨大な黒い波に襲われ、黒い沼に沈んでいくその禍々しい様子を。
ナカガクの町を落としてから半日後のことである。
「あれがデズモに封じられていた魔物か」
「泥の魔神だね。町のひとたち、どれだけ避難できたかな」
「町の権力者が、魔物の被害を想定して指示を出していたかどうか、だな」
町から悲鳴が聞こえているし、木柵の外に逃げようとして転倒してる間に泥に飲み込まれている者がいたりするし、阿鼻叫喚の現状、そういう気配りがあったとは思えないけど。
どんな魔物か、ナカガクの伝承を詳しく調べてくればよかったのかもしれないが……。
そんな余裕もなく、おれとミルだけで飛び出したのである。
「力でねじ伏せるしかねぇな」
おれの判断は早かった。
というか、ここに至ってはほかに方法がない。
霊剣クリアを構えた。
「ミル、町のひとの救出を頼む。無理はするなよ」
「うん、精一杯がんばるよ!」
ミルはぐっと拳を握ると、影に消えた。
うん、まったくひとの話を聞いてないな。
わかってたことだけど。
おれは町を呑み込んだ泥の魔神へ向かって丘を駆け下りた。
*
泥の魔神というのは初めて遭遇する魔物だが、この手の不定形な魔物への対処法はいくつかある。
そのうちのひとつは、しょせん魔物など霊気がかたまって生まれたものと割り切って、霊気の流れそのものを断ち切ることだ。
ただのちから技ではあるが、霊剣クリアほどの剣であれば、それも可能なのである。
そのためには、越えなければいけない障害がひとつある。
魔物が存在を保てなくなるほど広範囲を同時に断ち切らなくては、いけないということだ。
つまり魔物がその全身を露わにしていなければ、この戦法も不可能なのである。
「アイシャがいればな」
あいつの風の魔術を使えば、まぁいろいろやりようもある。
ミルの闇の魔術はこういう戦いには向かないし、もちろんおれにできるのはちから押しだけだ。
まったく、あいつはいま、どこで油を売っているのやら……。
町を完全に丸呑みし、草原にまで広がってきた泥の魔神がおれのもとに迫る。
「月刃衝」
刀身から溢れた霊気が太陽の輝きを受け輝く。
霊剣クリアを横薙ぎに一閃すると、霊気で構成された刃が飛び出し、泥の魔神の先端を切断した。
根から切り離された末端部分はまたたく間に灰色へと変化し、ぼろぼろと崩れ去る。
泥の魔神は苦痛を感じたのか、激しく震えた。
耳障りな音が響く。
いまのが悲鳴のつもりなのか。
その耳障りな音によって、大地が震動する。
草原が泥の海に変化し、遠くの木々が腐り落ちていく。
おれは、沼と化した地面から慌てて飛び退いた。
「叫ぶだけで土地を腐らせるのかよ。なんつー呪いだ」
こりゃ、封印されるわけだ。
尋常な手段じゃ、手に負えない。
もっとも、五林には、こういうのに対抗するための手段がちゃんとあるわけで……。
おれだって、伊達に帝国最強の武門の戸を叩いてはいない。
泥の魔神は、おれを包み込もうとその身体を広げた。
どす黒い津波が押し寄せてくる。
対しておれは霊気を全身にまとい、結界とした。
視界が闇に染まる。
霊気の結界が漆黒の泥のなかで輝き、膨大な呪いの奔流を弾く。
相手はおれを呑み込んだつもりだろうが、おれにしてみれば敵の胎内に侵入したということだ。
内部からなら、霊気の刃もよく通るというもの。
「浄呪脈流」
霊剣クリアを一閃する。
霊気の刃が前方に拡散し、呪いの塊ともいうべき魔物の身体を浄化していく。
泥が白い砂に変化し、ぼろぼろと崩れていく。
闇だった天井が崩れ、太陽の光が差す。
泥の魔神の身体は末端から順に黒から白へ変わる。
草原だった泥の湖が、一瞬にして赤茶けた大地となる。
町だった場所が、邪悪に蠢く泥の塊から荒野に。
森だった場所が、山だった場所が、裸の土の塊に。
泥の魔神は断末魔の悲鳴をあげ……そして、反応が途絶える。
「おれの霊気が尽きる前に倒せたか」
地面に膝をつき、ふうとため息をついた。
さすがに今の一撃は、少しばかり消耗したのだ。
これ以上の奥の手もないことはないが、誰がみているかわからないこの場で切り札を切りたくない。
「封印された魔物は討伐したぜ。あんたらの主に、しっかり伝えな」
少し離れたところでおれの戦いを観察していたのであろう気配に、振り返らずそう告げる。
彼らの動揺が伝わってきた。
すぐに、彼らの気配が離れていく。
逃げたのだ。
いや、もとよりスパイたちはその任務を果たしたのだから、それでいいのだろう。
おれとしても無闇に始末するつもりはない。
この地がおそろしい災厄に襲われたことは、すぐ東に伝わる。
それを誰が、どうやって退治したのか、これから隣接することになる国々が知ることは、いちおうの抑止力となるだろう。
あるいは、もっと積極的な手を打ってくる者もいるかもしれないが、ミルとしては、それはそれで好都合なようだ。
「コガネ、おつかれさま」
いつの間にか、ミルがおれのもとに戻ってきていた。
少し疲れた顔をしている。
救助作業は、あまり芳しくなかったのだろう。
「休んでいていいよ。あとはわたしがやるから」
「そうもいかないだろう。これからおれたちの民になるんだ。助けられるだけ、助けてやらないと」
おれは疲れた身体に鞭打って、町だったものの残骸が並ぶ荒野へ歩き出した。
ミルが、テコテコついてくる。
*
なお、この日の夕方、疲れ切った顔のアイシャが合流した。
泥の魔神は、彼女のちょっかいのおかげで半分ほどのちからしか残っていなかったようだ。
よくやった、といいたい。
「全力を出されても、おぬしであれば勝てたであろう」
「でも、被害が増えただろうな。アイシャ、きみのおかげで町の住人の半分くらいは救うことができた」
「そうか。半分か、ふむ、そうであるか」
アイシャは少し不満げに、でも少し得意げにうなずいてみせた。




