第3話 虜囚の終わり
刻が経つ。
窓から差し込む光が、昼夜の移り変わりを教えてくれる。
時間の感覚などとうに失せ、そして。
感覚が、摩耗していく。
心が、すり減っていく。
おれを構成するなにもかもが、失われていくような気がする。
どれほどの歳月が経過したのだろう。
一年だろうか、十年だろうか、五十年だろうか。
あるいは百年、二百年を超えたか。
はるかな時の果て……。
重い鉄扉が、きしんだ音を立てて開かれる。
軽い足音がひとつ、近づいてくる。
おれはゆっくりとまぶたを持ち上げる。
牢の扉が、あっけなく開いた。
歳月の経過で、封印の魔術は完全に効力を失っていたようだ。
火のついたろうそくを手に、ひとりの女が入ってくる。
「待たせたな」
女が、高慢に告げる。
ろうそくの炎に照らされたその姿は……。
十五かそこらの少女だった。
威厳のある声で、片方の手を腰にあて、胸を張っている。
腰まである紅蓮の髪。
紅玉のようなふたつの瞳が、おれを射抜く。
興奮してか、白い頬を紅潮させている。
こんな場所にはあまりにも不釣り合いな、純白のドレスをまとっていた。
まるで宮廷のパーティから抜け出てきたかのような様子である。
おれは、息を呑んだ。
ありし日の、あのかたにそっくりだったからだ。
そう、その姿はあまりにも……。
「ユーフェリア」
思わず、そう呟いた。
つもりが、声にならなかった。
ただ、口をぱくぱくさせただけだった。
少女は眉をつりあげて、怪訝な表情となる。
かわいらしく、小首をかしげる。
「どうした、声も出ないか」
「あ、あ」
あまりにも長いことしゃべっていなかったからか、喉から出たのは喘ぎ声のようなものだけだった。
少女はおれの状態を理解したのだろう、にやりとしておれに近づいてくる。
その優雅な所作のあちこちに、あのかたの面影があった。
いや、違う。
あのかたは、もっと儚げな雰囲気を身にまとっていた。
彼女は、こんな風に自信ありげに笑わない。
彼女は、ユーフェリアではない。
当然だ、最後に声を聴いたときですら、彼女はたいそうな年齢だったはず。
ユーフェリアは、とうに亡くなっている。
目の前の少女が彼女であるはずがない。
ありし日の想い人に似た少女が、手を伸ばす。
無防備な仕草だった。
なのに、異様なほどの圧力を覚える。
少女が、手を伸ばしてくる。
あぐらをかいて座るおれの肩に、そっと触れた。
暖かい。
ひと肌に触れて、おれはぶるりと震え……。
「おぬしに渡した霊気、いまこそ返してもらうぞ」
次の瞬間、おれは悲鳴をあげていた。
全身が、業火に炙られるように、熱い。
血液が煮えたぎったようだった。
長く長くなんの感覚もなかった身体に、それはあまりにも強すぎる刺激である。
おれの様子に驚きもせず、少女は「すまぬな」とひとこと告げた。
渡した? いったい彼女は、なにをいっている?
おれは混乱して身をよじった。
女が弾き飛ばされ、牢の床に転がる。
「なにをする!」
女はがばっと立ち上がり、おれを睨む。
「なに、もクソもあるか!」
おれは、叫んだ。
すっと声が出た。
はたしてこれは、何年ぶりの自分の声なのだろうか、と頭の片隅で考える。
それより、いまは目の前の女だ。
ユーフェリアの姿をして、いきなり現れて、おれを拷問しだした、こいつは……。
「いったい誰だ、おまえは!」
「わからぬか?」
少女が、きょとんとした顔になる。
立ち上がり、ドレスの埃を払う。
ふう、とおおきくため息をつく。
「本当に、わからぬか?」
顔をあげ、おれをみる。
紅玉の瞳に見据えられ、おれはなぜか、ひどい喉の渇きを覚えた。
もう、そんな感覚はとうに失せたと思っていたのに……。
「おぬしが、われを滅ぼした最後の一撃。あれはたいへんに甘美であったぞ」
「滅ぼした……一撃?」
なぜだか、脳裏をよぎるものがある。
この瞳を、おれは知っている。
戦士としての直感が、そう告げている。
少女が、またにやりとする。
えっへんと胸を張る。
「邪竜アイシャザック、生まれ変わり、五百年の時を経てこうして舞い戻った! われを殺した勇者がひとり、剣聖コガネよ、いざ潔く、われから奪ったちからを返すがよい!」
少女は堂々と、そう告げた。
その全身から、覇気のようなものが溢れている。
どうしてか、信じられた。
彼女の言葉が真実であると、肌の震えで、そう理解させられた。
「いくぞ、コガネ! これよりわれは、汝を時と肉の呪縛より解放する!」
*
目の前に現れた少女が邪竜アイシャザックと名乗ったことについて、おれはただ、ああ、とそのままに受け止めざるを得なかった。
やはりそうか、そうなのか、と。
理屈もなにもかも飛び越えて、皮膚感覚のようなもので理解できてしまった。
その身は、華奢な人間の少女にすぎないのに。
まとう霊気は、ごくごくわずかにすぎないのに。
唯一、紅蓮の炎のような瞳だけがその面影を残すにすぎないのに。
溢れ出る覇気、とでもいおうか。
彼女はまぎれもなく、コガネと六人の仲間たちが死闘を演じ退治した、あの伝説の邪竜に違いないと……。
そう、確信してしまう。
「問答をしている暇はない。そろそろ、警邏の者が気づくであろう。手短に告げるぞ」
少女はいう。
その瞳を蝋燭の炎で燃え上がらせ、口の端をつりあげる。
「おとなしくしておれ。われにちからを返すがよい。かわりに、汝をこの牢獄から解き放ってやろう」
「おれを……解放、する?」
「うむ。返事や、いかに。……いや、問答は無用。黙って、じっとしておればよい」
おれの返答を待ちもせず、少女はふたたび、おれの肩に手を触れた。
廊下が騒がしくなったのと無関係ではないだろう。
おれの全身を、すさまじい苦痛が襲う。
「ぐ……っ」
地獄の業火に焼かれるような、壮絶な痛みだ。
それをおれは、うめき声ひとつで、耐えた。
微動だにせず、少女をみあげた。
少女は額から汗を垂らし、にぃ、と笑った。
彼女もまた、同様の苦痛を覚えているらしい。
それでも、声ひとつあげない。
おれは、負けるものかと、口の端をつりあげた。
互いに、笑ってみせたのだ。
我慢比べは、ゆっくりと三つ数えるほどの時間で終わった。
邪竜と名乗った少女が、ゆっくりと肩から手を離す。
おれはひどい虚脱感に、倒れ込みそうになった。
そんなおれの身体を、少女が慌てて支えた。
「まだ倒れてもらっては困るぞ」
おれの身体は、思った以上にちから強い少女の細腕に支えられる。
彼女は、活力に満ちていた。
いや、とおれは少女の身体全体を……目を細めて、みつめる。
霊気の流れが、みえた。
おそろしいほどの霊気が、彼女の周囲を渦巻いていた。
さきほどまでは欠片も感じられなかったちからだ。
まるで別人のような、とてつもないちから……その源がなんなのか。
わかっていた。
これは、おれの霊気だ。
どうやったのかはわからないが、彼女はおれから奪った霊気を、わがものとしている。
そのおおもとは、邪竜の血を浴びたことにより得たものだ。
邪竜の持っていた、ひとの身にあってはならぬ霊気。
このおれを不老不死の化け物にしてしまった霊気である。
と……騒々しい足音が響き、牢の外で立ち止まる。
男たちの、乱暴な誰何の声が響く。
少女が、蝋燭を手にしたまま振り返る。
牢の外に、兵士たちが立っていた。
革鎧をまとい、剣を手にしている。
ものごしをから判断して、なかなかの精兵のようだ。
「そこを動くな! 小娘、その男は大罪人である、いますぐそばを離れて……」
「われに命じるな」
少女が、無造作に片手を振る。
霊気が刃となり、兵士たちを襲った。
おれは、そのさまをこの目で、しかと見届けた。
兵士たちが吹き飛ばされ、廊下の壁に激しく叩きつけられる。
悲鳴と苦悶、狼狽の声が響く。
部屋の外にいるのは、おそらく三人……いや、四人か。
これはどういうことか、と戸惑っているようだった。
「この程度、か。いまのわれのちからでは、小僧ひとり、くびり殺すことすらできぬな」
その間に、少女はこちらへ向き直る。
あのかたを思わせるルビーの瞳で、おれを射すくめる。
「さて、コガネよ。助けて欲しいか」
改めて、そう訊ねてくる。