8.社交界デビュー
ゴールディー王国では、成人した貴族の紳士淑女は、王宮の夜会で社交界デビューする。私も初めての夜会に向けて、憧れと緊張と不安の入り混じった気持ちで、一日中隅々まで身体を磨かれた。デビュタントの証である白いドレスに身を包み、髪は編み込みながら高い位置で一つに纏め、両サイドから一房ずつ垂らしている。化粧も施してもらって見てみると、いつもよりも大人びた私が鏡の中にいた。相変わらずリリーの腕は本当に素晴らしい。
伯父様と伯母様にも太鼓判を押していただき、大袈裟に褒めちぎりながら抱き付こうとしてくるお兄様からは身を躱す。家族揃って馬車に乗り込んで、王宮を目指した。
王宮の夜会は流石に規模が大きくて目を奪われた。豪華なシャンデリアが煌めく広い会場に、大勢の紳士淑女の方々。自然と緊張で動きが固くなる中で、私と同じようにデビュタントの衣装に身を包んだ人達を見付けて、少し親近感を覚えた。
国王陛下の挨拶で夜会が始まる。王族の方々や上位貴族の方々に挨拶をしたり、ダンスを踊ったり食事をしたりと、皆それぞれに夜会を楽しんでいる。私も伯父様の後に付いて、王族を含む色々な方々に挨拶をして回った。
元平民、という事で、何かしらの嫌味を言われたり、嫌がらせを受けるんじゃないか、なんて想像して身構えていたけれども、そんな心配は杞憂に終わった。お兄様曰く、ゴールディー王国一の鉱山資源を有し、国王陛下とも親しい間柄である伯父様が、目に入れても痛くない程可愛がっている私に、喧嘩を売るような輩は愚か者の極みでしかないそうだ。寧ろ、伯父様に近付きたい殿方や、貴族令嬢の憧れの的であるお兄様に近付きたいご令嬢方に声を掛けられて、息つく暇もない程だった。
大勢の方々と挨拶を交わし、申し込まれるまま何人かとダンスを終えると、踵の痛みが無視できなくなってきた。きっと靴擦れしてしまっている。顔には出さないようにしながら、伯父様に断りを入れ、料理や飲み物が置いてある所に向かった。
乾いた喉を潤して、小さく溜息をつく。痛みは一向に治まらず、歩いた分だけ増している。今日はもう踊らない方が良いかも知れない、と考えていると、あの男に声を掛けられた。
「クリス、やっと会えたな。……今日の君は、一段と綺麗だ」
男が真っ直ぐに私の目を見て言う。私は別に会いたくなかったんだけど、と思いつつも、男に微笑みを返した。
と言うかこの男、演技が上手い。僅かに頬を染めながらじっと見つめられると、本当に私に見惚れているような錯覚に陥ってしまう。きっとまた、仲の良い婚約者同士なのだと周囲に宣伝したいのだろう。
「ありがとうございます。ライアン様も素敵ですわ」
私も挨拶を返す。お世辞だけじゃなく、正装した男は高い身長にがっしりした体格が映えて、本当に憎たらしい程格好良く見えた。相変わらず見た目だけは完璧だと思っていると、男の視線が少し下がり、僅かに眉を顰めるのが見て取れた。視線の先を辿ると、私の胸元。
何処を見ているんだこの男は! と心の中で変態認定をする。そこまで大きくもない……が、小さくもない筈だ。何か文句でも?
「クリス、俺とも一曲踊ってくれないか?」
男の申し込みに、私は思わず顔を引き攣らせそうになった。よりによって、こんな時に申し込んでくるなんて。
婚約者であるとは言え、元々気乗りしない相手だし、靴擦れも痛い。脳内で断り文句を探していると、男に耳打ちされた。
「他の男とは楽しそうに踊っていたくせに、婚約者である俺とは踊れないとでも言うつもりか?」
「良いわよ。踊ってやろうじゃない」
相変わらず腹が立つ男だ。何処までも世間体が大事らしい。
踵の痛みを無視し、気力を奮い立たせて、男が差し出した手を取った。
一歩動く度に踵が擦れ、ますますズキズキと痛んでくる。だけど意地でも気取られたくなくて、私は微笑みを浮かべながら、歯を食いしばって痛みをやり過ごし、何とか一曲踊り切った。
「流石に上手いな。もう一曲どうだ?」
「調子に乗らないでくれる?」
小声で告げながら、男を睨み上げる。
もう限界だ。踵が痛くて痛くて、少しでも気が緩むと顔に出てしまいそうだ。やっぱり意地を張るんじゃなかった。
「クリス」
聞き慣れた声がしたかと思うと、次の瞬間、私の身体は宙に浮いていた。
「お、お兄様?」
「ライアン殿。やはり君には、妹を任せられないな」
「どういう事ですか?」
怪訝そうな顔で問う男に冷たい視線を送って、お兄様は私を横抱きにしたまま、優雅に歩き出す。美形であるお兄様はただでさえ人目を引くのに、そのお兄様に抱き上げられるだなんて、目立つ事この上ない。
「お兄様、下ろしてください。自分で歩けますわ」
「いいからしっかり捕まっていなさい、クリス」
お兄様の声はいつもよりも低い。やばい、お兄様が怒っている。
即座に口を噤んだ私は、大人しくお兄様の首に手を回した。恥ずかしくて仕方がないけれど、こうなってしまった以上、もうどうしようもない。自業自得だ。
休憩室に入ったお兄様は、私をソファーの上にそっと下ろしてくださった。お兄様はそのまま私の足元に跪き、靴を脱がせて踵の状態を確認する。
「皮が剥けて、血が出ているじゃないか。相当痛かっただろう」
「お兄様、何時からお気付きに?」
「クリスが彼と踊っている時だよ。僅かだけど、足を庇って動きが鈍くなっていた。父上から離れた時は、既に痛かったんじゃないか? なのに何で無理してダンスなんかしたんだ」
「申し訳ありません。俺が、クリスに無理を言いました」
その声に振り返ると、青褪めた男が部屋の入口に立ち尽くしていた。どうやら後を追い掛けて来ていたらしい。
お兄様は立ち上がると、男に歩み寄り、その胸倉を掴んだ。
「君はこんな状態のクリスに気付かなかったのか? それとも、気付いていながらクリスに無理をさせたのか?」
「全く気付けませんでした。全ては俺の不徳の致すところです」
「そうか。どちらにしろ、君のした事は最低だ」
「お兄様、ライアン様を責めないでください。私は私の意思で、ライアン様と踊ったのですから」
「……クリスが、そう言うのなら」
お兄様は私を一瞥すると、男から手を離した。
「クリスに庇われる君が憎いよ。八つ裂きにしてやりたい所だが、可愛い妹が悲しむのは、僕の本意ではない」
お兄様は男にそう言い捨てると、手当てを頼みに部屋を出て行かれた。
「気付いてやれなくて、無理をさせて悪かった」
殊勝にも、男が謝ってきた。
「別に、あんたのせいじゃないわ」
「何故言ってくれなかった? 俺だって、無理をしてまで踊って欲しかった訳じゃない」
「あんたに弱みを見せたり、借りを作ったりしたくなかったからかしら」
「……そうか」
私が答えると、男が傷付いたような、思い詰めたような顔になった。何だか悪い事をしたようで、罪悪感が湧いてくる。
「次からはちゃんと言う事にするわ。私だって、痛みを我慢しながら踊りたい訳じゃないもの」
目を伏せながら言うと、男は近付いて来て跪き、私の両手を握り締めた。
「頼むからそうしてくれ。絶対だぞ。二度とこんな真似はしないでくれ」
「わ……分かったわ」
あまりにも真剣な男の声色に息を呑む。
まさかとは思うけど……もしかして、本気で心配してくれているのだろうか?
「君は何をしているんだ!?」
突然響いた怒声に驚いて振り返ると、何時の間にか戻って来ていたお兄様が、肩を怒らせながら駆け寄って来ていた。
「まさか君は、僕のいない隙にクリスに不埒な真似を……!?」
「誤解ですわお兄様。そのような大きな声で叫ばないでくださいませ。誰かに聞かれたらどうなさるおつもりですの?」
「ご、ごめんよクリス」
私がはっきりきっぱり即答すると、男に掴み掛かろうとしていたお兄様は、慌ててその手を引っ込めた。
どうやら他に聞いていた人はいないようだし、お兄様が呼んで来て私の手当てをしてくれた王宮のメイドも、きちんと理解してくれたから良かったようなものの、一歩間違えれば、私の不名誉な噂が立つ所だった。靴擦れに気付いて素早く助けてくれたお兄様には感謝しているけれども、私への重たい愛情は、もう少し自重して欲しい。
3/13、誤字修正しました。